モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/22 01:53 UTC 版)
スポーツカーレース
スポーツカーレースは明確なレースカテゴリーとして確立した時期が比較的遅く、1914年以前(第一次世界大戦以前)のレースについてグランプリレースとスポーツカーレースを区別することは不可能であるとされている[242]。メルセデス・ベンツとして、明確に「スポーツカー」でレースに参戦をしたと言える初期の例は、市販車のメルセデス・ベンツ・S(W06)をレース用に転用し始めた1920年代後半に見ることができる(この時期の詳細は「#「ホワイト・エレファント」を参照)。
メルセデス・ベンツのスポーツカーレース活動は第二次世界大戦後に大きく3度行われており、300SL(W194)と300SLRで参戦した1950年代前半の例(→#300SLと300SLR)、スイスのレーシングカーコンストラクターであるザウバーと組んで参戦した1980年代後半から1991年までの例(→#グループC)、FIA GT選手権に参加するためにGT1/LMP車両を製造して参戦した1990年代後半の例(→#GT1/LMGTP)である。この項目ではそれらについて述べる。
メルセデス・ベンツと初期のル・マン24時間レースとの関係
メルセデス・ベンツにとって、ル・マン24時間レースへの参戦は常に重要な活動となるが、最初からそういう位置付けだったわけではなかった。
フランスのル・マンで開催されているル・マン24時間レースは初開催された1923年の時点では地方都市における小さなレースでしかなく、当時のダイムラーやベンツのような、グランプリで覇を競っていた自動車メーカーが関心を示すようなものではなかった。ダイムラー・ベンツが初参戦したのは1930年の第8回レースで、その時も自社チームとしての参戦はその1回のみで終わり、続く数年はプライベーターがSSKで細々と参戦するのみだった。その後、1930年代から第二次世界大戦を挟んで1940年代までの間、同レースはフランスの小規模メーカーに加えて、イギリスのベントレー、アストンマーティン、ジャガー、イタリアのフェラーリといった比較的新興のメーカーの参戦によって国際レースとしての地位を徐々に確立していった。この段階に至って、ダイムラー・ベンツはル・マンを制覇する対象のひとつとして認識するようになった。
300SLと300SLR(1952年、1955年)
1951年、ダイムラー・ベンツはモータースポーツへの復帰を決定したが、新たなグランプリであるF1用の車両をいきなり用意することはF1をとりまく規則や自社の財政状況などの事情から難しかったため、レース部門はまずスポーツカーレースから始めることにした[189]。1951年のル・マン24時間レースを制したジャガー・Cタイプが市販車のXK120からの派生車だったように、当時としてはこれは成果が充分見込める方法だった[189]。
300SL(W194・1952年)
ルドルフ・ウーレンハウトに率いられたレース部門が最初に開発したのが、1952年の300SL(W194)である。同車はこの年のル・マン24時間レースやカレラ・パナメリカーナを制し、メルセデスチームに幸先の良い復帰をもたらした。しかし、1953年はF1復帰の準備を優先することになったため、その活躍は1952年の1年のみで終わった。
- 300SL(W194)の開発
- ダイムラー・ベンツの取締役会はスポーツカーレースへの参加を決定したが、どういった車両を開発するかはウーレンハウトに一任された[189]。取締役のナリンガーが「3リッターセダン」をベースにしてはどうかと示唆したこともあって、ウーレンハウトは自分が開発して1951年に発売された市販車の300(W186)を新たなレーシングカーの基盤とする方針を立てた[243]。そうして、同車が搭載する排気量3,000cc・直列6気筒のM186エンジンと同車の駆動系全てのコンポーネントを流用しつつ、レース部門はそれらをウーレンハウトのアイデアになるチューブラー・スペースフレームの車体に組み込み、「300SL」(W194)を完成させた[244][189]。
- レースにおける活躍
- 300SLはまず1952年1月のモンテカルロラリーに持ち込まれ、以降は5月のミッレミリアを目標に定めてテストが重ねられた[189]。そのミッレミリアでは3台の300SLを出場させたものの、2位、4位に終わり、優勝を手にすることはできなかった[189]。
- 1952年の最初の大きな成果は6月に開催されたル・マン24時間レースにおける優勝である[189]。このレースは幸運に恵まれた面も大きく、ゴルディーニを駆って独走でレースをリードしていたピエール・ルヴェーがゴールまで残り1時間となったところでエンジントラブルによりリタイアしたことで、それまで2位に付けていたラングとフリッツ・ライスの組が勝利を拾い、2位にはこのレースのみメルセデスチームからスポット参戦していたテオ・ヘルフリッヒとヘルムート・ニーダーマイヤの組が入り、メルセデスチームはル・マンにおける初勝利を1-2フィニッシュで飾った[189]。
- ル・マンで優勝して以降は勢いに乗り、続くニュルブルクリンクにおけるレースも1-2フィニッシュで制し、11月にメキシコで開催されたカレラ・パナメリカーナでも1-2フィニッシュを飾る[189]。当時の同レースはメキシコを舞台に3,000㎞に及ぶ行程を走り抜くというもので、ヨーロッパやアメリカからトップクラスのドライバーたちが参戦し競われ、米国の自動車雑誌では「世界最大のスポーツイベント」と評するものもあるほど大きなイベントだった[189]。このレースで優勝したことで、300SLは世界で最も強力なスポーツカーのひとつとみなされるようになった[189]。
- 300SL(W194/11・1953年)
- 1952年8月、ダイムラー・ベンツの取締役会が翌年もスポーツカーレースに参戦を続けることを決定したため、ウーレンハウトは300SL(W194)のアップデートを進める[W 123]。
- 同年12月には概要をまとめ、ガソリン直噴式エンジンの搭載、トレッドの縮小によるドラッグの低減、重量配分の最適化を通して改善を図ることにした[W 123]。この中で、直噴式エンジン「M198」の採用と、トランスアクスルの採用は特に画期的な物となる[W 123]。ハンス・シェレンベルクとカール・ハインツ・ゲッシェル(Karl-Heinz Göschel)によって開発されたM198エンジンは[W 123]、後にF1カーのW196Rや、後述の300SLR(W196S)のM196エンジンへと発展する。
- しかし、1954年からF1に参戦することが決定し、そちらにリソースを集中させるため、1953年のスポーツカーレースへの参戦は見送るという決定が下される[W 123]。そのため、この車両は300SLの11号車として試作車が1台作られたのみで、レースに参戦する機会を得ることはなかった[W 123]。
- 300SL(W198・1954年)
- 300SL(W194)は後に市販バージョンとして300SL(W198)が発売されることになり、この市販車の設計もウーレンハウトが手掛け、同車はメルセデス・ベンツを代表する車両として知られるようになる[244][W 88]。この車両はレース用に開発されたわけではなかったが、プライベーターによって、ラリーや長距離の公道レースなどで用いられた[W 124][W 88]。
300SLR(W196S・1955年)
1952年の300SL(W194)はチームに充分な成果をもたらしたが、メルセデスチームを率いるノイバウアーは「より強力なエンジン、5速のトランスミッション、強力なブレーキと16インチホイール」を備えた更なる高性能車両をレース部門に求めた[245]。
しかし、F1参戦に忙殺されたメルセデスチームは1953年と1954年はスポーツカーレースに参戦する余裕がなかったため、復帰は1955年のこととなる。
1955年に投入された300SLR(W196S)はF1用のW196Rを転用したもので、非常に高い性能を誇った。全6戦で開催されたこの年の世界スポーツカー選手権で、第3戦からのデビューで4戦のみの参戦だったにもかかわらず、途中棄権したル・マンを除く3戦で優勝し、この年の選手権タイトルを獲得した[246][W 125]
- 300SLRの開発
- 同時期にF1用の車両も準備をする必要があり、フォーミュラ1車両とレース専用スポーツカーを同時に開発することは現実的ではないとダイムラー・ベンツの技術陣は考え、このレース専用スポーツカーは基本的な設計をW196と共有した車両として開発された。そのため、型番も共有して「W196S」となるが、この呼び方はフォーミュラ1車両の「W196R」との混同を生じさせるため、技術陣の間では早くから「300SLR」と呼ばれた[247]。その名称から発表当初から「300SL」の発展形と思われがちだったが、車両としては全く関連がなく、両車の関係を当時のジャーナリストのデニス・ジェンキンソンは「要するに排気量が3リッターであること以外、何の関係もない」と端的に評した[78]。
