七人の侍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 07:27 UTC 版)
スタッフ
- 製作:本木荘二郎
- 監督 :黒澤明
- 監督助手:堀川弘通(チーフ)、廣澤栄、田実泰良、金子敏、清水勝弥
- 脚本:黒澤明、橋本忍、小国英雄
- 撮影:中井朝一
- 撮影助手:斎藤孝雄
- 編集:岩下広一
- 音楽:早坂文雄
- 美術:松山崇
- 美術助手:村木与四郎
- 美術小道具:浜村幸一
- 衣装:山口美江子(京都衣裳)
- 録音:矢野口文雄
- 録音助手:上原正直
- 音響効果:三縄一郎
- 照明:森茂
- 照明助手:金子光男
- 美術考証:前田青邨、江崎孝坪
- スチル:副田正男
- 製作担当者:根津博
- 剣術指導:杉野嘉男 (日本古武道振興会)
- 流鏑馬指南:金子家教 (日本弓馬会範士) 遠藤茂 (日本弓馬会範士)
- 記録:野上照代
- 結髪:中条みどり
- 粧髪:山田順二郎
- 演技事務:中根敏雄
- 現像:東宝現像所
製作
脚本
1952年、黒澤明は『生きる』の撮影中に、次回作として「本物の時代劇」を作ろうと考えた[3]。黒澤はこれまでにはない徹底したリアルな時代劇を作るため、橋本忍とある城勤めの下級武士の平凡な一日を描く『侍の一日』[注釈 6]という作品を構想した[9]。そこで侍の日常生活から城勤めに関する詳細までを調べるため、橋本は先行して上野の国立国会図書館に通うが、「当時の侍の昼食は、弁当持参だったのか、給食が出たのか」「当時は1日2食であり、昼食を摂る習慣はなかったのではないか」等の疑問が解決できず、物語のリアリティが保てないという理由で断念した[9]。
次に上泉信綱などの剣豪伝をオムニバスで描く『日本剣豪列伝』を企画し、橋本が初稿を執筆するが、クライマックスの連続では映画にはならないためこれも断念した[10]。その後、黒澤と橋本はふとした話から、戦国時代の浪人は全国を旅して回る武者修行でどのように食べていけたのかという疑問が出てきて、それを東宝の文芸部員に調べさせたところ、結果報告に来た本木荘二郎から、「宿泊先の道場や寺院がない場合は、百姓に雇われて飯と宿を与えてもらう代わりに、盗賊などから村を守っていた」という話が出てきた[10]。この話が元となり、百姓が侍を雇うという本作のストーリーの根幹が生まれた。
1952年12月、黒澤と橋本は小国英雄を加え、熱海の旅館「水口園」に投宿して脚本執筆を開始した[11]。黒澤は七人の侍のキャラクターのイメージを大学ノート数冊にびっしりと書き込み、その内容は身長から草履の履き方、歩き方、他人との応答の仕方、背後から声をかけられたときの振り返り方など、ありとあらゆるシチュエーションに対応する立ち居振る舞いにまで及んだ[10]。脚本執筆は橋本が第1稿を書き、それを黒澤と橋本が根本的に書き直し、2人が同じシーンを書いたものを小國が判定して良いところだけを取り、完成すると次のシーンに移るという形で進められた[12]。その緊迫感はお茶を運びに来た女中も怖くて部屋に入れないほどだったという[10]。
キャスティング
久蔵役は三船敏郎を想定していたが、シナリオ段階で侍と百姓を結びつける人間が必要になり、そこで農民出身で侍に憧れるニセ侍の菊千代という型破りなキャラクターを登場させ、それを三船が演じることになった[11][13][14]。三船は脚本を読んで、黒澤に「菊千代というのは僕ですね」と配役も告げていない段階で言ってきたという[14]。菊千代のおどけた場面は、すべて三船の演技プランによるものである[15]。
