御土居下御側組同心
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沿革
名古屋城築城
慶長12年(1607年)に徳川家康の四男で尾張清洲藩主だった松平忠吉が死去すると、旧領は家康の九男の徳川義直に与えられた[22]。当時まだ大坂に健在だった豊臣氏が江戸へ進軍した場合のことを考えると、美濃路と伊勢路が合流する交通の要衝である濃尾平野は戦略上重要であった[1][22]。しかし、当時清洲藩の藩庁が置かれていた清洲城は比較的狭く、すぐ側を五条川が流れることから氾濫の危険があり、また水攻めを受ける可能性もあった[22]。
そのため、慶長14年(1609年)に家康は、清洲城に代わる義直の居城として名古屋城の築城を決定[23]。同年のうちに縄張と地割を行い、翌慶長15年(1610年)閏2月には諸大名を動員しての天下普請として工事に着手した[23]。先行して工事を進めた本丸・二の丸・西の丸・御深井丸については同年12月までに堀や石垣も含めて土木工事をすべて終えて建築工事に移り、慶長17年(1612年)末頃に完成した[24]。平行して同年1月から三の丸の造成に入っていたが、この土木工事は困難を極め、特に三の丸北東部の丘陵を削って土居を造り、余った土で土居の北の沼沢地を埋め立てる工事は、死者を出すほどの難工事となった[25]。豊臣氏との対立が深まっていた家康は工事を急ぎ、慶長19年(1614年)7月に一部が未完成であったが工事を終えた[26]。当初の計画では三の丸まで含めた城全体を堀で囲み塀を巡らす計画であったが[27]、三の丸北辺の東西約4町については堀も塀もまだ築かれていなかった[1][26]。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると堅固な城を建てる差し迫った必要性が減少したため、工事は再開されることなく終わった[1][28]。
こうして名古屋城三の丸の北辺は土居のままとなった[1][28]。後に御土居下と呼ばれるようになる土居の北側の沼沢地を埋め立てた地域は、当初「鶉口(うずらぐち)」と呼ばれていた[29]。鶉口とは非常口や裏口の意味であり、築城当初から、この地域が万が一の時の脱出経路として想定されていたことが分かる[30]。
御土居下御側組の成立
鶉口に最初に住居を構えたのは久道家であった[2][31]。久道家は清洲城で高麗門の門番を務めており、高麗門が名古屋城に移築されると引き続き門番を任され、そのすぐ脇の鶉口に住居を与えられた[2]。続いて慶安3年(1650年)には、鶉口に危急時の脱出用の馬を管理する厩が設けられ[32]、乗馬の達人であった細野新三郎とその弟子の馬場半右衛門が鶉口に移り住んだ[33][34]。しかし、脱出経路と考えられていた名古屋城の北部周辺は沼沢地であり脱出手段として馬の使用は不適切であったことから[7][35]、元禄5年(1692年)に厩は廃止されて細野家は鶉口から去った[33][34]。同年、鶉口の東に東矢来木戸ができると、その番所勤務を命じられた加藤家・入江家が鶉口の住民となった[33][36]。この頃、2代藩主光友が天守から鶉口を望み、改めて鶉口の重要性を認識して常駐する警備役の増員を指示したといわれている[33][37]。
8代藩主宗勝の代の宝暦7年(1757年)になると、鶉口に屋敷を構える家は、大海家など12家が加わって16家となっていた[33]。この年に、非常口や裏口を意味する「鶉口」の名は秘密の脱出経路の地名としてはあまりにあからさまであるため使用が厳禁され、以後この地域を指す名称として「御土居下」が使われるようになった[30][38]。9代藩主宗睦の代の寛政5年(1793年)には、「御土居下御側組同心」として尾張藩の職制に正式に組み込まれた[39][注釈 4]。その後、絶家や転居により2家が抜け、4家が新たに加わったため、文政年間(1818年-1830年)には18家となり[33]、嘉永年間(1848年-1854年)にも3家の入れ替わりがあった[40]。
明治維新後
江戸時代の二百数十年は平穏に過ぎ、幕末の戊辰戦争も尾張藩は早々に官軍側に立ったため、名古屋城は戦渦に巻き込まれることなく明治維新を迎えた[20]。藩主も東京へ移り、守るべき対象がいなくなった御土居下御側組同心は、明治2年(1869年)に大海家の当主が尾張徳川家に忍駕籠を返還して正式にその役目を終えた[20][41]。この時、大海家から返還の申し出を受けた尾張徳川家の関係者は忍駕籠の存在を知らなかったため逆にその由来を問い合わせたという話が、忍駕籠の存在について尾張藩の中でもごく一部の最高幹部のみが知る極秘事項であったことを示す逸話として伝わっている[41]。
維新後、久藤家は湯葉の製造販売に乗り出して成功し、「御土居下の湯葉屋」と呼ばれるようになった[5]。岡本家では、当主の唯三が、「梅英」の号で画壇で活躍した[42]。しかし、このような者は少数であり、御土居下御側組の元同心たちの多くは社会の激変に対応できなかった[5][43]。明治10年(1877年)頃から徐々に土地と屋敷を手放して御土居下を離れる者がで始め、明治38年(1905年)に残っていたのは6家のみとなっていた[5][注釈 5]。
そして明治40年(1907年)4月30日、御土居下の大部分が陸軍によって接収され[44]、わずかに残った東矢来木戸の番所周辺も、翌明治41年(1908年)に瀬戸電気鉄道によって鉄道敷設のため買収されて、御土居下の同心屋敷は完全に姿を消した[45][46]。陸軍に接収された部分は、終戦後は愛知県の職員アパートや自動車運転者試験場が建てられた[45]。また瀬戸電気鉄道は、買収した土地に外濠線を開通させて御土居下には土居下駅が設置されたが、現在は経路変更により廃駅となっている[45][46]。