- その3リッターのエンジンは排気量こそ異なるが、基本構造はF1用の2.5リッターのM196エンジンそのままで、ボア径とストロークをそれぞれ伸長することで排気量を増大させている[78]。エンジン特性も高回転時の大きなトルクはスポーツカーレースではそれほど必要としないと考え、最高回転数は落とされ、ストローク長が長くなっているにもかかわらず、ピストンスピードもM196エンジンよりも低く抑えられている[78]。エンジン重量の増大に対応するため、レーシングカー用のエンジンとしては初めて、アルミニウム合金製のシリンダーブロックを採用して軽量化が図られた[78]。
- エンジンとボディ以外はW196Rとほぼ同じである[248]。300SLRはW196Rより200㎏から300㎏ほど重いが、エンジン出力は300SLRのほうが大きく、速さの点で両車両の性能差はほとんどなかった[249]。1954年9月にモンツァで行われた最初のテストでファンジオが記録したタイムは、自身がW196Rで樹立した当時のラップレコードと比べ、走り始めからわずか3秒落ちるのみだった[249]。
- レースにおける活躍
- 1954年当時、スポーツカーレースにおける強豪であるジャガー(Dタイプ)やフェラーリは3,400㏄以上のエンジンを搭載しており、それに3,000ccのエンジンの車両で対抗するのは「子供が大人に喧嘩を仕掛けるようなもの」だと言われた[245]。
- しかし、デビューした300SLRは無敵といってよい活躍をし[245]、5月のミッレミリアで優勝したのを皮切りに、同月のアイフェルレンネン、8月のスウェーデングランプリ、9月のRACツーリストトロフィー、10月のタルガ・フローリオ、といった出場したレースのほとんどで優勝を飾った[245]。
- 1955年ル・マン24時間レースの事故
- 1955年6月に開催されたル・マン24時間レースで、ピエール・ルヴェーが駆る300SLRが関連した事故が起こり、宙を舞った300SLRは観客席に飛び込み、80人以上の観客を死亡させる事故を起こした[245]。
- 事故後もレースは続けられたものの、チームとしてはそれどころではなく、ノイバウアーからの連絡により本社では取締役会が緊急で開かれ、ノイバウアーは電話で本社と話し合いを重ねた[250][251][W 91]。この間にスタートで出遅れていたファンジオ組がジャガーのホーソーンを抜き去りトップに浮上していたが[W 91]、「多数のフランス人の屍の上で、ルマンをドイツが制す」といった見出しが新聞上に踊れば、それはダイムラー・ベンツにとっては致命傷となりかねないとの判断が下る[注釈 121]。そうして、事故発生からおよそ7時間後の午前1時40分、メルセデスチームは死者に弔意を示しレースを棄権することを決定してサーキットを去った[253][W 126]。
- ル・マン以前の時点でF1からの撤退は決定していたが、ダイムラー・ベンツの取締役会はスポーツカーレースからの撤退も決定し、この年のシーズン後、同社はモータースポーツ活動そのものを休止することを発表した[W 91]。(「#撤退(1955年)」も参照)
グループC(1985年 - 1991年)
1980 | (グループC規定が公表される) |
---|---|
1981 | (ダイムラー・ベンツ有志がザウバーと協働開始) |
1982 | (ザウバー初のグループCカー、C6による参戦) |
1983 | (ザウバーへのエンジン供給が非公式に承認される) |
1984 | (M117HLツインターボエンジンの開発) |
1985 | ザウバーへのエンジン供給開始 |
1986 | スポーツカー世界選手権のレースにおける初勝利 |
1987 | ザウバー・C9登場 |
1988 | メルセデス・ベンツ、ワークス活動再開 |
1989 | シルバーアロー復活。ダブルタイトル獲得 |
1990 | ダブルタイトル連覇 |
1991 | 不振のシーズン 撤退(11月) |
1955年に自動車レースから撤退したダイムラー・ベンツはその後は、ラリーを例外として、モータースポーツ活動を行わなくなっていた。1980年代になって、同社は活動の休止を解くことになるが、それはスポーツカーレースにおける関与を契機とするものだった。
ダイムラー・ベンツは、グループCカーで争われていたスポーツカー世界選手権を戦っていたザウバーに1985年から非公式にエンジン供給する形で関与し始め、1988年から本格的にレース活動を再開し、「ザウバー・メルセデス」として強豪の一角を占めるに至る。同選手権には1991年まで参戦し、その短い参戦期間において、ル・マン24時間レースで総合優勝1回(1989年)、世界選手権でザウバー・メルセデスとしてチームタイトル2回(1989年、1990年)という結果を残した。
この記事では、各シーズンの内容や車両の詳細は大略に留め、活動において「メルセデス・ベンツ」が果たした役割を中心に記述する。
スポーツカーレース復帰に至る経緯
ダイムラー・ベンツとザウバーとの関わりは、レース参加に意欲を持っていたダイムラー・ベンツのエンジニア有志たちが余暇のボランティアとして、ザウバーに協力を始めるという形で始まった。やがて、その活動は、購買層の若年化のための方策を探していたダイムラー・ベンツ中枢の目に留まり、メルセデス・ベンツの自動車レース活動再開へとつながっていくことになる。
- グループC規定が生まれた経緯
- 1970年代後半、スポーツカーレースはグループ5とグループ6の2つの規定に基づいたレース用車両で争われていたが、どちらも自動車メーカーを惹き付けることができずにいた[254]。スポーツプロトタイプカーによるグループ6は、1978年のルノー(アルピーヌ・A442、A443)の撤退以降はポルシェ(936)の一人勝ちとなって盛り上がりを失った[254]。量産車により近い位置付けのグループ5は、自動車メーカーにとって参戦しやすいカテゴリーだったが、ポルシェやプライベーターが走らせていたグループ6車両(レース専用車両)にル・マン24時間レース等で太刀打ちすることは不可能であることから、やはりメーカーからの人気を失っていった[254]。
- そうした状況から、FIAの下部組織である国際自動車スポーツ連盟(FISA)は、1979年から新たなスポーツカー規定の検討を始め、1980年に「グループC」規定が策定される[255]。第2次オイルショック(1979年)の影響下にあった当時の情勢を背景に、この規定は「限られたエネルギーで最大のパフォーマンスを実現すること」をテーマとして策定され、この方針はFISAのテクニカルワーキンググループを構成する各自動車メーカーからの支持を受け、1982年から施行されることが決定されるに至る[255]。
- ダイムラー・ベンツの「リビングルームテーブルクラブ」
- 1955年以来、サーキットにおけるレース活動から遠ざかっていたダイムラー・ベンツだったが、1970年代を通じて試験車両シリーズであるC111によって空力やエンジンの効率性を追求しており[256]、グループCによって示された方針は同社のエンジニアたちの関心を大いに惹き付けるものだった[257][255][注釈 122]。いつしか、ダイムラー・ベンツ社内では有志がランチタイムや週末に集まり、C111-IVに搭載されたV型8気筒ターボエンジンであるM117を搭載したグループCカーの構想を練るようになっていった[255]。
- この集まりのメンバーは、車体設計のレオ・レスとロルフ・ホルツァフェル、ラリー用エンジンの開発をしていたウォルフガング・ミュラー、空気力学を専門とするルディガー・フォールとヘルムート・ユリヒャーの5名で[257][258][W 127]、「リビングルームテーブルクラブ」と呼ばれた[255]。フォールが自宅の「リビングルーム」と全体的なコンセプトを提供し、ユリヒャーが図面を引き、彼らは1981年初めにはグループCカーの設計図を完成させたが、それを実現させる資金などあるはずもなく、活動はそこで停滞を余儀なくされる[257][258][W 127]。
- 1981年8月、ルディガー・フォールは、人づてに彼の名を聞いたスイスのコンポジット会社のジーガー&ホフマン(Seger & Hoffman)から「1982年のグループCカー製作のため、空力の専門家を探している」と問い合わせる電話を受けた[258][255][W 127]。フォールはただ一言、「我々はデザインを既に完了しています」と返答した[257][258][255][W 127][注釈 123]。
