江崎孝坪
江崎孝坪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/21 03:47 UTC 版)
江崎 孝坪 | |
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生誕 | 1904年6月15日 長野県上伊那郡高遠町 |
死没 | 1963年6月27日(59歳没) 東京都目黒区 |
国籍 | ![]() |
著名な実績 | 日本画 |
影響を受けた 芸術家 |
前田青邨 |
江崎 孝坪(えざき こうへい、1904年6月15日 - 1963年6月27日)は、長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)出身の日本画家。本名は江崎 孝平。歴史人物画を得意とした。
生涯

1904年6月15日に長野県上伊那郡高遠町(現・伊那市)に生まれ[1]、画家を志して15歳の時に東京に出た[2]。呉服商で図案を描いて生計を立て、日本画家の蔦谷龍岬[1]に大和絵を学んだ[3]。1927年(昭和2年)には第8回帝展で「晩秋」が初入選[1]。
1933年(昭和8年)に龍岬が死去すると、今度は前田青邨に師事した[1]。1940年(昭和15年)に大礼記念京都美術館で開催された日本画大展覧会では、「雲と防人」が大毎・東日賞を受賞。 1941年(昭和16年)の第4回新文展では「撃て」が特選に選ばれた[4]。
1947年(昭和22年)の第3回日展では「像造」が特選[1]。戦後には大仏次郎著『乞食大将』、吉川英治著『太閤記』、井上靖著『風と雲と砦』『真田軍記』『風林火山』に挿絵を描いたり、黒澤明監督の映画『七人の侍』で衣装考証を担当したり、歌舞伎「新忠臣蔵」で舞台装置を製作するなど、芸術界で幅広く活躍した[1][3]。『七人の侍』では1957年の第29回アカデミー賞で衣裳デザイン賞にノミネートされている[2][5]。
1963年6月27日、目黒区の自宅で死去した[1]。死因は脳軟化症[1]。江崎家の菩提寺は高遠にある建福寺であり、1950年(昭和25年)に第6回日展に出品した『薬師』を寄贈している[3]。
1992年4月から5月には長野県信濃美術館・東山魁夷館で「近代の歴史画展 江崎孝坪と武者絵の系譜」が開催された。2009年10月から11月には長野県伊那文化会館で「歴史画家 江崎孝坪の仕事展」が開催された。
脚注
外部リンク
- 江崎孝坪 東文研アーカイブ
江崎孝坪(1904年 - 1963年)
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「時代考証」の記事における「江崎孝坪(1904年 - 1963年)」の解説
日本画家。前田青邨に師事し歴史風俗画を描く。黒澤明監督の映画『七人の侍』で衣装考証を行ったほか、歌舞伎『新忠臣蔵』の舞台装置制作、吉川英治『太閤記』の挿絵を手掛けた。
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