時代劇映画の革新
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:35 UTC 版)
黒澤は本作で「本物の時代劇」を作ろうとした。それまでの時代劇映画は歌舞伎の影響を強く受けており、殺陣は歌舞伎的に立回りの形を美しく演じるもので、衣装や風俗なども歌舞伎で美化されて変形されたものが多かった。そこで黒澤は既成の時代劇の安易な作り方を排したリアルな作品を撮ろうと考えた。黒澤は次のように語っている。 今の時代劇で一番いけないのはあの「形式」です。あれはみんな歴史的な事実を無視し変形したカブキからの型なんだ。動作も服装も小道具も、カツラの形までみんなコシラエものなんだ。あれは一度、正確なものを考え直すことが必要だね。 — 黒澤明「私の作品」 黒澤は日本画家の前田青邨に時代考証を依頼し、前田は弟子の江崎孝坪を推挙した。前田が従来の時代劇のカツラを「虎屋の羊羹みたいな髷がのっているのは言語道断、もっと剃り込んでいて低いはずだ」と指摘したことから、本作のカツラは月代を耳の上くらいまで剃り込み、側面の髪を低くしている。カツラを制作した山田順二郎は、 素材の羽二重を工夫して凹凸頭のかつらを作り、本物に近いリアルな質感を出した。衣裳は江崎がデザインし、それを元に京都衣裳が約300着を作った。衣裳を古びたものにするため、京都で染めたものを川に漬けて何日も晒し、それを泥の中に埋め、さらにそれを洗って軽石でこするという作業を2か月も続けた。土屋によると、衣裳を毎日家に持ち帰って着て汚したという。鎧兜は甲冑師の明珍宗恭が手がけ、菊千代の兜には国宝級のものが使われた。 史料は助監督たちが東京大学史料編纂所や東京国立博物館などに通って集めたが、百姓のリアルな生活を調べるには資料が少なかったため、美術助手は奥多摩や白川郷に行って、古い家屋や農具などをスケッチした。豪農家のセットは、美術助手の村木与四郎が奥多摩で見つけた長屋門を参考にした。こうした調査を元に作られた農家や木賃宿のセットは、「焼き板」という技法で古い質感を再現した。焼き板は木材に光沢と木目が浮かび上がるようにする技法で、木材を焚き火の灰にくべて蒸焼きにしたあと、金属ブラシでこすって木目を浮かび上がらせ、さらに泥絵具を塗って拭き取って木目の上に黒みを出し、それにワックスをかけて磨くことで光沢を出した。この技法は黒澤映画でよく用いられ、板を磨く作業は黒澤組の日課としてスタッフ総出で行い、黒澤も率先して作業した。 小國によると、黒澤は「一人の人間が何十人もの相手を斬るって言うのは嘘だ」と語っており、「何十本もの刀を用意して刀を替えながら戦った」という剣の名人の足利義輝に倣って、菊千代に刀を地面に立てさせ、何人か斬る毎に刀を替える場面を挿入している。小國は「そういうふうなことを、彼(黒澤)はやたらに一生懸命勉強したわけですよ。立ち回りでもなんでもね。その努力のたまものですよ、あの場面の張りつめた面白さは」と語っている。
※この「時代劇映画の革新」の解説は、「七人の侍」の解説の一部です。
「時代劇映画の革新」を含む「七人の侍」の記事については、「七人の侍」の概要を参照ください。
- 時代劇映画の革新のページへのリンク