注釈
- ^ 御土居下御側組同心を忍者とするものもある(高木(1994)、29頁)が、御土居下御側組の子孫で自身も御土居下に住んでいた岡本柳英は、御土居下御側組同心で忍術で知られた広田増右衛門を評して「尾張藩にて忍術の心得あるものは、極めて稀であった」(岡本(1980)、133頁)と述べている。
- ^ これとは別に、本丸から二の丸・三の丸の下を通り東大手門の北の外堀に通じる地下の抜け道があったとする説もあるが、その存在は確認されていない(高木(1994)、29頁)。
- ^ 岡本柳英は「城の東北隅階段から」と述べている(岡本(1980)、5頁など)が、初期を除き藩主は二の丸で生活したことや埋門があるのは二の丸側であることから、ここでは生駒(1995)に拠る。
- ^ これ以前には「御庭足軽組」と称していたとする文献もあるが、岡本柳英はこれに疑問を呈し、それ以前には特別な名称はなく、この時に初めて名称を与えられたと主張している(岡本(1980)、72、84-86頁)
- ^ 逆に、御土居下の閑静な環境に惹かれて新たに移住してくる者もいた(岡本(1980)、221頁)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村(1990)、220頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 生駒(1995)、140頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、86頁。
- ^ 岡本(1980)、63頁。
- ^ a b c d 岡本(1980)、221頁。
- ^ 岡本(1980)、27頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l 生駒(1995)、142頁。
- ^ 岡本(1980)、51-55頁。
- ^ a b c d e f g h 生駒(1995)、144頁。
- ^ a b c d e 岡本(1980)、93頁。
- ^ a b c 窪田(1994)、22頁。
- ^ 高木(1994)、29頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 生駒(1995)、143頁。
- ^ 岡本(1980)、114頁。
- ^ 岡本(1980)、115頁。
- ^ 岡本(1980)、89頁。
- ^ 岡本(1980)、117-118頁。
- ^ 岡本(1980)、112頁。
- ^ 岡本(1980)、118頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 中村(1990)、221頁。
- ^ 岡本(1980)、62頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、16頁。
- ^ a b 岡本(1980)、21頁。
- ^ 岡本(1980)、23-24頁。
- ^ 岡本(1980)、32-35頁。
- ^ a b 岡本(1980)、37頁。
- ^ 岡本(1980)、39頁。
- ^ a b 岡本(1980)、38頁。
- ^ 岡本(1980)、57頁。
- ^ a b 岡本(1980)、57-58頁。
- ^ 岡本(1980)、66頁。
- ^ 岡本(1980)、67頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 生駒(1995)、141頁。
- ^ a b 岡本(1980)、68-69頁。
- ^ 岡本(1980)、67-68頁。
- ^ 岡本(1980)、70頁。
- ^ 岡本(1980)、70-71頁。
- ^ 生駒(1995)、140-141頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、84頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 岡本(1980)、81頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、142頁。
- ^ 岡本(1980)、221-222頁。
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- ^ a b 岡本(1980)、133頁。
- ^ 岡本(1980)、133-134頁。
- ^ 岡本(1980)、73-74頁。
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- ^ a b c d 岡本(1980)、145頁。
- ^ 岡本(1980)、146-147頁。
- ^ 岡本(1980)、149頁。
- ^ a b 岡本(1980)、131頁。
- ^ 岡本(1980)、144頁。
- ^ 岡本(1980)、127頁。
- ^ a b 岡本(1980)、130頁。
- ^ 岡本(1980)、129頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、83頁。
- ^ a b c 岡本(1980)、132頁。
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