アレクセイ・ヴィノグラドフとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > アレクセイ・ヴィノグラドフの意味・解説 

アレクセイ・ヴィノグラドフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 07:36 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
アレクセイ・ヴィノグラドフ
Alexei Nikolayevich Vinogradoff
生誕 1899年2月12日
トヴェリ
死没 (1940-01-11) 1940年1月11日(40歳没)
所属組織 ソビエト連邦労農赤軍
軍歴 ロシア内戦ポーランド侵攻冬戦争
最終階級 准将 (комбриг)
テンプレートを表示

アレクセイ・ニコラエヴィッチ・ヴィノグラドフ(英語:Alexei Nikolayevich Vinogradoff ロシア語:Алексей Иванович Виноградов)はソビエト連邦の軍人である。

軍歴

1919年から軍歴を始め、ロシア内戦に参加。その後赤軍のポーランド侵攻にも参加し、これらの功績を経て第44機械化狙撃師団の師団長に就任する。この師団はウクライナ人を中心としていた。

第一次芬ソ戦争(冬戦争)が始まるとポーランドからフィンランド戦線に引き抜かれ、ラーッテ林道の戦いを指揮した。

この戦いはスオムッサルミの戦いにおいて前線で孤立状態になった赤軍第163師団を救助する際に発生したもので、ヤルマル・シーラスヴオ大佐率いるフィンランド軍は、1940年1月6日早朝から隘路を進む第44機械化狙撃師団に対して、森林戦を仕掛け、包囲した。

寒さによる軍備の乱れや逃げ場のない状況で第44機械化狙撃師団は瞬く間に夥しい戦死者を出すが、敗戦責任を問われることを恐れたヴィノグラドフはなかなか撤退命令を出せず、完全に包囲された21時30分頃にやむなく退却命令を下した。結果として赤軍は参加兵力25000人中、17500人が戦死行方不明捕虜として失われた。

ヴィノグラドフ自身は4日かけてソ連へ帰還することに成功したが、本人が懸念していた通り、NKVDラヴレンチー・ベリヤに敗戦責任(特に野戦炊事場喪失の被害について)を厳しく問われ、1940年1月11日銃殺刑に処された。

参考

  • 雪中の奇跡 梅本弘 大日本絵画



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「アレクセイ・ヴィノグラドフ」の関連用語

アレクセイ・ヴィノグラドフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



アレクセイ・ヴィノグラドフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのアレクセイ・ヴィノグラドフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS