ロシア内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 23:07 UTC 版)
流れ
1917年10月の十月革命の後に成立したボリシェヴィキ政府は、1918年3月にドイツとブレスト=リトフスク条約を締結し、第一次世界大戦から離脱した。この講和条約はロシア連邦共和国にとって苦渋の選択だった。2月に開始されたドイツ軍の進撃を食い止めることができなかったボリシェヴィキは、現在のバルト三国・ベラルーシ・ウクライナに当たる広大な領域をドイツに割譲しなければならなかった。
ソビエト連邦の歴史学では、慣習的にロシアという言葉を用いず、1918年5月から1920年11月にかけての内乱・内戦・諸外国による軍事干渉といった用語を用いていた。これは、舞台となった地域の大半がその後ソ連領となったこと、ポーランド・ソ連戦争、ウクライナにおける民族運動、バスマチ運動、中央アジアにおける列強の干渉を含むためである。
概観
ソビエト連邦 |
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最高指導者 共産党書記長 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
軍事 |
赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
場所 |
モスクワ · レニングラード スターリングラード ·クレムリン · 赤の広場 |
イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
ロシア革命 ·ロシア内戦 ·大粛清· 独ソ不可侵条約· バルト諸国占領·冬戦争· 独ソ戦 ·冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ ·チェルノブイリ原子力発電所事故·マルタ会談 · 8月クーデター ソビエト連邦の崩壊 |
内乱は主に赤軍(共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われた。ウクライナなど、地域によってはこれら両者に、ボリス・サヴィンコフなどの率いる緑軍(社会革命党系、農民パルチザン)や、ネストル・マフノ率いる黒軍(アナーキスト)、さらには民族主義者が参加する場合もあった。白軍には英仏日米などの協商国(赤軍側からは「干渉国」と呼ばれる)が直接、間接に支援を行っていた。
実際に戦闘が行われた前線は、北西、南方、そして東方の3戦線に分けることができる。その期間についても3期で構成されている。
第一期は十月革命勃発からブレスト=リトフスク条約による休戦までを指す。この期間は、ドン川流域一帯で形成した白軍との間で戦闘が生じ、さらに東部ではサマーラの憲法制定議会議員委員会(Комуч,コムーチ)とオムスクの民族主義者政権の2つの政権が誕生していた。
白軍側は複数の兵力が別個に蜂起しており、連携は見られなかった。この中には、チェコ軍団、ポーランド第5ライフル師団、親ボリシェヴィキのラトビアライフル大隊などがあった。
第二期は内戦の鍵を握った期間で、1919年の3月から11月にかけてである。南方からデニーキン指揮する白軍、北西からはユデーニチ軍が、そして東にはコルチャークが勢力を拡大し、それぞれモスクワ・ペトログラードへと向かって進撃していた。しかしトロツキーにより編成された赤軍により6月にコルチャークが、10月にはデニーキンとユデーニチがそれぞれ押し返された。11月中頃までコルチャークとデニーキンの部隊はほぼ四散していた。
第三期はクリミア半島を舞台にした白軍の最後の戦いである。ヴラーンゲリ将軍がデニーキンの敗残兵をまとめ、クリミア半島に立てこもった。しかし、ポーランド・ソビエト戦争が終了すると、全勢力をこの方面へ集中することが可能になった赤軍が白軍を圧倒するようになり、1920年11月に内戦は終了した。
経過
2月革命後の臨時政府とソビエトの二重権力状態の中で、始めにボリシェヴィキに反旗を翻したのは臨時政府を率いるケレンスキーであった。1917年11月、彼はペトログラードの士官学校生徒を用いてボリシェヴィキの機関誌の印刷所を占拠するなどしたが、赤軍によって直ちに鎮圧された。アメリカ国旗が翻る自動車に乗ってペトログラードを脱出した彼はプスコフに到着、ピョートル・クラスノフを陸軍司令官に任命してボリシェヴィキに対する反撃に出た。部隊はツァールスコエ・セローを占領したが、翌日プールコヴォ付近の戦闘に敗北し、ケレンスキーは亡命、クラスノフは捕縛された。
これ以降ボリシェヴィキに反旗を翻したのは、帝政期からのロシア軍の将軍たちと臨時政府に忠誠を誓っていたコサック軍であった。後者の代表としてはアレクセイ・カレージン(ドン・コサック軍)、アレクサンドル・ドゥートフ(オレンブルク・コサック軍)、グリゴリー・セミョーノフ(ザバイカル・コサック軍)などがいる。
11月に入ると、1915年からロシア陸軍の参謀総長を務めていたアレクセーエフがノヴォチェルカースクで「アレクセーエフの組織」、のちの義勇軍を組織しボリシェヴィキ政府に対して反乱を呼びかけた。12月にはラーヴル・コルニーロフ、アントーン・デニーキンを始めとする将軍たちが合流し、カレージン率いるコサック軍とも連携して12月中にロストフ・ナ・ドヌを占領した。
