世界恐慌
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世界経済への波及
イギリス
世界恐慌のあおりでシティ・オブ・ロンドンの債権は焦げついた。即座に短資が逃げ、イングランド銀行には兌換のため人が殺到した。ここで2つの報告書が提出され、ポンドの安定とシティの権威を揺さぶったのである。報告書の一つをマクミラン報告という。1929年、金融産業委員会(通称マクミラン委員会)が設置された。スコットランド出身の元裁判官であるマクミラン卿 (Hugh Macmillan) が座長となり、英国の経済実態を精査して、ジョン・メイナード・ケインズを主筆に報告書を作成した。マクミラン報告は、シティの資本がイギリス国内の産業に振り向けられず海外投資へ傾いていたことを糾弾した。もう一つをメイ報告書という。1931年2月にメイ委員会が設置された。保険業界の重鎮であったジョージ・メイ (George May) が座長となり、財政収支展望と歳出削減案を提示することになったのである。作成されたメイ報告書が「抜本的な」歳出削減案の必要性を唱えた。世界の投資家と内外の世論が報告書に解釈を与えた。ポンドは国内へ投下されないから、この価格を伝統的なデフレ政策で支えても財政赤字を免れないというのである。金本位制の瓦解は時間の問題となり、空前の金流出が起こった[41]。
労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。
勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成した。イギリスはこれを母体にブロック経済政策を推進していくことになる。ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる。
イタリア
イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う[42]。
1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。
フランス
フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルク[注釈 11]をドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていた[注釈 12]が、現金での支払いを求め1923年1月11日にルール地方を占領していた[43]。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランスは為替相場で下落しインフレが昂進した[44]。1924年6月、ガストン・ドゥメルグが大統領となった。1926年から翌年にかけて景気後退を示すような諸指標が見られたが、1927年春以降改善に向かい、フランスの工業生産は1930年まで上昇した[45]。
1928年には金為替本位制に復帰したがイギリスが旧平価で復帰したのに対し、フランスはフラン安の新平価で復帰したため経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となった[46]。
フランス経済は世界恐慌の影響を1931年まで逃れることに成功した[47]。すなわち、フランス植民地金融社の経営危機まで堅調だった。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価も著しく低下した。労働時間給はゆるやかに下降を始め、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6か月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した[48]。
1935年5月、仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。人民戦線内閣は当初平価切り下げを渋ったが、やがて物価の不安定なまま実施して国際連盟から失策を指摘された[45]。
ドイツ
ヴァイマル共和政時代のドイツは第一次世界大戦の敗戦で連合国から巨額の賠償金を請求され、フランスのルール占領に伴うハイパーインフレーションにより、従来の賠償金徴収体制が崩壊したことは明らかとなった。このためアメリカを賠償金支払いプロセスに参加させることで円滑な支払いが可能になり、またアメリカをはじめとする外国資本がドイツに導入され、ドイツ経済は回復傾向が続いていた。
しかし大恐慌によってドイツ経済は深刻な状態へ陥った。アメリカ資本は次々と撤退し、復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。失業率は40パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。さらに1931年3月23日に、ドイツがオーストリアと締結した関税同盟をヴェルサイユ条約違反だと非難したフランスが、制裁としてオーストリアから資本を引き揚げたことがきっかけとなりオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻したことは欧州全体に深刻な金融危機をもたらした。さらに賠償問題を解決するため、新たに検討されたヤング案に対する反発は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の躍進をもたらした。ハインリヒ・ブリューニング首相はこの危機にデフレーション政策で対応しようとしたため、かえって経済危機は深刻となった。ブリューニングが解任された後のフランツ・フォン・パーペン内閣とクルト・フォン・シュライヒャー内閣では、雇用拡大政策による経済安定化を図ろうとしたが、政権基盤が不安定であったために十分な成果を上げられないまま退陣した。
1933年、1月30日ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。ヒトラーらとナチ党は、ドイツ国会議事堂放火事件を口実にドイツ共産党やドイツ社会民主党を弾圧し、ドイツ国内の権力を掌握した(ナチ党の権力掌握)。この間、前内閣で採用された雇用拡大政策と、6月からの第一次ラインハルト計画、9月からのアウトバーンの建設、秘密再軍備などで失業者は急速に減少した。ドイツの恐慌からの回復はイギリスやアメリカに比べても極めて早く、同時代人の注目を集めた[49]。これらの資金はメフォ手形などの手形を利用する特殊なものであった。しかしヒトラーにとって経済政策は「すべてを軍に」向かわせるためのものであり(ナチス・ドイツの経済)[50]、1936年から開始された第2次四カ年計画では自給自足経済(閉鎖経済)体制と、さらなる軍備拡大が継続された。チェコスロバキア問題などの軍事行動で政府の債務は膨らみ、1938年には2度支払い不能になる事態となった[51]。インフレ圧力が再び強まる中、拡張政策が継続されることになる[51]。
日本
1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた[注釈 13]。
