江崎家
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(佐賀県佐賀市蓮池町、大阪府大阪市、兵庫県神戸市・西宮市・芦屋市) 祖父・利一(佐賀県人・実業家) 1882年生 - 1980年没 「江崎利一」を参照 祖母 父・誠一(佐賀県人・実業家) 1911年生 - 1950年没 詳細は「江崎勝久#家族・親族」を参照 母・芳江(丸石製薬社長井上治兵衛の四女) 2004年没。90歳。大阪市出身。 長姉・一子(グリコ栄養食品社長高石勝比古の妻) 2001年没 次姉 兄・勝久(兵庫県人・実業家) 1941年生 -
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江崎家
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(佐賀県神埼郡蓮池村〈現・佐賀市蓮池町〉、兵庫県西宮市) 父・清七(薬種業) 1901年(明治34年)6月、59歳で死去。江崎の生家は貧しくその貧しさの中で父・清七は次のように江崎をさとした。 「金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、くれぐれも注意したいことは、金を作るために金の奴隷になってはならない。世の人から吝嗇(りんしょく)といやしめられてまで金を作ろうとしてはならない。そして金ができたら交際や寄付金は身分相応より少し程度を上げてつとめていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、りっぱな人間とはいえない」 母・タツ 1918年(大正7年)10月没。 姉 タネ タメ 弟・清六 妹 タヨ タミ 妻 イマ(旧姓:中溝)1906年(明治39年)3月、父の親友だった岸川豊次の媒酌で、隣村の諸富に住む中溝イマと結婚した。見合いでもなければ恋愛でもなかった。結婚式の当日二人は初めて顔を合わせた。イマは1919年(大正8年)に病没した。 エキ(旧姓:秋山)エキとの再婚は、先妻と同じく岸川豊次の媒酌で結ばれた。エキは巨勢村出身で、叔父に海軍少将の秋山虎六がいた。 長男・誠一(江崎グリコ社長) 「グリコーゲンの事業化」が江崎の頭にこびりつくようになったころ、10歳になったばかりの長男・誠一がチフスにかかり、医師もサジを投げるほどの衰弱であった。このとき、江崎は医師の許可をえて子供の生命をかけた牡蠣エキスの試飲を誠一に行なった。この試飲を境に、誠一の病状は快方に向かい、食欲も出て、体力も回復してきた。このことがあってから「グリコーゲンの事業化」は、しだいに江崎の頭の全領域を占めるようになった。
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江崎家
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(佐賀県佐賀市蓮池町、大阪府大阪市、兵庫県神戸市・西宮市・芦屋市) 祖父・利一(佐賀県人・実業家) 1882年生 - 1980年没 「江崎利一」を参照 祖母 父・誠一(佐賀県人・実業家) 1911年生 - 1950年没。 誠一は高級外車やオートバイを乗り回し、猟犬を連れたハンティングが趣味だった。育ちのいいボンボンのような性格だった。1947年ごろ、経営方針をめぐって父・利一と激しい対立があった。1950年、39歳で急死した。死因について、グリコ側(総務部)は「ごく普通の病死」と述べている。 母・芳江(丸石製薬社長井上治兵衛の四女) 2004年没。90歳。大阪市出身。 長姉・一子(グリコ栄養食品社長高石勝比古の妻) 2001年没 次姉 弟・正道(実業家) 1944年生 - 妻・美恵子(料理研究家、芦屋マダム) 兵庫県芦屋市育ち。甲南大学在学中に勝久と結婚、隣接の神戸市や西宮市に住んだこともあるが、再び芦屋に戻り、30年。37歳のときには得意の料理の腕を生かしたいと、一念発起し料理学校に入学。調理師免許を取得し、1991年からは自宅で料理教室を開いている。 長男・悦朗(実業家) 1972年生 - 娘
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