- ザウバー・C6(1982年)
- こうして、ザウバー、シーガー&ホフマン、「リビングルームテーブルクラブ」は、ザウバー初のグループCカーである「C6」の開発を開始した[255]。
- ザウバーがアルミモノコックの車体を受け持ち、シーガー&ホフマンがボディカウルなどの製作を担当し、これらはレスとユリヒャーが助けた[255]。問題になるのはエンジンだった。「リビングルームテーブルクラブ」は当然のようにM117エンジンを同車に搭載するつもりだったが、彼らの活動は完全にダイムラー・ベンツの業務外のことであり、M117エンジンを使用するにはC111の開発を所管する乗用車開発部門(アドバンスド・エンジン・リサーチ・センター[261])の許可を必要とした。同部門の責任者で同社取締役のヴェルナー・ブライトシュベルトはエンジンの提供に難色を示し、「ザウバーのプロジェクトはC111の延長線上にある」というフォールらの主張を却下し[255][262]、ペーター・ザウバーもブライトシュベルトにエンジン供給する意思がないか打診するが、これも返事を保留する形でやんわりと断られた[263][256]。同様に、当時、グループB参戦計画の頓挫により手つかずで放置されていたコスワース製の2,140㏄ターボエンジンを転用するという案も却下された[263]。
- ダイムラー・ベンツの乗用車開発部門は、当時は190(W201)の開発が佳境で[256]、乗用車の開発と試作で手一杯の状態で、余計なプロジェクトに関わっている余裕もなかったためであり[263]、開発部門を預かるブライトシュベルトとしては当然の判断だった[264]。エンジン提供は拒否されたが、フォールらはジンデルフィンゲン工場にある1/5モデル用の古い風洞設備の使用許可をラリー部門の責任者であるエリック・バクセンベルガーを介してブライトシュベルトに求め、これには許可が与えられた[263]。
- 結局、エンジンはフォード・コスワース・DFVエンジンのボアストローク拡大版である「DFL」を搭載することに落ち着き、C6は名前に「Seger & Huffman / Sauber」の頭文字を加え、「SHS C6」として完成した[258][255]。
- ザウバー・C7の風洞実験とブライトシュベルトの決断(1983年)
- 結果として、C6は失敗作となり、それに不満を持ったシーガー&ホフマンはレースから手を引いた[258]。ザウバーと「リビングルームテーブルクラブ」は諦めず、1983年に向けて、レオ・レスの設計になる「C7」を完成させた[258][注釈 124]。
- C6で大きな問題となったのはフォード・DFLエンジンが発生する振動で、当のフォード社も不出来なDFLを主な原因として、自社のグループCカーであるC100による参戦を諦めたほどの難物だった[265]。ザウバーにとって幸いなことに、1983年はスイスのエンジンチューナーであるハイニ・マーダーが、ほぼ無償で2基のBMW・M88エンジンを貸与してくれた[266][258][267]。
- ダイムラー・ベンツ社内では、「リビングルームテーブルクラブ」の活動は正式に認められたものではなかったものの、C111時代のつながりから、空力部門などは彼らの活動を黙認していた[266][262]。空力を追求するにあたって重要となる剛性試験台と解析用コンピュータの使用は、彼らの活動に好意的だったラリー部門のバクセンベルガーが許可した[263][258][262]。しかし、モータースポーツを行っていなかった当時のダイムラー・ベンツは厳密な空力測定をさほど必要としていなかったため、縮尺模型用のムービングベルト(ローリングロード)付き風洞を持っていなかった[注釈 125]。より正確な計測を必要とした「リビングルームテーブルクラブ」は、ウンターテュルクハイムの本社施設にあるアドバンスド・エンジン・リサーチ・センターが管轄する1/1風洞の使用を画策する[262][注釈 126]。
「 | この車には、気に食わないことがひとつある。エンジンだ。ダイムラーのエンジンであるべきだ。[264][258] | 」 |
—ヴェルナー・ブライトシュベルト(1983年5月4日) |
- 1983年5月4日、フォールはウンターテュルクハイムの風洞にBMWエンジンを搭載したザウバー・C7を運び入れ、風洞実験を始めた[264][262]。この実験は許可されたものだったが[264]、不審に思った風洞オペレーターによって責任者のブライトシュベルトが呼び出される[264][262]。図らずもテストに立ち会うことになったブライトシュベルトは、そこでC7の仕上がりやテストの様子に魅了されてしまい[256]、(BMWではなく)メルセデス・ベンツエンジンを使うよう注文を付け、モータースポーツ参戦についての企画書を提出するようフォールに言って立ち去った[264][262]。ダイムラー・ベンツを自動車レース復帰へと方向づけたという点で、この出来事はほぼ半世紀前のキッセルとノイバウアーのやり取りの再現となり[264]、ここから事態は急速に進展していくことになる[258]。
- 生粋のエンジニアだけで構成された「リビングルームテーブルクラブ」には考えが及ばないことだったが、巨大な自動車企業によるモータースポーツへの参戦は技術開発だけを目的として行えるものではなかった[262]。特にダイムラー・ベンツでは「復帰」となれば、1955年の撤退との兼ね合いであるとか、いずれ「シルバーアロー」の復活まで見据えなければならないことであるとか、考慮しなければならない事柄も多く、サーキットレースに再び参加するためには、取締役会を納得させられるだけの理由付けが必要だった[262]。フォールらが提出してきた企画書は満足のいくものではなかっため、ブライトシュベルトは老練な役員たちを納得させるために、半年に渡って慎重に根回しを行い、額は少ないながらも、グループC用エンジンの開発予算を獲得することに成功した[269]。
- 1983年10月23日、ダイムラー・ベンツの正式なモータースポーツ活動としてではなく、アドバンスド・エンジン・リサーチ・センターの権限でザウバーへのエンジン供給契約が結ばれた[258][269][W 127]。その6日後の10月29日、当時のダイムラー・ベンツ取締役会会長のゲルハルト・プリンツが心臓発作により54歳の若さで急死するという椿事があり[W 129]、それに伴い、ブライトシュベルトはその後任として取締役会会長に就任した[W 130]。以降、ザウバーへのエンジン供給は、ダイムラー・ベンツとしては非公式な活動でありつつも、同社経営陣トップのブライトシュベルトによる後ろ盾を得ることとなる[264][258]。
- M117HLツインターボエンジンの開発(1984年)
- ブライトシュベルトは、ザウバー担当として、ヘルマン・ヒエレス(Hermann Hiereth)と、M117エンジンの開発者であるゲルト・ヴィザルム(Gert Withalm)を任命し、彼らがダイムラー・ベンツ側の責任者となる[258][269][W 127]。グループCカー用のエンジン開発は、ヴィザルムではなく、若手のヴィリ・ミュラー(Willi Müller)が担当するという布陣が構築された[270][表記の注釈 7]。予算の都合上、V8のM117エンジンをベースとするという点は動かせなかったので、ミュラーはグループCの技術規則が定める約1.8km/l以上という燃費効率を満たしつつ、同エンジンで650馬力程度を出力するにはどうすればよいか検討を行った[269]。C111-IVに搭載されていたM117と同じ排気量3,000ccで製作する場合、回転数は7,500rpm、過給圧は1.5バールほど必要になる計算となるが、そのためにはシリンダーブロックを頑丈にする必要があり、重量面でデメリットがあった[271]。比較検討した結果、ミュラーはM117の排気量を5,000ccに拡張し、回転数は6,000rpm程度、過給圧を0.7バール程度に抑えるのが最適という結論に至る[271]。M117エンジンは市販車用に開発されたものであり、コンロッドやピストンなどはレース用に適さなかったため、これらはザウバーに紹介されたハイニ・マーダーの助力を得つつ開発が行われ、ターボチャージャーはポルシェを参考にしてKKK製を装着し[272]、M117HLツインターボエンジンが完成した。
- 同エンジンの最初のベンチテストは1984年12月に始められ、並行して、ザウバーでは、レオ・レスの指揮の下、BMW M88用に製作されていたC7をM117HLエンジンに適合するよう変更する形で、ザウバー・C8の開発が進められた[255][262]。
ザウバー・メルセデス誕生(1985年)