第一次世界大戦の戦勝国の1国となり、大戦景気で日本経済は安定してたものの、戦後恐慌震災恐慌、昭和金融恐慌によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌(昭和恐慌)の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物(特に繭)は売れ行きが落ち価格が低下した。1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増した。1935年に公共土木事業が打ち切られ、生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1932年より始まる農山漁村経済更生運動(自力更生運動)、1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、日本の統治下となっていた台湾や、日本の支援を受け建国されたばかりの満州国などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。日中戦争(大東亜戦争)が始まった1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、太平洋戦争におけるイギリスやアメリカ、オーストラリアなどに対する優勢が続いていた1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし戦時下の統制経済下であり、生活物資不足となっていた。
1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発に伴うインフレ傾向が明確になり始め、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[52]。
経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)を基に包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された[53][54][55][56][57][58][59][60][61][62]。
中国
中国は当時南京国民政府の成立(1928年)当初であり、清朝以来の幣両制を元制に移行させつつある段階であった。中華民国の主要な港湾はすべてイギリスにより支配されており、関税自主権を持たない状況にあった。
中華民国は銀元を用いる最後の銀本位制採用国であった。世界恐慌で銀価格が暴落し輸入商品の価格を騰貴させたが、世界では銀需要国として銀相場が比較的高かったので世界中の銀が中国へ流れ込み(1929年から1931年に3.4億元)さらに物価を上昇させ、農村から経済を破壊してゆき、やがて工業製品も売れなくなっていった[63]。
1931年9月に立て続けに発生した満州事変とイギリスの金本位制度離脱は中華民国の経済にとって負の画期であり、国際交易ではそれまでの銀流入傾向が流出に転じ、物価の下落や商工業・海外貿易の縮小に見舞われた。
ここでアメリカのトマス附属書が影響する。アメリカが銀の法定備蓄を開始すると (Silver Purchase Act of 1934)、国際市場での銀価格は急騰した。中国から大量の銀が流出し、国内金利は高騰した。そして物価が下落したり、銀行が倒産したりした。
ソ連
ソ連は社会主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続け、1930年にはGDP2523.3億ドルでイギリスを超えて世界第2の経済大国になった[64]。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された[65]。
世界各国が大恐慌に苦しむ中、計画経済で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の上流階級で裏切りが続出し、スパイになる人材が輩出されたことは冷戦時代に大きな意味を持った[66]。
注釈
- ^ 靴磨きの少年の名前はパット・ボローニャという。このエピソードはバブルの本質を表しているが、事実関係は明らかでない。ジョセフがいつどこで述べたかも不明である。株価暴落には仕掛け人がおりジョセフが関係者であるという説は根強い。息子であり大統領であるJFKの妻ジャクリーヌの実家ブビエ家も大恐慌前に売り抜けた証券取引人であり、これがこの疑惑を強化している。後にジョセフが初代証券取引委員会 (SEC) 委員長となって辣腕で証券業界を取り締まり、政界進出を果たしたことも疑いを深めている。なお、ケネディと並ぶ当時の投機屋としてジェシー・リバモアが知られている。
- ^ これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった。
- ^ ダウ平均で12%
- ^ これは当時のアメリカ合衆国連邦政府年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。
- ^ パリ連合銀行とも。1906-1910年の間、露清銀行と合併した北方銀行に資本参加していた。戦後、ロスチャイルドと原子力企業COFINATOME を支配した。1970年代、スエズ金融が商工信用銀行を支配する代わりに、パリバが自身の傘下となったばかりのクレディ・デュ・ノルへユニオン・パリジェンヌを吸収した。クレディ・デュ・ノルは元々ソシエテ・ジェネラルが支配していた。1997年から再びソシエテ・ジェネラルが支配している。
- ^ ウォルムズ銀行は英名。フランス語ではヴォルム銀行。第二次世界大戦中ヴィシー政権と癒着した。戦後ミッテランが出るまで国有化されなかった。
- ^ 同名の父親 (1844-1907) は、オスマン銀行の監査(1874-1877) とソシエテ・ジェネラルの重役 (1880-1890) を務めた。
- ^ 名前がSOFFOと似たSociete Financiere pour les Pays d'Outre-mer (SFOM) はスイス銀行のシンジケートで、15のアフリカ系銀行を傘下に収めた。SFOM には、ランベール、コメルツ銀行、バンカメなどが参加している。ランベールの参加事実は出典が出せる。[24]
- ^ ブロック経済は自前の植民地経済圏を保持していた大国が採った対応策の一つ。帝国主義論によれば「植民地獲得競争で後れを取っていたドイツ・イタリア・日本の対外拡張主義暴発の要因となる」と説明されナチスの生存圏理論が引き合いに出されるが、時間軸上では枢軸国の海外進出政策とブロック経済は必ずしも因果関係や前後関係にない。
- ^ 当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった
- ^ 金本位制による通貨で現在価値で約40兆5千億円
- ^ 家畜、農産物、工業製品などで、ドイツは約450億金マルクと算定していた。
- ^ 金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで。当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる。
出典
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