ロシア内戦 赤軍勝利の要因

ロシア内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 23:07 UTC 版)

赤軍勝利の要因

ボリシェヴィキはロシアの人口稠密地帯を支配しており、1921年には数百万人もの兵士を徴兵により募兵することが可能であった。それに対し白軍の兵力が25万人を超えることはなかった。ボリシェヴィキの支配地域にはロシアにおける主要工業地域が含まれており、武器の供給においても圧倒的な有利にあった。鉄道の路線も赤軍が支配しており兵士・装備の輸送を効率的に行えた一方で、白軍は互いに分断され、政治的、民族的に見ても統合される可能性はほとんどなかった。加えて白軍の司令官は帝政時代の貴族や地主が大半であり、彼らは占領地で旧体制の復活を望み農民から土地を取り上げたため民衆からの支持を失った。

もう一つの要因は、赤軍の規律と指導力が白軍にまさっていたことである。レフ・トロツキーはブレスト=リトフスク条約調印後の1918年に軍事担当の人民委員に任命された。彼は優れた演説家であるだけでなく、赤軍の組織化にも才能を発揮した。コルニーロフによる反乱の際に暫定政府によって組織化された赤衛軍を基として、徴兵により赤軍を作り上げた。彼は列車を駆使し各地を回り赤軍の士気を高めることに成功した。彼の取り決めた規律は厳格を極め脱走兵は直ちに射殺された。軍の忠誠を維持するためにボリシェヴィキの任命する政治将校が設けられるようになった。トロツキー自身は軍事作戦に直接関与せず、赤軍に参加していた75,000人もの士官たち、その多くは職業軍人が白軍との戦闘を指揮した。

影響

農民からの穀物の徴発。 Ivan Vladimirovロシア語版作。
「飢饉」 Ivan Vladimirovロシア語版作。
強制労働をさせられる人々。 Ivan Vladimirovロシア語版作。

内戦終結後のロシアは国土を再統一できたものの、荒廃と破壊の極致にあった。内戦中赤軍白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている。レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。1920年から1921年にかけて発生した旱魃が事態を更に悪化させた。レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべるどころか逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、ロシア内戦におけるボリシェヴィキの残虐行為を「帝政ロシア時代の悲劇すら色あせて見えるほどの非人間的行為」と非難している。

戦闘、飢餓、無政府状態にある地域を避けて、数百万人がロシアの地を離れた(白系ロシア人も参照)。極東、日本を経由して欧米に脱出するルートがしばしば用いられた。ヨーロッパに渡らず日本に残った者も多い。亡命した人々やその子孫には、後に芸術家政治家、果てはプロ野球選手スタルヒンなど)として活躍した者もいる。

戦時共産主義の採用によりソビエト政府は内乱を乗り切る事に成功したが、経済状態は戦前に比べて絶望的に悪化していた。個人による生産や取引は禁止され、新しい経済体制では十分な量の商品を供給することができなかった。1921年の鉱工業生産は第一次世界大戦以前の20パーセントにまで悪化し、多くの生活必需品の生産は停止した。例を挙げると綿の生産量はそれぞれ戦前の5パーセント、2パーセントにとどまった。

1921年の耕地面積は戦前の62パーセントに減少し、生産量は37パーセントにすぎなかった。耕作馬の頭数は1916年の350万頭から1920年には240万頭に、は580万から370万にまで減少した。米1ドルに対する換算レートは1914年は2ルーブル、1920年は1,200ルーブルであった。

1920年代後半のロシア経済は急速な回復を遂げたが、第一次世界大戦とロシア内戦はその後のソ連社会全体に深い爪痕を残した。

評価

ソ連崩壊後は、内戦でボリシェヴィキに殺害された人々の名誉回復と、アントーン・デニーキンら亡命者のロシアへの再埋葬が進められている。


注釈

  1. ^ 1918年2月1日より、旧ロシア暦(ユリウス暦)が新暦グレゴリオ暦に変更された。2月1日はかつての2月14日である。[4]
  2. ^ 「ロシア」が何を指すかについては、内戦に至った根本的な問題がある。ウクライナカフカースバルト三国中央アジアなど、現在は独立国となっている地域を「本来はロシアの一部である」と主張する立場があり、内戦でもこの思想のもと白軍や赤軍が周辺国・地域(現在の独立国等)を軍事力によって掌握しようとした。ウィキペディアではWikipedia:中立的な観点に考慮し「旧ロシア帝国領とその周辺」という扱いとする。

出典

  1. ^ a b 松戸 2011, pp. 19–20.
  2. ^ 横手 2014, p. 124.
  3. ^ 横手 2014, p. 125.
  4. ^ クルトワ & ヴェルト 2016.
  5. ^ 栗生沢 2014, p. 124.
  6. ^ 栗生沢 2014, p. 125.
  7. ^ 梶川 2013, pp. 128f.
  8. ^ 横手 2014, p. 108.
  9. ^ 横手 2014, pp. 107–108.
  10. ^ 横手 2014, pp. 109–110.


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