1985年、あくまで非公式なものではあるが、メルセデス・ベンツはザウバーにエンジンを供給するという形でトップレベルのスポーツカーレースに復帰した。この年の時点では、エントリー名は単に「ザウバー」とし、メルセデス・ベンツの名は車両にも刻まない形となった[注釈 127]。
この年から1987年にかけての活動はダイムラー・ベンツとして正式に認めたものではなく、エンジンはダイムラー・ベンツが製造した量販車用エンジン(M117)をハイニ・マーダーがレース用にチューニングしてザウバーに送っている、と、表向きには説明されていた[231]。しかし、実際には、ハイニ・マーダーでチューンしたのは数基のみで、大部分はウンターテュルクハイムで用意したレース用エンジン(M117HL)がザウバーに直接送り届けられており[231][W 131]、このことは当時から公然の秘密だった[W 93]。
一方、あくまで非公式な活動であることから、ダイムラー・ベンツのエンジニアたちはザウバーに協力するにあたって、それまでの「リビングルームテーブルクラブ」と同様、余暇を充てるか、同社に休暇届を出して参加した[231]。
- C8の不発
- C8は春も終わろうかという時期になってようやく完成し、6月のル・マン24時間レースに参戦すべく準備が整えられた。準備は順調とはいかず、ホッケンハイムリンクで行われたシェイクダウンで、スプリングが柔らかすぎたことと車高設定のミスからピッチングが発生して、車両前部を破損するというトラブルが発生した[273]。ル・マンの直前に再びホッケンハイムでテスト走行が行われたが、今度はスプリングが固すぎて操縦困難となり、ル・マンには2台エントリーしていたところを1台のみ送り出すこととなる[273]。
- ル・マンでもC8の操縦性は最悪で、サルト・サーキットの6㎞に及ぶ「ユノディエール」ストレートでは強力なM117HLエンジンにより370 km/hを軽々と上回ったが、ダウンフォースの不足によりコーナーが致命的に遅く、ライバルのポルシェ・962Cや956Bなどが練習走行で3分20秒台のラップタイムを刻む中[注釈 128]、C8は3分37秒を出すのがやっとという有様だった[273]。挙句の果てに、練習走行でユノディエールを走行中、シェイクダウン走行時と同じようにピッチングを起こして車両前部が破壊され、ダウンフォースを失った車両前部が浮き上がって車両が宙を舞う事故を引き起こした[268]。幸い、ドライバーのジョン・ニールセンは無事だったが、この事故により、ザウバーはこの年のル・マンを棄権した[268]。
31年ぶりの勝利(1986年)
この時期、ダイムラー・ベンツが確保した予算はエンジン開発の分だけであり、予算不足に苦しむザウバーに新型車両を用意する余裕はなく、前年不具合を起こしたC8を改修して1986年のレースに挑むことになった。
そんな折、元BMWのモータースポーツ部門の責任者で、当時はIMGにいたヨッヘン・ニアパッシュが、ザウバーの窮状を助けるため、ザウバーにイヴ・サンローランを紹介した[274][231][W 93]。同社は、化粧品ブランドの「クーロス」をPRするため、シリーズ戦であるスポーツカー世界選手権の中でもヨーロッパの数戦でレースのスポンサーを務める予定だったことから、ザウバーのスポンサーとなることにも前向きで、ザウバーがル・マンだけではなく同選手権の数戦にも出場することを条件として契約はほどなくまとまった[274]。
こうして1986年の選手権に挑んだが、その場しのぎの改良ではC8の根本的な遅さはどうにもならなかった。ル・マン直前のシルバーストン戦では、ラップタイムが1分10秒台の同サーキットで、予選時に過給圧を高め700馬力まで出力を増大させたC8は、自然吸気エンジンを搭載して出力は650馬力に過ぎないジャガー・XJR-6にラップタイムで4秒も離されてしまい[注釈 129]、シャシーの性能の低さを露呈することになる[274]。
5月末のル・マン24時間レースでは、前年のような不具合こそ起きなくなったものの、予選のラップタイムはポールポジションのポルシェ・962Cから10秒以上も遅く、20秒以上離されていた前年よりはかなり短縮したとはいえ、全く勝負にならなかった[274]。このレースで、メルセデス・ベンツエンジン搭載車両としては、1950年代以来初めて[注釈 130]、ル・マン24時間レースの決勝レースを走行したが、出走した2台ともレース半ばでミッションとエンジンを壊してリタイアとなる[274]。
- ニュルブルクリンク1000㎞
- ル・マンで惨敗したザウバーは、8月のニュルブルクリンク1000kmを目標に定め、それ以前のレースは全て棄権し、C8の改良を敢行した[274]。クーロスの援助を得たとはいえ予算が少ないことに変わりはないため、改良する箇所を車体底部(フロア)とリアウィングに絞り、ダウンフォースの増強に努めた[274]。その間、ダイムラー・ベンツもM117HLエンジンの改良を進め、過給圧を見直すとともに、ターボチャージャーのタービンを変更することでスロットルレスポンスと燃費を大幅に改善し、燃費を考慮した決勝でも680馬力を出力可能とした[274]。
- 8月のニュルブルクリンク1000㎞は悪天候のレースとなり、ドライバーのマイク・サックウェルが改良されたC8を駆ってポルシェワークスチームの962Cをオーバーテイクする奮闘を見せ、クラッシュと悪天候を理由に962Cを擁する各チームが棄権したこともあって、ザウバー・メルセデスは初優勝を遂げた[274]。ダイムラー・ベンツにとっては、スポーツカーレースでは1955年以来31年ぶり、北コースとGPコースという違いはあるが、ニュルブルクリンクでは1954年ドイツグランプリ以来32年ぶりとなる勝利だった[274]。
ザウバー・C9登場(1987年)
1987年シーズン、ザウバーは待望の新型車ザウバー・C9を第4戦から投入した。この年は初期トラブルにより結果にはつながらなかったものの、上位争いが可能となり、その活躍はダイムラー・ベンツを動かすことになる。
- C9の開発
- C8で戦うことが限界であることは明らかであり、チーフデザイナーのレオ・レスはC8をウンターテュルクハイムの風洞に入れて問題の洗い出しを行い、そこで得た結果から、フロントとリアのダウンフォース配分、重量配分を適正なものにすることをテーマに据えて、新型車の計画を練っていた[276]。同時に、空力の面ではジャガーに対抗することは難しいと判断し[注釈 131]、空力面で劣る分はメルセデス・ベンツエンジンで補うという方針を立てた[276]。
- トニー・サウスゲートがジャガー・XJR-6(1985年半ばにデビュー)で持ち込んだカーボンファイバーのモノコックはレスも導入を希望したが、予算の面から不可能だったため、C9では引き続きアルミニウムを用いつつ、ハニカム構造を導入して強度を向上させた[276]。車両内部のレイアウトは大きく見直し、ラジエーターをコクピット脇後方に置くというC8で採用されていた配置(サイドラジエーター)は大きなドラッグを発生させていたため、C9ではラジエーターをフロントノーズ内に配置する形(フロントラジエーター)に変更した[276][注釈 132]。フロントラジエーターにしたことの効果は非常に大きく、車両前部でダウンフォースが発生可能となった上、重量物のラジエーターが移設されたことで前後の重量配分も改善された[278]。
- ザウバー・C9は1986年9月には最初の車両が完成し、上記の開発を通じて、C8と比べて30%大きなダウンフォースを獲得した[258][279]。しかし、ドラッグも大きいという点が問題となり、この解決には時間がかかることとなる[258][注釈 133]。
- M117HLエンジンは、ボッシュが新たに開発したエンジンコントロールユニット(ECU)である「MP1.7モトロニックシステム」が組み込まれ、大きな進化を遂げた[279]。従来のECU(MP1.2モトロニック[280])は燃料噴射と点火だけをコントロールする比較的単純なものだったが、新型ECUは、スロットル開度や吸排気される空気の温度、エンジンの状態といった様々なデータに基づいて燃料噴射、点火、過給圧を最適に制御することが可能な、いわば「エンジンマネジメントシステム」となっていた[279]。
- エンジンの出力はC8に搭載されていた時よりもさらに向上し、決勝で700馬力、予選では800馬力以上を出力可能となった[279]。それでいて、ヴィリ・ミュラーの尽力により、コンロッドがチタン化されるなどして、重量は従来より20㎏軽い189㎏となった[279][280]。C9に搭載するにあたってエンジンは大きく改良されたため、従来型と区別して「M117HL-C9」と呼ばれることもある[279]。
- 動き出すダイムラー・ベンツ