久蔵は宮口精二が演じることになった。宮口は剣道の経験が全くなかったため、「こんなえらい剣豪なんてやれません」と断ろうとしたが、黒澤に「そこはカメラで何とでもするから」と説得された[16]。それからは剣術指導の杉野嘉男のもとで刀の抜き方から特訓を受けた[17]。しかし、板木の音で水車小屋から6人の侍が飛び出すシーンでは、宮口の走りが一番速く、走り方も腰が据わっていたため、黒澤は安心したという[14]。宮口は「僕はあの役を演って、本当によかった。あれは大変なもうけ役なんだよ。あんないい役は、一生に一遍、あるかないかだなあ」と語っている[16]。
利吉役には新人を起用すべくオーディションが開催されたが、最終的にはオーディションに参加しなかった土屋嘉男が起用された[18]。土屋はパチンコから劇団俳優座に戻った際に、同劇団でオーディションを行っていた黒澤とトイレですれ違っただけであったという[18]。また、土屋によれば当初は木村功が利吉役の予定であったといい、木村から「役をとられちゃった」とぼやかれることもあったと述懐している[18]。土屋は撮影後に登山へ赴くことを予定していたが、撮影期間が延びたため撮影途中で山へ行こうとしたところを黒澤に説得され、監視も兼ねて黒澤の自宅に居候することとなった[18]。
村人役は、主要俳優を除くと東宝の大部屋俳優が23人、エキストラ業者の俳優が17人、劇団若草やこけし座などの児童劇団の子役が18人参加した[7]。劇団若草の二木てるみも3歳で百姓の幼児役で出演した[19]。百姓役の加藤茂雄によれば、当時加藤らは東宝専属ではなく演技協社(全国映画演劇労働組合東宝演技者支部)との契約による参加であったが、本作品の撮影遅延により専属俳優が必要となり、演技協社の俳優が東宝専属として迎えられることになったという[20]。
家族を野武士に殺された久右衛門の婆様役は、助監督の廣澤栄が杉並区の老人ホームで役探しをして見つけてきた、キクさんという女性が演じた。キクさんは東京大空襲で家族を失ったという役と同じ人物で、廣澤たちが懸命にセリフを覚えさせたが、本番では「身寄りがB-29のために殺されて…」と口走り、スタッフを困らせた。黒澤は「感じが出ているから」とOKにし、台詞は三好栄子が吹き替えした[7]。村の広場に百姓を集めて侍たちが訓示する場面では、キクさんと同じ老人ホームの女性たちも出演した[21]。
俳優座養成所時代の仲代達矢は、本作で町を歩く浪人役で出演している。仲代の出番はただ歩いて通り過ぎるだけの数秒だったが、黒澤から何度も歩き方でダメ出しされた。撮影は朝から始まるも、OKが出たころには午後3時を回っていた。しかし、黒澤には仲代の印象が残っており、のちに『用心棒』に起用された時に、黒澤から「あのときの仲代を覚えていたから使ったんだ」と言われたという[22]。
撮影
撮影地
撮影の大部分は、東宝撮影所付近のオープンセットと、静岡県伊豆や神奈川県箱根などでのロケーション撮影で行われた。屋内セットはスタジオ内に組んだ「木賃宿」「水車小屋」「利吉の家」の3杯のみで、それ以外はすべて野外で撮影された[25]。主なオープンセットとロケーションの場所は以下の通りである。
- オープンセット
- 村の中心部 – 東宝撮影所手前の仙川沿いの田んぼ(後の東京都世田谷区大蔵団地)[26][27]
- 村の北側の森(水神の森) – 東京都世田谷区大蔵のオープンセットの外れ[25][26]
- 町(木賃宿、八角堂、茶屋など) – 東宝撮影所の農場オープン(後の東宝ビルト)[25][27]
- 豪農の家、山塞 – 東宝撮影所オープン[25]
- ロケーション
- 村の全景、北の斜面 – 静岡県函南町下丹那[25][26][27]
- 村の東と南(水車小屋など) – 静岡県伊豆市堀切[25]
- 村の北と西 – 静岡県御殿場市用沢、二の岡[25][26]
- 村の裏山(勝四郎と志乃のラブシーンなど) – 神奈川県箱根町仙石原、長尾峠[25][27]
- 滝(三船が鮎を捕まえて食べる場面) – 鮎壺の滝[24]