しかしコサック兵は戦意に乏しく、翌1918年1月にヴラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる赤軍が反撃に出ると、多くの兵が逃亡し、カレージンは自決した。アントーノフ軍はロストフ・ナ・ドヌを占領し3月末にはドン・ソビエト共和国が設立された。白軍はクバーニ川一帯にまで撤退し、クバーニ・コサック軍とともにエカテリノダールを目指したが、赤軍に敗北しコルニーロフは、4月13日に戦死した。指揮権を委譲されたデニーキンはドン川にまで撤退し、徴兵によって軍の再組織化に努めた。
1918年春になると、メンシェヴィキと社会革命党が内乱に介入してきた。1918年の憲法議会選挙において勝利したものの、他の勢力とは違い軍事力を持たなかった彼らは、1918年7月にラトビアのライフル隊の蜂起に失敗するとチェコ軍団と連携を図るようになった。
第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあるチェコでは反オーストリア感情が高まっていた。これに目を付けたロシアはチェコ人捕虜の志望者から成るチェコ軍団を組織し、1917年10月にはその数は30,000人を数えるまでになっていた。臨時政府と連合軍との合意に従い、西部戦線に送られるためにウラジオストクに向かっていたチェコ軍団は、1918年5月にチェリャビンスクで反乱を起こした。数ヶ月の内にチェコ軍団はシベリア鉄道沿いに勢力を広げ、西シベリア一帯とヴォルガ、ウラル山脈一帯の一部を勢力下においた。
メンシェヴィキと社会革命党はボリシェヴィキの食料配給制度に反対する農民の一部を味方につけた。1918年5月、チェコ軍団の協力を受け、彼らはヴォルガ川沿い都市、サマーラとサラートフを支配下にいれ、憲法制定議会議員委員会(Комуч,コムーチ)を設立した。7月にはいると、同委員会はチェコ軍団の影響下にある地域のほぼ全てを統治するようになった。彼らは対ドイツ戦を継続し、自らの軍を組織し始めた。
この他にも、保守派、民族主義者による政権がバシキール人、キルギス人、タタール人などにより組織された。西シベリアのオムスクには臨時シベリア政府が設立され、3名の社会革命党員(Avksentiev、BoldyrevとZenzinov) と2名のカデット(アレクセイ・ヴィノグラドフとヴォルゴゴドスキー)により政権が運営されていた。この暫定政府によって1918年7月17日にシベリア共和国の独立が宣言された。
この政府の実権はすぐにアレクサンドル・コルチャークが握るところとなった。11月18日、コルチャークはクーデターを起こし、それまで統治にあたった5人の評議員を逮捕した。コルチャークは自身を提督へと昇進させ独裁制をしいた。
ボリシェヴィキにとって、他の政権が独裁制をとることは政治的な勝利に他ならなかった。しかしコルチャークは軍事の才に恵まれており、ペルミを占領しさらにその領土を拡大し始めた。
一方、ボリシェヴィキ政府では、7月の第5回ソヴィエトの開幕中に事件が発生していた。2名の左翼社会革命党党員がドイツ世論を憤激させようとして在モスクワドイツ大使を暗殺した。他の社会革命党員は数名のボリシェヴィキ指導者を監禁し、赤軍のボリシェヴィキ政府に対する蜂起を呼びかけた。ボリシェヴィキは反乱を鎮圧し、レーニンはドイツに個人的な謝罪をおこなった。西部戦線の状態から見てドイツの報復がなさそうだと悟ると、レーニンは左翼社会革命党の弾圧に乗り出した。多数の党員が逮捕された。
赤色テロル
従来、レーニンはスターリンとは違い、欠点のない指導者[7]だと考えられてきたが、1990年代末、新たな面を示す電報がみつかった。宛先はペンザ県ソヴィエト執行委員会議長である[8]。
「同志諸君、クラーク (農家)の五郷の蜂起を容赦なく弾圧しなければならない。革命全体の利益がこのことを要求している。「中略)
- 100人以上の名うてのクラーク、金持ち、吸血鬼を縛り首にせよ(必ず民衆に見えるように縛り首にせよ)、
- 彼らの名前を公表せよ
- 彼らからすべての穀物を没収せよ、
- 昨日の電報に従って人質を指名せよ。
- 周囲数百ヴェルスタ(約1.07キロ)の民衆がそれを見て、身震いし、悟り、悲鳴を上げるようにせよ。
—レーニン、[9]
この命令は地方ソヴィエトの力不足のため実行されなかったが、ソ連時代には、赤色テロルは外国の干渉や反革命分子の跋扈(ばっこ)に対し、やむを得ず行ったと考えられてきた。だが、この命令は、「労働者と農民の国」の初めの指導者としてはまったくふさわしくないものであった。また、レーニンの苛烈な側面が見えなかったために、外部の者には、ソ連初期の農民に対する党の残酷さや農民蜂起の頻発が理解しがたいものになったといえる[10]。
1918年8月30日に再び白色テロルが発生し、ペトログラード・チェーカーの議長モイセイ・ウリツキーが死亡、レーニンが負傷した。現場に居合わせた左翼社会革命党員が逮捕された(ただし真犯人は別にいるのではないかとする説はいまだ根強い)。この事件に対してボリシェヴィキは大規模な報復をおこなった。メンシェヴィキと社会革命党はソヴィエトから完全に追放され、反革命のレッテルを貼られた者の多くが逮捕され裁判なしに殺害された。
1920年には赤軍はニコラエフスクを占領すると市民数千人を虐殺し、居留日本人数百名も皆殺しにされた(尼港事件)。
注釈
出典
固有名詞の分類
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