- ザウバー・C9は高いポテンシャルを持つ車に仕上がり、予選でも決勝でも上位を争う位置に着くことが可能になったものの、初年度はトラブルも多く、結果にはつながらなかった[258]。しかし、上位争いを始めた「ザウバー・メルセデス」は、ダイムラー・ベンツ本社のマーケティング部門や宣伝部門から関心を寄せられるようになる[278]。当時の同社は購買層の高齢化が悩みの種だったが、ザウバーの活躍により、モータースポーツにおける成功は効果的な宣伝になる(のではないか)という認識が醸成されていった[278]。同年9月1日、ダイムラー・ベンツの取締役会会長はブライトシュベルトに代わって、社内変革を掲げるエツァルト・ロイターとなり[281][W 132][W 133]、こうした動きは同社をレース復帰の方向に傾かせていくこととなる。
- このレースの直後、ダイムラー・ベンツのマーケティング部門は「メルセデス・ベンツにとってグループCによるレース参戦が若い層へのアピールには最適」というレポートをロイターら新首脳陣に提出した[278]。既に1955年のル・マンの事故の記憶は世間から薄れていたとはいえ、この提案はダイムラー・ベンツ首脳陣の間で慎重に検討された[278]。取締役の一人であるヴェルナー・ニーファーは、グループCへの参戦がメルセデス・ベンツの技術力やイメージに利益をもたらすということを訴え、最終的にその意見は支持され、1988年1月12日、ダイムラー・ベンツの取締役会はモータースポーツへの復帰を決定した[258][282][W 131]。
ワークス活動の再開(1988年)
1988年1月15日、ダイムラー・ベンツはモータースポーツへの復帰を公表した[W 134]。これに伴い、同社のモータースポーツ部門全般の代表としてヨッヘン・ニアパッシュが任命された[231][注釈 135]。ダイムラー・ベンツはザウバーへのエンジン供給を正式な活動として承認し、ザウバーのレース活動に資金援助をすることも可能となった[231]。
ワークス体制となったことで、エントリー名は正式に「ザウバー・メルセデス」に改められ[注釈 136]、1988年シーズンからは世界選手権にフル参戦を開始した。
この年はミシュランのタイヤトラブルに翻弄されることになり、開幕前テストからタイヤ起因と考えられる不具合が発生し、解決できないままル・マンに挑むこととなった[283]。5月末のル・マン24時間レースでは、予選でまたしてもタイヤトラブルが発生し、ミシュランのエンジニアと原因を探ったものの特定には至らなかったため、大事を取って決勝レースへの参戦は見送った[231]。
ル・マンこそ不本意な結果となったが、選手権では強さを発揮し始め、全11戦中5勝を収め、9戦でポールポジションを獲得した[280]。大量ポイントが得られるル・マンを棄権したことが響き、チームタイトル争いはジャガーに敗れてランキング2位となったものの、互角の戦いを演じ[261][280]、最終戦ではザウバーとしては同選手権で初となる1-2フィニッシュを飾り、次シーズンに期待を残す年となった。
- ダイムラー・ベンツの参画による変化
- ワークス体制となってダイムラー・ベンツが最初に手を付けたのは、テレメトリーシステムの導入である[282]。これはダイムラー・ベンツでは1978年に試験車両のC111-IIIを開発する際に導入と開発を始めたもので、走行中の車両からその時の走行速度、前後横方向のG、エンジンの状況、サスペンションの変位、タイヤの情報といった、車体の主だったデータをピットに電波で送ることができるシステムである[282]。この点では1987年からC9が「エンジンマネジメントシステム」であるMP1.7モトロニックシステムを搭載していたことも好都合となり、このシステムはチームを大いに助けることとなる[282]。
- 前年末でザウバーとイヴ・サンローランとの契約期間が終了したことから、ダイムラー・ベンツグループの電機メーカーであるAEGが新たなスポンサーとなり、C9のカラーリングは前年の青(ダークブルー)から黒に変更された。イヴ・サンローランとの契約終了により、ザウバーはそのままでは撤退の危機にあったのだが、ダイムラー・ベンツのワークス活動として支援が受けられるようになったことで、継続参戦が可能となり[258]、その投資によってザウバーの本拠地のあるヒンウィルに近代的なファクトリーが新築され、設備は一新された[W 94]。
- 人員面では、1987年時点でザウバーは常勤のおよそ12名とパートタイムのエンジニアがいるのみの小規模な開発体制だったが、徐々に増員され、1990年には50名規模にまで拡大し、本格的な開発体制が構築された[W 94]。これに加えて、ダイムラー・ベンツのウンターテュルクハイムでは100名のエンジニアがザウバー用のエンジン開発に従事するようになった[W 94]。
「シルバーアロー」の復活(1989年)
4月、この年の世界スポーツプロトタイプカー選手権の開幕戦の開催地である鈴鹿サーキットに、ザウバーはシルバーのカラーリングが施されたC9を持ち込み、前触れなく「シルバーアロー」が復活した[219]。
この年はC9も熟成され、ザウバー・メルセデスがポルシェ、ジャガーといったライバルたちを圧倒し、全8戦の選手権で7勝を収め、ザウバーは同選手権に参戦して初のチームタイトルを獲得した。ドライバーもジャン=ルイ・シュレッサーがドライバーズチャンピオンとなり、ランキングの2位から4位も全てザウバー・メルセデスのドライバーで独占した。
選手権外のレースとして開催されたこの年のル・マン24時間レースは、1-2フィニッシュで制覇し、メルセデス・ベンツとしては1952年以来37年ぶりとなるル・マン優勝を果たした[注釈 137]。
- 「シルバーアロー」復活の理由
- C9のカラーリングは開幕前の発表会の時点では前年とほぼ同様の黒いAEGカラーであり[286]、開幕戦で銀色に変更された理由は、ダイムラー・ベンツ社副社長でモータースポーツ推進派のヴェルナー・ニーファーの個人的意向だと表向きは説明された[287]。しかし、実際の事情としてはマーケティング部門と宣伝部門の要請によるものであり、ダイムラー・ベンツはこの年の6月に乗用車部門を「メルセデス・ベンツ社」(Mercedes-Benz AG)として独立させる予定だったため、同社の確固たるアイデンティティを示すために行われた施策だった(同社の初代社長にはニーファーが内定していた)[288]。
- C9/89の開発
- レオ・レスは、1988年型C9(C9/88)の時点でル・マン以外の「短距離」のレースではC9の性能に自信を持っていたことから[注釈 138]、1989年型C9(C9/89)の開発では、24時間レースのル・マンに照準を合わせた開発を行い、ル・マンに合ったロードラッグ仕様の開発を重点的に行った[289]。これにより、L/D値(揚抗比)などの値で、当時最高と信じられていたジャガー・XJR-8と同等の空力性能を持つまでになった[289]。
- この年の大きな変更はエンジンである[290]。前年のM117HL-C9エンジンの開発にあたって、2バルブとするより4バルブにしたほうが燃焼効率の点で圧倒的に優れることが判明していた[291]。その時は導入が見送られたが、1989年型C9の開発にあたって、市販車用のM119エンジンの開発ともリンクする形で、4バルブ・DOHCの「M119HLツインターボエンジン」が開発された(排気量は従来通り4,973cc)[291]。熟成に時間を要したものの、4月の開幕戦の時点で、前年の2バルブ・SOHCのM117HLを上回り、決勝で約700馬力、予選では過給圧を高めて925馬力程度の出力を発生させることが可能となった[291]。低回転から大きなトルクを発生するこのエンジンは、この年のC9にとって強力な武器となる[289]。
- こうした改良と動力性能の向上により、この年のル・マンのユノディエールでC9/89は最高時速400㎞超えを記録した[290]。
C11の登場と「シルバーアロー」の連覇(1990年)
1990年シーズンに投入されたC11から、車両名に「メルセデス・ベンツ」が冠されるようになった[284]。チーム名は「ザウバー・メルセデス」のままで運営体制も変化はなく[284][231]、同選手権では「チームタイトル」はあっても、F1の「コンストラクターズタイトル」やWRCの「マニュファクチャラーズタイトル」のような車両の製造者に掛けられたタイトルは存在しないため、選手権上の扱いではこの変更は意味を持たなかったが、ボディ各所には前年までと異なり「Sauber Mercedes」ではなく「Mercedes-Benz」と書かれるようになり、メルセデス・ベンツによる関与がより前面に打ち出される形になった。
チームはこのシーズンも席巻し、9戦中8勝、5回の1-2フィニッシュを遂げ[294]、チームとドライバーの両タイトルを連覇した。シートを分け合って参戦したジュニアドライバーの3名は除いて、レギュラーの3名でドライバーズランキングの上位3位を独占した。チームランキングで2位のジャガーに倍以上、ドライバーズランキングで4位のアンディ・ウォレス(ジャガー)に対してレギュラードライバーの3名全員が倍近くのポイント差を付けるほどの圧勝だった。