- 山塞へ行く道中 – 静岡県伊豆の国市珍場、沼津市口野[25]
物語の中心となる村は、日本中の何処にでもある典型的な農村の原風景を想定し、北は福島県から西は岐阜県までロケーション・ハンティングを40日近くも行ったが、適地を見つけることはできなかった[27][28]。そこで地形ごとに別々の場所で撮影してひとつの地域のように見せることにした[29]。村内は東宝撮影所手前の田んぼを借用してオープンセットを作り、村の東と南は伊豆堀切、西は御殿場市、北の斜面と村の全景は下丹那、裏山は箱根で撮影した[25][27][30]。村の全景のセットはオープンセットとは別に作られ、丹那トンネルの真上から俯瞰で撮影したが、その時に電柱がどうしても画面に入ってしまうため、東京電力に頼んで一時的に電柱を移設した[28]。
撮影進行
1953年5月27日、豪農家の門前で利吉と万造が言い争いをするシーンでクランクインした[27]。撮影初旬の黒澤は体調が優れず、7月10日にサナダ虫で入院して2週間撮影中断した[31]。9月までに伊豆でのロケーション、水車小屋や木賃宿の室内シーン、町のオープンセットでの侍探しや果し合いのシーンなどを撮影した[32]。
裏山での勝四郎と志乃のラブシーンは、シナリオではスミレの花畑を想定していたが、季節的にスミレは咲いておらず、スタッフ全員で山の中で野菊の花を摘み、それを植えて花畑を再現した[33][34]。このシーンは箱根長尾峠を越えた国道下の暗い森の中での撮影で、十分な光量を得られなかったため、スタッフが宿泊していた旅館の鏡を総動員し、国道から鏡を並べて太陽光をリレーのように鏡で反射させて現場まで持って行った[27][35]。この方法は『羅生門』でも用いていた[35]。しかし、志乃役の津島恵子は、鏡の反射による強い太陽光で直接眼にキャッチライトを入れられ、それ以来眼が弱くなったという[27]。
当初は10月上旬の封切りでスケジュールが組まれ、撮影期間は90日、完成は9月17日を予定していたが、実際の撮影進行は大幅に遅れた[25][36]。助監督の堀川弘通はその理由として、ひとつの村を別々の場所で撮影したこと、野外撮影中心のため天候に左右されやすかったこと、その上にこの年が異常気象だったこと、スタッフがスケールの大きい活劇に不慣れだったことを挙げている[25]。9月に入ってもまだ全体の3分の1しか撮影しておらず、当初の予算も使い果たしていた[36][37]。スタッフには「いつクランクアップするか」の賭けをする人もいた[27]。東宝の重役会では「続行か、中止か」で揉めて撮影中断となり、その間黒澤は多摩川で鯉釣りをして過ごした[35]。黒澤は千秋実に「資本家というのは、いったん出した金は必ず回収する。まあまあ釣りでもしてろ」と語ったという[37]。結局、会社側は製作続行を決めて追加予算を出し、11月に撮影所前の村のオープンセットで撮影再開した[35]。
それでも撮影は遅れ、しびれを切らした会社は今までの撮影分を編集して見せるように要求し、1954年1月に再び撮影中断した[38]。黒澤は粗編集したフィルムを会社幹部の前で試写したが、そのフィルムは菊千代が屋根に旗印を立てて、「ウアー、来やがった、来やがった!」というシーンで終わっていた[38]。クライマックスの決戦シーンは、豪雨でセットが滅茶苦茶になることが初めから分かっていたため、予定を後回しにしており、会社側に対して意図的にスケジュールを組んだわけではなかったが、このままでは完成させようがないため、撮影続行となった[38]。
