ロシア内戦 ロシア内戦の概要

ロシア内戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 23:07 UTC 版)

ロシア内戦
Гражданская война в России

上段:1919年6月のドン軍
中段左:1918年 エカテリノスラフ県オーストリア=ハンガリー軍により絞首刑にされる労働者
中段右:1920年の白軍歩兵部隊
下段左:1918年時の赤軍の指揮官レフ・トロツキー
下段右:赤軍第1騎兵軍
戦争:旧ロシア帝国領で発生した内戦
年月日:1918年5月[1][2] - 1922年11月[3][注釈 1]
場所:旧ロシア帝国領、モンゴルトゥヴァペルシア
結果:赤軍の勝利
交戦勢力

黒軍 (1918年–21年)
緑軍(1919年まで)



指導者・指揮官
ウラジーミル・レーニン
フェリックス・ジェルジンスキー
レフ・トロツキー
レフ・カーメネフ
ヤーコフ・スヴェルドロフ 
ミハイル・カリーニン
イオアキム・ヴァツェチス
セルゲイ・カーメネフ
アレクサンドル・スヴェチン
ミハイル・ボンチ=ブルエヴィッチ
ニコライ・ラッテリ
フョードル・ラスコルニコフ
セミョーン・ブジョーンヌイ
アレクサンドル・エゴロフ
クリメント・ヴォロシーロフ
ヨシフ・アパナセンコ
グリゴリー・クリーク
セミョーン・チモシェンコ
イワン・チュレネフ
ピョートル・ストゥチカ
エドゥアルド・ベルジン
ヴィタリー・プリマコフ
ミハイル・トゥハチェフスキー
アレクサンドル・サモイロ
ヤーコフ・トリャピーツィン 
イヴァン・スミルノフ
セルゲイ・グセフ
ヨシフ・スターリン
イオナ・ヤキール
ニコライ・クイビシェフ
クン・ベーラ
グリゴリー・オルジョニキーゼ
ステパン・シャウミャン 
グリゴリー・コルガノフ
フィリップ・マハラゼ
セルゲイ・キーロフ
ナリマン・ナリマノフ
スタニスラフ・コシオール
ボリス・シャポシニコフ
ミハイル・トゥハチェフスキー
ミハイル・フルンゼ
グリゴリー・ソコリニコフ
ファイズッラ・ホジャエフ
グリゴリー・ペトロフスキー
ゲオルギー・ピャタコフ
アレクサンドル・チェルヴャコフ
アリ・アールトネン 
アレクサンドル・クラスノシチョーコフ
ヴァシーリー・ブリュヘル
イエロニム・ウボレヴィッチ
ダムディン・スフバートル
ソリーン・ダンザン
ダムビン・チャグダルジャヴ 
ドグソミーン・ボドー 
ホルローギーン・チョイバルサン
アレクサンドル・ケレンスキー
ヴィクトル・チェルノフ
アレクサンドル・ヴェルホフスキー
アレクサンドル・コルチャーク 
ラーヴル・コルニーロフ 
ミハイル・アレクセーエフ
アレクセイ・カレージン 
アントーン・デニーキン
ミハイル・ロジャンコ
ミハイル・パーヴロヴィチ・サーブリン
ピョートル・ヴラーンゲリ
アレクサンドル・クテポフ
アンドレイ・バキチ 
ボリス・アンネンコフ
アレクサンドル・ドゥトフ 
マリア・ボチカリョーワ 
ミハイル・ベーレンス
ニコライ・ユデーニチ
フョードル・アルトゥーロヴィチ・ケールレル
グリゴリー・セミョーノフ
ニコライ・ロフヴィツキー
ロマン・ウンゲルン 
エフゲニー・ミレル
ボリス・ヴィリキツキー
ミハイル・ディテリフス
ピョートル・クラスノフ
ボグド・ハーン

ユゼフ・ピウスツキ
イグナツィ・パデレフスキ
エドヴァルト・リッツ=シミグウィ
ヴワディスワフ・シコルスキ
シモン・ペトリューラ
ペトロー・ボルボチャーン
イェヴヘーン・コノヴァーレツィ
ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
ペール・スヴィンヒュー
エルンスト・リンデル
ノーマン・チェレビジハン 
コンスタンティン・パッツ
ヨハン・ライドネル
ヤーニス・チャクステ
カールリス・ウルマニス
アンターナス・スメトナ
アレクサンドラス・ストゥルギンスキス
ノエ・ジョルダニア
ニコライ・チヘイゼ
ホヴハンネス・カチャズヌニ
アンドラニク・オザニアン
メフメト・エミーン・ラスールザーデ
ユーリ・フルスコ=モヴァ
エンヴェル・パシャ 
アーリム・ハーン
サイード・アブドゥッラー

ロバート・アイケルバーガー
エドムンド・アイアンサイド
大谷喜久蔵
由比光衛
パウル・フォン・ヒンデンブルク
エーリヒ・ルーデンドルフ
マックス・ホフマン
ヘルマン・フォン・アイヒホルン 
フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ
キャーズム・カラベキル
パウロー・スコロパードシクィイ

フョードル・フンチコフ
ボリス・サヴィンコフ
ボリス・ドンスコイ 
マリア・スピリドーノワ
ネストル・マフノ

戦力
赤軍:3,000,000(記録不測)

黒軍:103,000

白軍:2,400,000

連合軍介入:255,000

損害
死傷者:1,212,824 少なくとも1,500,000

注釈

  1. ^ 1918年2月1日より、旧ロシア暦(ユリウス暦)が新暦グレゴリオ暦に変更された。2月1日はかつての2月14日である。[4]
  2. ^ 「ロシア」が何を指すかについては、内戦に至った根本的な問題がある。ウクライナカフカースバルト三国中央アジアなど、現在は独立国となっている地域を「本来はロシアの一部である」と主張する立場があり、内戦でもこの思想のもと白軍や赤軍が周辺国・地域(現在の独立国等)を軍事力によって掌握しようとした。ウィキペディアではWikipedia:中立的な観点に考慮し「旧ロシア帝国領とその周辺」という扱いとする。

出典

  1. ^ a b 松戸 2011, pp. 19–20.
  2. ^ 横手 2014, p. 124.
  3. ^ 横手 2014, p. 125.
  4. ^ クルトワ & ヴェルト 2016.
  5. ^ 栗生沢 2014, p. 124.
  6. ^ 栗生沢 2014, p. 125.
  7. ^ 梶川 2013, pp. 128f.
  8. ^ 横手 2014, p. 108.
  9. ^ 横手 2014, pp. 107–108.
  10. ^ 横手 2014, pp. 109–110.


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