世界スポーツプロトタイプカー選手権を統括するFISAと、ル・マン24時間レースの主催団体であるフランス西部自動車クラブ(ACO)との間で前年から発生していた対立の結果、この年のル・マン24時間レースも選手権外のレースという扱いになり、前年優勝チームのメルセデス・ベンツは「世界選手権を優先する」として、欠場した[注釈 140]。
- C11の開発
- C9は1989年のタイトルを獲得したが、元をたどれば1983年のC7の設計に改良を重ねてきた車両であり、そのコンセプトはすでにかなり古いものであった[295][W 94]。ダイムラー・ベンツの支援を得られるようになったことで、レオ・レスはC9以前で予算の制約から断念していた新機軸を新型車のC11で取り入れていくこととなる[W 94]。
- 1988年からダイムラー・ベンツのワークス体制となったことで、C11の開発にあたって同社の総力を結集することが可能となり[W 131]、ルティガー・フォールやかつてのC111の開発メンバーが招集され、様々なアイデアが提出された[295]。
- C9の分厚いフロントノーズ部がドラッグを生んでいることが指摘され、レスもそのことは以前から気づいていたが、1985年ル・マンの時のように宙を舞うことがないよう、安全面を考慮して保守的にデザインするしかない箇所だった[295]。C9までは、ダイムラー・ベンツのジンデルフィンゲン工場にある1/5スケールモデル用の古い風洞と、ウンターテュルクハイム本社施設の1/1風洞を使って作業していたが、これは煩雑な作業を伴うため、最高時速400㎞で走るレーシングカーの今後の空力開発にはムービングベルトを備えた風洞は不可欠と思われた[295]。この調査にはダイムラー・ベンツの力が使われ、スイスの軍用施設に、ムービングベルトを備え、かつ30%スケールモデルを使用可能な風洞があることが判明し、C11の開発に活用された[295]。こうした開発により、C11の空力性能はC9/89と比べて20%向上した[295]。
- C9開発時にレスが希望したカーボンファイバー製のモノコックは予算的には導入可能となり、ダイムラー・ベンツによるワークス体制となった時に、レスはカーボンファイバーコンポジットの研究予算を何よりも先に申請した[296]。製造には専門的な技術が必要となるため、専門家のフランク・コパックを雇い、ザウバーは新たにカーボンファイバーコンポジットの設計製造部門を社内に設けた[296]。ザウバー内に成型用のオートクレーブなどの設備はまだなかったため、C11用モノコックの設計はザウバー内で行いつつ、製作はデビット・プライス[注釈 141]とフィル・シャープによって設立された専門会社のDPS社に外注した[296][W 131]。
- カーボンモノコックの導入により、C11の車体はC9と比べてはるかに高剛性で、かつ非常に軽量に仕上がり、技術規則が定める最低重量の900㎏を下回るため、バラストの配置に自由度が生まれ、重量バランスの調整が容易になった[W 94]。しかし、C11は本来は1989年の投入を目指して開発されていたが、そうした進歩を実現するため、カーボンモノコックの設計ミスにより、投入が1年遅れることにもなった[297]。
- エンジンはM119HLを改良し、ボッシュのECUがMP1.8に更新されたことで、より綿密な制御が可能となった[298]。
- ジュニアチームの創設
- この年、ニアパッシュの発案により、メルセデス・ベンツのジュニアチームが作られ、カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハの3名が選ばれた(→#ジュニアドライバープログラム)。
- この3名はザウバー・メルセデスの1台を任され、交代で「教官役」のヨッヘン・マスとペアを組み、1990年の各レースに参戦することとなる[299][W 94]。彼らのチームはザウバーのスタッフからは「Learners」(見習い)の意味で「Lチーム」と呼ばれた[232]。3名の中で最も有望視されたのはフレンツェンだったが、9月のドニントンに参戦したのみでジュニアチームから離脱した[232]。2年目となる1991年はヴェンドリンガーとシューマッハの2名がコンビとなって甲乙つけがたい走りを見せ、最終戦では2名とも力走を見せ、ベテラン組でも果たせなかった、この年チーム唯一の優勝を挙げることとなる[232]。
不振のシーズン(1991年)
1991年シーズンからはグループCの新規定が施行され、新型車のメルセデス・ベンツ・C291を投入した。しかし、この新型車は完成度が低く、この年は前年までとは一転して陰鬱なシーズンとなった。開幕戦(鈴鹿サーキット)の予選でポールポジションを獲得したジャガー・XJR-14から3.8秒も離されるような状態で、速さに欠けるだけでなく、序盤の数戦は決勝も信頼性不足で完走すらおぼつかないレースが続いた[300]。
この年は全体を通して失意しかないものとなったが、ジュニアチームの伸長は著しく、最終戦(オートポリス)ではヴェンドリンガーとシューマッハの若手同士で組ませた2号車が望外の勝利を遂げた[300]。
- C291の開発
- C291では、レオ・レスによる車体設計は成功作であるC11から根本的な変更はされず、この車両では主にエンジンとその周辺が変更された[300]。車体の大きな変更としてはラジエーターの搭載位置が変更され、C8以前と同じサイドラジエーターになった[301]。C9とC11で用いたフロントラジエーターは重量配分の改善には効果があったが、冷却水の入った配管を車両の前部まで伸ばす必要があり、重量が増えてしまう不利があったためこの変更が行われた[301]。フロントノーズ部は、ラジエーターをなくした代わりにウィングが設置されてダウンフォースを生み出すとともに、コクピット脇前部に設けられたラジエーター吸気口への整流の役目を担っている[301][300]。
- ターボエンジン搭載車のC11ではエンジンへの吸気はボディ表面のNACAダクトのみで行われていたが、自然吸気エンジンに変更されたC291では、NACAダクトでは充分なラム圧を得られないことが最初の車が完成してから判明したため[302]、左右のコクピットドア後方に大きなダクトが追加されている[303][注釈 142]。
- 異形のM291エンジン
- 1991年から始まる新規定では従来存在した燃費についての規制がなくなり、F1と同じ排気量3,500ccの自然吸気エンジンとすることが定められたため[300]、それまで排気量5,000ccのツインターボエンジンを使用していたメルセデス・ベンツ車両はエンジンについては大きな変更を必要とした。
- メルセデス・ベンツのグループC用エンジンはそれまで市販車用のエンジンをベースとしたものだったが、新規定への対応を機に、レース専用エンジンとしてバンク角180度のV型12気筒エンジンのM291エンジンが新たに開発された[300]。メルセデス・ベンツが(市販車用からの転用ではない)レース専用に設計したエンジンを投入するのは1954年のM194エンジン以来のことだった[300]。バンク角を180度としたのは、全高を抑えて重心を低くすることと、車体後部底面に幅の広いディフューザーを置くためである[300]。バンク角の狭いV型エンジンとした場合はエンジンの全高が高くなり、車体底面のディフューザーは左右に分割されてしまうことになるが、バンク角が180度で全高の低いエンジンであれば車体の底面をより平坦に設計できるため、幅の広いディフューザーを設置することができる、という目論見だった[300]。
- このエンジンのもうひとつの特徴は、エンジンヘッドとシリンダーを一体化させたモノブロック構造となっている点である[305]。この構造はガスケットからの漏れを防ぐために導入された[306]。それは12気筒を3気筒ずつ分割し、4基のモノブロックで構成されていた[305]。鋳造で作られたこの部品は多くのトラブルを引き起こすこととなり、対策として大量に作ったモノブロックの中から良品のみを選別してレースに使用することになり、この年だけで200基のモノブロック(エンジン50基分)を作ることになった[305]。
- デビュー当初、出力の公称値は600馬力で、これはライバルであるプジョー・905 Evo 1 bis(670馬力)やジャガー・XJR-14(650馬力)に後れを取るものだったが、シーズン終盤には出力の点ではプジョーに追い付いていたとされる[307]。トランスミッションは、ザウバーとメルセデス・ベンツのグループCカーとしては初めて、シーケンシャルシフトが採用された[308]。
- C11の再登場