こうした撮影遅延により、6月頃の設定である豪雨の決戦シーンは真冬の2月に撮影した[17][39]。1月24日の大雪でオープンセットには30センチの雪が積もり、スタッフは消防団や学生アルバイトを動員し、3日かけてホースで水を撒いて雪を溶かした[27][38]。地面は膝までつかるほど泥でぬかるみ、そこに数台の消防ポンプで雨を降らせたため、撮影は極寒の過酷な状況下で行われた[40]。3月19日に野武士の山塞を焼き討ちするシーンでクランクアップした[31]。このシーンの撮影では、スタッフがセットにガソリンをかけ過ぎたため、本番で火を付けると想像以上に火勢が激しくなり、利吉役の土屋嘉男は山塞の中にいる女房に近づこうとするところでバックドラフト現象に遭遇し、顔面火ぶくれになった[41][42]。
音楽
音楽を担当した早坂文雄は、当時肺結核を患っていたが、他の仕事と並行しながら1年かけてデッサンを書いた。早坂は書きためた曲を、黒澤の前で1曲ずつピアノで弾き、黒澤のダメ出しを受けながら修正して曲のアウトラインを決めた[44]。音楽は単純明快な表現にするためライトモチーフ方式を採用し、モチーフとなる「侍のテーマ」「野武士のテーマ」「志乃のテーマ」「菊千代のテーマ」「百姓のテーマ」の5つの曲を作り、それらを場面の雰囲気や状況に合わせて、さまざまな楽器により変形させて演奏することにした[43]。
主題曲ともいえる「侍のテーマ」は勇壮なマーチ風である[43]。この曲ははじめ早坂が用意したデッサンがすべて没案となり、そこで早坂がごみ箱に捨てていた楽譜[注釈 7]をピアノで弾いたところ、黒澤が気に入り採用したものだった[44][45]。「志乃のテーマ」は黒澤が早坂らしい曲と評した[14]。タイトルバックの「野武士のテーマ」は太鼓と弓弦で不気味さを出し[45]、「菊千代のテーマ」はボンゴやサックスで演奏し、「百姓のテーマ」は百姓の恐怖のうめきを男声のハミングコーラスで表現した[43]。ラストシーンで百姓たちが唄う「田植え唄」は、早坂が日本中の囃子言葉を調べて作詞し、プレスコで録音した[44]。
オーケストレーションはクランクアップ後の4月1日から6日間かけて行われ、早坂邸に佐藤勝、佐藤慶次郎、武満徹が集まり、早坂の指示により分割作業で楽譜を書いた[43]。ダビング作業は4月8日から12日間かけて行われたが、早坂の体調を考えて休みが設けられ、実質は7日間行われた[43]。ダビングでも1曲演奏するたびに議論と修正が繰り返され、佐藤勝は「朝からテストして、1曲OKになったのが夕方5時なんてのが、ザラにありましたよ」と述べている[43]。菊千代が屋根の上に旗を立てるシーンで流れるトランペットの「侍のテーマ」は、室内録音ではいい音が出ず、撮影所の壁にぶつけて吹いた音を録音したが、この録音だけで一晩かかり、近所から苦情が相次いだという[46]。
サウンドトラック
早坂が作曲したサウンドトラックは、1954年5月13日に日本コロムビアからSPレコードで発売された[47]。同年11月には「侍のテーマ」に歌詞を付け、山口淑子が歌唱した「七人の侍」という題名のレコードが発売された[3][47]。レコードでは早坂が作詞したことになっているが、黒澤は「早坂と私と二人で作った」としている[3]。2001年に東宝ミュージックからサウンドトラックCDが発売されており、それに収録されている曲は以下の通りである[48][49]。
全作曲: 早坂文雄。 | ||
# | タイトル | 時間 |
1. | 「タイトル・バック」 | |
2. | 「水車小屋へ」 | |
3. | 「侍探し 一」 | |
4. | 「勘兵衛と勝四郎~菊千代のマンボ」 | |
5. | 「利吉の涙?白い飯」 | |
6. | 「侍探し 二」 | |
7. | 「五郎兵衛」 | |
8. | 「やりましょう」 | |
9. | 「釣り落とした魚」 | |
10. | 「六人の侍たち」 | |
11. | 「型破りの男」 | |
12. | 「出立の朝」 | |
13. | 「旅風景~俺たちの城」 | |
14. | 「野武士せり来たり」 | |
15. | 「七人揃いぬ」 | |
16. | 「勝四郎と志乃」 | |
17. | 「勝四郎、帰る」 | |
18. | 「寝床変え」 | |
19. | 「水神の森にて」 | |
20. | 「麦畑」 | |
21. | 「勘兵衛の怒り」 | |
22. | 「間奏曲」 | |
23. | 「刈り入れ」 | |
24. | 「利吉の葛藤」 | |
25. | 「平八と利吉」 | |
26. | 「農村風景」 | |
27. | 「弱虫、侍のくせに」 | |
28. | 「野武士の予兆」 | |
29. | 「夜討へ」 | |
30. | 「旗」 | |
31. | 「突然の再会」 | |
32. | 「素晴らしい侍」 | |
33. | 「野武士は見えず」 | |
34. | 「菊千代の奮起」 | |
35. | 「代償」 | |
36. | 「逢瀬」 | |
37. | 「万造と志乃」 | |
38. | 「田植え唄」 | |
39. | 「エンディング」 |
完成
1954年4月18日に音楽ダビングが終了し、その次に三縄一郎による効果音のダビングが行われた[43]。決戦シーンの泥の効果音は、水槽に壁土を混ぜた泥水を入れ、それをスタッフが踏んで再現した[注釈 8][43][46]。4月20日にすべてのダビングが終了し[43]、その日の夜10時に東宝本社で完成試写が行われた[27]。
東宝宣伝部の斎藤忠夫によると、本作の製作費などのデータは黒澤の希望で、宣伝のためのマスコミ発表用の水増し分を抜いて正確に広報された。そのデータでは、製作費は2億1000万円となっており、これは当時の普通作品の7本分に匹敵する金額となった。そのうちオープンセットが3500万円、俳優費が7000万円、ロケ費が2000万円で、これらにフィルム費などを合わせた直接費だけで1億3000万円もかかっている[4]。『映画年鑑 1955年版』によると、直接費は1億2560万円で、プリント費や宣伝費を含めて2億1300万円としている[50]。
スタイル
影響
七人の侍のキャラクター設定は、初めに構想していた企画『日本剣豪列伝』で描こうとした実在の剣豪の逸話からインスピレーションを受けている[10]。勘兵衛が頭を丸めて強盗を殺すエピソードは、『本朝武芸小伝』にある上泉信綱が強盗から子供を救出する逸話を元にしている[8][17]。五郎兵衛が勘兵衛の腕試しを見抜くエピソードは、柳生但馬が自分の息子にやらせてみた話を元にしている[8][17]。橋本によると、五郎兵衛は塚原卜伝、久蔵は宮本武蔵からキャラクターを参考にしたという[10]。
本作の脚本は、黒澤が愛読するトルストイの長編小説『戦争と平和』と、アレクサンドル・ファジェーエフの長編小説『壊滅』の影響を受けている[注釈 9][52]。また、ストーリー構成はドヴォルザークの「新世界より」の影響を受けており、黒澤は脚本執筆時に「ニューワールド(新世界より)を原作にしてやってみよう」と語ったという[10]。黒澤は撮影期間中に何度もこの曲を聴いており、この曲から野武士が襲来するシーンなどのイメージを膨らませていた[43]。
ジョン・フォードを尊敬していた黒澤は、本作でアメリカの西部劇のスタイルを意識している[14][41]。馬が駆けるシーンでは、フォードの西部劇のように砂煙を立たせるため、廃材を燃やした木灰を撒いた[41][53]。もともと木灰は馬の走る路面を固めるために撒いたもので、馬を走らせて砂埃が舞い上がり、誰かが「あれ、砂埃だけはジョン・フォード並みだぜ」と冷やかすと、黒澤は「そうだ、ジョン・フォード並みに派手にいこう」と言ってそのまま取り入れたという[53]。クライマックスの豪雨の決戦シーンは、西部劇では常に晴れていて砂煙が定番であることから、黒澤がそれに対して「だったら、こちらは雨で行こう」と発想したことで生まれた[14][41][54]。