- 元々の計画では、スポーツカー世界選手権は、1991年から排気量3,500ccの自然吸気エンジンを搭載したグループC「新規定」の車両のみで争われるようになるはずだった。しかし、それだけでは参加台数を確保できないと判断したFISAは、前年までの旧規定の車両を「カテゴリーC2」車両として参加させることを認めた[294]。
- 「C2」の車両には、新規定車である「C1」の車両以上に活躍してしまわないよう、最低重量や燃料の使用量などでハンデが課されていたため、ザウバー・メルセデスは当初、選手権の「短距離」レースでC11を使用する予定はなかった[294]。しかし、C291の開発が思ったように進まなかったために、序盤戦ではシュレッサーとマスが組んだベテラン組(カーナンバー1)は万全を期して旧型のC11を使用し、ヴェンドリンガーとシューマッハの「Lチーム」(カーナンバー2)は新型のC291を使用するという布陣になった[294]。
- C291は選手権の500㎞弱で争われるレース用に開発されているため、ル・マン24時間レースの距離には対応しておらず、ザウバー・メルセデスはル・マンの決勝レースは3台のC11で戦った[300]。これは当初から予定されていたもので、レオ・レスはル・マンのために1991年もC11の開発をC291と並行して行った。
- 戦闘力は健在でル・マンの予選では最速タイムを記録したものの、カテゴリーC1規定の車両を優先する規則のため、決勝は11番手からスタートした[297]。終盤までレースをリードしたものの、最後はエンジントラブルによりリタイアしている[297]。
- 撤退
- 不振に終わった1991年の雪辱を果たすべく、ザウバーは1992年シーズン用にC292の開発を進めたが、1991年11月28日にメルセデス・ベンツは翌年の世界選手権に参戦しないことを発表し、スポーツカーレースから撤退した[300][W 95]。
- 1991年は開発の年という位置付けであり[306]、同年の不振は撤退の判断にあたってそれほど重要なことではなかった。最終戦が開催された10月末の段階でFISAは翌年のスポーツカー世界選手権の開催カレンダーを発表できておらず、選手権の先行きが不透明だったこと、ダイムラー・ベンツのグループ企業であるAEGの経営合理化のため、大規模な人員整理が必要になったこと、このふたつが撤退の理由とされる[306][120]。この年、ザウバーとメルセデス・ベンツではF1参戦に向けた計画が密かに進められていたが、後者の理由により、メルセデス・ベンツがF1参戦しないことも明言された[120]。
- この後、ザウバーはザウバー単独によるF1参戦に向けて動き出すことになり、メルセデス・ベンツはそれを側面から支援し、やがて自らもF1復帰へと向かうことになる(詳細は「#F1へのエンジン供給」を参照)。
- C292に導入するために開発されたアクティブサスペンションなどの装備は、DTM車両に転用されることになる[309](詳細は「#クラス1」を参照)。
GT1/LMGTP(1997年 - 1999年)
1997 | CLK-GTR: FIA GT選手権参戦と圧勝 |
---|---|
1998 | CLK-GTR & CLK-LM: FIA GT選手権で10戦全勝 |
1999 | CLR: ル・マン24時間レースの事故と撤退 |
1990年代半ば、メルセデス・ベンツはF1やインディカーにエンジン供給をする一方で、AMGを実働部隊としてDTM/ITCに参戦していた[310]。同選手権への参戦は、公道を走る乗用車により近い車両でレースをすることで、市販車のイメージリーダーとするという目的があった[310]。
ITCが消滅したことにより、そうした目的を満たせる場を失ったメルセデス・ベンツは1997年にスポーツカーレースに復帰し、新しく始まったFIA GT選手権にAMGをパートナーとして参戦した[311]。
スポーツカーレースに図らずも復帰した形だが、AMGメルセデスチームはCLK-GTRとCLK-LMを擁して同選手権を2年に渡って席巻した。その結果、同選手権はメーカー同士で競われるGT1クラスを廃止することとなる。1998年と1999年はル・マン24時間レースにも参戦したが、選手権の圧勝ぶりとは異なり、両年とも結果は出ず、1999年のレースでは宙を舞う事故を三度起こして撤退することとなる。
CLK-GTR: FIA GT選手権参戦と圧勝(1997年)
FIA GT選手権のGT1クラスに出場するために必要となるグループGT1車両の開発に充てられる時間はほとんどなかったことから、CLK-GTRの完成は1997年シーズン開幕の直前となり、AMGメルセデスチームは熟成どころかセッティングもろくにされていない状態の車両を1997年の開幕戦ホッケンハイムに持ち込んだ[311]。
初年度はベルント・シュナイダー、アレッサンドロ・ナニーニ、クラウス・ルートヴィッヒ、マルセル・ティーマンをレギュラードライバー、アレクサンダー・ヴルツ、ベルント・マイレンダーらを準レギュラードライバーとして、開幕3戦目までは2台、4戦目以降は3台を投入した。同選手権の前身のBPRグローバルGTシリーズから数えて参戦3年目のマクラーレン・F1 GTRや2年目のポルシェ・911 GT1には歯が立たないという想定だったが、開幕戦から予選でポールポジションを奪い、熟成が進んだ4戦目で初優勝を遂げる[311]。
その後も優勝を重ね、年11戦の内、チームとして6勝を挙げ、シュナイダーがチャンピオンとなり、AMGメルセデスはチームチャンピオンを獲得した[W 135]。
- CLK-GTRの開発
- メルセデス・ベンツは1997年は引き続きITCに参戦するつもりだったため、FIA GT選手権参戦に向けた準備の開始は遅くなり、GT1車両の開発をAMGに依頼したのは1996年12月のことだった[311][W 135]。エンジンは量販車用のV型12気筒のM120エンジンをベースに開発したが、車体は未完成だったため、マクラーレン・F1 GTRに載せてテスト走行を行った[W 136]。
- 車体はマクラーレン・F1 GTRやポルシェ・911 GT1への対抗上、カーボンモノコックの採用は不可避だったため、フルカーボンコンポジットのボディとモノコックを設計し、製造はローラ・コンポジットに委託した[311]。
- 最終的に、新型車両CLK GTRは1997年3月26日に完成し、その2日後にハラマサーキットでベルント・シュナイダーが最初のテスト走行を行った[W 135]。開発開始から完成までにかかった日数はわずか128日だった[311][W 136]。これは4月13日が決勝日の開幕戦のわずか2週間前で、腕に障害のあるナニーニが乗る車両(カーナンバー10)に至っては、特殊なシフトレバーを用意する必要があったため、完成したのは開幕戦の練習走行の前夜だった[311]。
- 本来、ロードカーを完成させてホモロゲーションを取得する必要があったが、メルセデス・ベンツを取り込みたい思惑からFIAは譲歩し、ロードカーの完成はレースカー完成の後でも良いことになり[311]、同年9月にようやく完成した[310]。
CLK-GTR & CLK-LM: 10戦全勝(1998年)
この年は2台を投入し、前年に引き続きシュナイダーとルートヴィッヒを起用するとともに、それぞれマーク・ウェバー、リカルド・ゾンタという若手ドライバーと組ませて、この4名でシーズンを戦い抜いた。
開幕2戦はCLK-GTRで戦い、6月のル・マン後は新型車CLK-LMを投入し、全10戦を全勝し、1-2フィニッシュを6回記録するという、驚異的な成績を残した[311]。
シーズンを通して見れば無敵の結果を残したAMGメルセデスチームだったが、選手権外のレースで、CLK-LMのデビュー戦となったル・マン24時間レースでは、ポールポジションは獲得したものの、出走した2台とも序盤でエンジントラブルを起こし、リタイアに終わった[311]。
- CLK-LMの開発
- エンジンは、前年のV型12気筒のM120エンジンに代えて、V型8気筒のM119エンジンをベースにしたエンジンを開発した[311]。M119をベースとしているという点ではグループCカーの時のM119HLターボエンジンと同じだが、今回のエンジンは技術規則に合わせて自然吸気エンジンとなっている[311]。このエンジンへの変更は、ル・マン24時間レースへの参戦を見据えてのものだったと考えられている[311]。
CLR: ル・マンの事故と撤退(1999年)
2年連続でAMGメルセデスチームが圧勝してしまったため、GT1クラスに参戦していた他メーカーは全て撤退してしまい、FIAは1999年のFIA GT選手権についてGT1クラスを設定しないことを決定した[311]。