時代劇映画の革新
黒澤は本作で「本物の時代劇」を作ろうとした[55]。それまでの時代劇映画は歌舞伎の影響を強く受けており、殺陣は歌舞伎的に立回りの形を美しく演じるもので、衣装や風俗なども歌舞伎で美化されて変形されたものが多かった[29]。そこで黒澤は既成の時代劇の安易な作り方を排したリアルな作品を撮ろうと考えた[29]。黒澤は次のように語っている。
今の時代劇で一番いけないのはあの「形式」です。あれはみんな歴史的な事実を無視し変形したカブキからの型なんだ。動作も服装も小道具も、カツラの形までみんなコシラエものなんだ。あれは一度、正確なものを考え直すことが必要だね。 — 黒澤明「私の作品」[56]
黒澤は日本画家の前田青邨に時代考証を依頼し、前田は弟子の江崎孝坪を推挙した[3]。前田が従来の時代劇のカツラを「虎屋の羊羹みたいな髷がのっているのは言語道断、もっと剃り込んでいて低いはずだ[14]」と指摘したことから、本作のカツラは月代を耳の上くらいまで剃り込み、側面の髪を低くしている[57][34]。カツラを制作した山田順二郎は、 素材の羽二重を工夫して凹凸頭のかつらを作り、本物に近いリアルな質感を出した[27][29]。衣裳は江崎がデザインし、それを元に京都衣裳が約300着を作った[55]。衣裳を古びたものにするため、京都で染めたものを川に漬けて何日も晒し、それを泥の中に埋め、さらにそれを洗って軽石でこするという作業を2か月も続けた[55]。土屋によると、衣裳を毎日家に持ち帰って着て汚したという[23]。鎧兜は甲冑師の明珍宗恭が手がけ、菊千代の兜には国宝級のものが使われた[14][58]。
史料は助監督たちが東京大学史料編纂所や東京国立博物館などに通って集めたが[55]、百姓のリアルな生活を調べるには資料が少なかったため、美術助手は奥多摩や白川郷に行って、古い家屋や農具などをスケッチした[46][55][34]。豪農家のセットは、美術助手の村木与四郎が奥多摩で見つけた長屋門を参考にした[34]。こうした調査を元に作られた農家や木賃宿のセットは、「焼き板」という技法で古い質感を再現した[34]。焼き板は木材に光沢と木目が浮かび上がるようにする技法で、木材を焚き火の灰にくべて蒸焼きにしたあと、金属ブラシでこすって木目を浮かび上がらせ、さらに泥絵具を塗って拭き取って木目の上に黒みを出し、それにワックスをかけて磨くことで光沢を出した[55][34]。この技法は黒澤映画でよく用いられ、板を磨く作業は黒澤組の日課としてスタッフ総出で行い、黒澤も率先して作業した[34]。
小國によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小國は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている[59]。
技術的特徴
本作では黒澤映画の特徴的な撮影技法「マルチカム撮影法」を初めて導入した[60]。マルチカム撮影法は1つのシーンを複数のカメラで同時撮影するという技法である[60]。ただし、本作では意識的にマルチカム撮影法を導入したわけではなく、合戦や火事のシーンは撮り直しが出来ないため、その部分だけを数台のカメラで撮影し、フィルム編集で困らないようにするために用いられた[60][61]。クライマックスの決戦シーンでは3台のカメラを使用したが、山塞焼き討ちのシーンでは8台ものカメラを使用した[14][42]。その結果、アングルの豊かさと臨場感が増し、黒澤は次作の『生きものの記録』から本格的に導入した[60]。
黒澤は本作で望遠レンズを本格的に使い始めた[62][61]。望遠レンズは極端に画角が狭いため、被写体の遠近感が失われて縦に迫ってくるように見え、画面が充実して迫力が出るという効果がある[62][63]。クライマックスの決戦シーンでは、複数カメラの1つとして望遠レンズを使い、登場人物の激しい表情を迫力を持って撮影することに成功している[63]。堀川も「『七人の侍』の迫力は、この望遠レンズの作用が大きく貢献している」と述べている[62]。撮影助手の斎藤孝雄によると、黒澤は「参考的に望遠レンズを使ってみて、良かったら次も使う」程度の考えで使用したというが、本作以降も黒澤は望遠レンズを多用した[61]。
村人などが矢で射られるシーンは、従来通りにカットを分けて撮影してごまかすのではなく、ワンショットで見せるため[33]、「テグス方式[64]」を開発した。これは体の矢が当たるところに板を付け、そこからテグスを引っ張って矢の空洞に通し、弓で矢を射ると糸伝いに板に刺さるという方法である[65][66]。しかし、テグスがたるむと板ではないところに刺さってしまい、実際に百姓娘役の記平佳枝はそれで背中に矢が刺さるという怪我をした[33]。そこで釣り用のリールを使って絶えずテグスが張るようにした[65][66]。この方法で左卜全演じる与平が矢に刺さるシーンが撮影され、スタッフの間では「卜全釣り」と呼ばれた[66]。テグス方式は『蜘蛛巣城』の三船が矢に刺さるシーンでも使われた[33]。
注釈
- ^ 劇中に「天正2年甲戌2月17日生まれ」と記されている菊千代の家系図を見て、彼を「13歳」と揶揄する場面があることから、1586年と知れる。
- ^ 戦国時代盛期には、このような居合い抜き(素肌剣術)の剣豪はまだいなかったが、侍の個性の幅を出すためにこのタイプの侍も採用された。
- ^ ただし、シナリオの決定稿では死ぬことはなく、ラストの田植えにも参加している。
- ^ 演者のキクさんは老人ホームに入居していた一般女性で、本職の女優ではない。当初はキクさんに台詞を言わせる予定であったが、どうしても台詞が覚えられなかったため声は三好栄子による吹き替えである。詳細はキャスティング参照。
- ^ a b c d e f g h i j k l ノンクレジット。
- ^ 橋本は『侍の一日』の物語について、「ある侍が、ある日起きて寝巻を着がえて、顔洗って月代そって、飯食って城へ上がって、昼過ぎにささいなへまをして、家へ帰って切腹して死んだ。こういう映画をやろうとしたわけです」と述べている[8]。
- ^ 佐藤勝によると、この曲は当時流行した「ブルー・カナリア」(アメリカではダイナ・ショア、日本では雪村いづみが歌った)と非常に似ていたため破棄したものだという[44]。
- ^ この時にアフレコ室のスクリーンに付いた泥の跳ね返りは、アフレコ室が壊されるまでそのまま残っていたという[46]。
- ^ 黒澤は井上ひさしとの対談で、「どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか」と問われると、「この脚本の根底にあるのは、トルストイの『戦争と平和』である。その中からいろいろなことを学んでいる。またファジェーエフの『壊滅』も下敷きになっている」と語っている[51]。
- ^ 黒澤はソ連を初めて訪れた時に『惑星ソラリス』を撮影中のタルコフスキーと会い、2人でレストランで酒を飲むと、酔ったタルコフスキーが「侍のテーマ」を大声で唄いだしたという[86]。
- ^ その他にも『キン肉マン』では、原作とテレビアニメの「キン肉星王位争奪編」で、主人公・キン肉マン=キン肉スグルの兄であるキン肉マンソルジャー=キン肉アタルが牧師に扮し、強盗から身を挺して人質にされた子供を救うシーンがあり、これも本作へのオマージュで、作者のゆでたまごによれば、「キン肉アタルには『七人の侍』で志村喬さんが演じた島田勘兵衛のイメージを重ねている」とのこと[130]。
出典
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