この時点でダイムラークライスラーは[注釈 143]、オペル、アウディとともに、2000年にDTMを復活させるための取り組みを進めていたため、この年の選手権を戦えなくなること自体はさほど問題とはしなかった[311]。そのため、この年は前年に不本意な結果に終わったル・マン24時間レースに焦点を絞り、ル・マンに特化したGTプロトタイプ(LMGTP)車両のCLRを用意した[311]。
この年のル・マンで、CLRは計3回に渡って走行中に宙を舞うという事故を起こした[311][312]。3台でエントリーしていたが、木曜の予選と土曜の練習走行時で、どちらも4号車が事故を起こし、土曜の事故で車両は大破して走行不能となった。レースには残った2台で挑む決断が下され、結果として、5号車も同様の事故を起こしたことで、その時点でトップ争いをしていた6号車もピットに呼び戻し、AMGメルセデスチームはレースを棄権した[311][312]。
1955年の事故とは異なり、この時の3回の事故で大きな怪我をした者は(奇跡的に)いなかったものの、より大きな事故に発展していた可能性は高く、練習走行までに2回の事故があったにもかかわらず決勝レース出場を強行した無謀さは非難を受けることとなる[312][注釈 144]。
最初の2回の事故は映像として残っていなかったが、レース本番で起きた3回目の事故はテレビ中継中に発生したため、多くの目撃者を生んだ[W 137]。この事故は「メルセデス・ベンツ」ブランドのプロモーションにとっては大きな打撃となり[注釈 145]、ダイムラークライスラーはスポーツカーレースからの撤退を決め、モータースポーツ全体についても、今後の活動の再評価を行うことになる[W 138]。
2021年時点で、これがメルセデス・ベンツがル・マンに参戦した最後のレースとなっている。
- CLRの開発
- 基本的には前々年のCLK-GTR、前年のCLK-LMを踏襲した車両だが、ロードカーにすることを考慮しなくてよくなったため、ボディ形状は空力を最優先したものになり[311]、ル・マンのみで走らせる車両であるため、オーバーハングは1,200mmという非常に長いものとなった[312][W 137]。
- しかし、空力を優先した結果、ピッチングを抑えるためのサイドダンパーを装着するスペースがなくなってしまい、前年までは装着していたそれを取り外したと言われている[311]。また、空力の検証は本来の風洞施設を使えなかったため、シュトゥットガルト大学の風洞を借りて行われた[312]。この風洞はローリングロードを持たない古いタイプのもので、車高を下げた時の走行データを取れていなかった[312]。
- 最初の車両は1999年2月に完成し、カリフォルニア・スピードウェイ、ホームステッド=マイアミ・スピードウェイといったオーバルトラックや、ホッケンハイムリンク、(比較的)テクニカルなマニクールといったヨーロッパの高速サーキットで、走行距離としては合計で35,000km近くになる入念なテスト走行が行われた[W 139]。ル・マンでは、予選前日の水曜に行われた練習走行の時点でピッチングの症状が出ていたことをチームは認識していたが、テスト走行時には安定していたことで、こうした不安定な挙動の兆候は軽視された[312][W 140]。
- CLRの事故がその後の技術規則に及ぼした影響
- ル・マンの事故については、空力の不具合(設計ミス)によるものというのが一般的な見解である[314][W 137]。事故直後から、FIA、ダイムラークライスラーそれぞれで空力の検証調査が行われた[313][W 141][W 137]。その結論を受け、1999年10月の世界モータースポーツ評議会で、FIAは、ACOをはじめとするスポーツカーレースの主催団体に対して、各団体が定める技術規則について、前後オーバーハング長の制限、フラットボトムの形状見直し、車体前後の空力付加物の形状や寸法の見直しなどの方法により、ピッチングへの過敏な反応を抑える対策を取るよう求めた[310][注釈 146]。この事故はレース関係の組織以外からも研究テーマとして注目され、SAE Internationalでは、CLRのような形状の車両で、ピッチングによりフロントノーズ部が1°持ち上がると離陸する恐れがあり、2.5°持ち上がると確実に離陸するという実験結果が提出されるなど[W 142]、この事故に関連した複数の論文が発表されことになった[310]。
- こうした研究成果が反映され、後のル・マンプロトタイプ(LMP)車両では、前後オーバーハングの長さ規制が導入され、2011年にはシャークフィンの装着、2012年からはフロントフェンダー上部に開口部を設けることが義務化されるなど[W 143]、「離陸」を防ぐための数々の安全対策が施されるようになった。
カスタマーレーシング
GT3(2011年 - 現在)
2010年3月、メルセデスAMGがSLS AMGのGT3レース用車両「SLS AMG GT3」を発表した[W 144]。ダイムラーとしては初のカスタマーレーシング専用の車両で[W 145]、AMGは同年にプライベーターへの販売を開始し、翌2011年から各地域のGT選手権で用いられるようになった[W 145][W 3]。
SLS AMG GT3はドバイ24時間レース、ニュルブルクリンク24時間レース、スパ・フランコルシャン24時間レースなどの耐久レースで優勝を飾るとともに、SUPER GT(GT300クラス)など、各地のGT選手権でも活躍した。2014年には、SLS AMG GT3の後継車両としてメルセデスAMG GT3が発表され、2016年からレースに参戦している[W 3]。
注釈
- ^ 本記事では、ブランドとしての「メルセデス・ベンツ」との区別を容易にするため、会社組織としての「メルセデス・ベンツ・グループ」(Mercedes-Benz Group AG)と「メルセデス・ベンツ」(Mercedes-Benz AG)について社名であることがわかるよう末尾に「社」を付ける。
- ^ 本記事では、混同の恐れがない場合、ダイムラー社(DMG)のことは「ダイムラー」、ベンツ社のことは「ベンツ」と表記する。カール・ベンツ、ゴットリープ・ダイムラー、パウル・ダイムラーは常にフルネームで表記する。
- ^ ダイムラー社(メルセデス)とベンツ社の車両の多くは馬力を入れた名称を付けられている。馬力の表記は原語のドイツ語では「PS」(仏馬力。この車両であれば「35PS」)、英語ではしばしば「HP」(英馬力。同「35HP」)が用いられている。日本語表記では「PS」と「HP」の表記が混在しているが、メルセデス・ベンツ日本では「PS」表記を用いているため、この記事では車名の表記に「PS」を用いる。
- ^ 本記事では、(第二次世界大戦以前の)同社の設計開発部門の長(「technical director」、「chief engineer」)について、日本語資料でよく使われる表記に合わせて「技術部長」と表記する。
- ^ ダイムラー・ベンツ社の表記について、他の会社と並記する都合などがない限りは、本記事では「ダイムラー・ベンツ社」ではなく「ダイムラー・ベンツ」と表記する。
- ^ 本記事では1926年から1955年までの同社のレースチームに「メルセデスチーム」という表記を用いる。1926年から1955年まで、同社は自社チームに社名と同じ「ダイムラー・ベンツ」(Daimler Benz AG)という名称を用いてレースに参戦しているが、この表記を用いると会社としてのダイムラー・ベンツとの混同を避け難いためである。ノイバウアーやカラツィオラは自伝の中でチームを指す時に単に「メルセデス」と呼んでいるため、「メルセデス・ベンツチーム」ではなく「メルセデスチーム」と表記する。
- ^ 「Willi Müller」は「ビリ・ミラー」、「ウィリ・ミュラー」と日本語の資料によって表記ゆれがある。一貫性のため、「ヴィリ・ミュラー」と表記する。
出典
- ^ カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーは生涯面識を得ることがなかった[8]。両者が自動車を発明した後、カール・ベンツはゴットリープ・ダイムラーと会ってみたいと思ったが、機会は訪れず[8]、そうこうする内に1900年にゴットリープ・ダイムラーはこの世を去った。
- ^ その後、今日のメルセデス・ベンツ・グループ社までに、1926年に両社の合併によって設立されたダイムラー・ベンツ社(Daimler-Benz AG)、1998年にクライスラーとの合併により設立されたダイムラークライスラー(DaimlerChrysler AG)、クライスラー部門の分離により2007年に改名された「ダイムラー」(Daimler AG)を経て、現在の「メルセデス・ベンツ・グループ」(Mercedes-Benz Group AG)という社名にはトラック部門との分離により2022年に改名された。自動車のブランド名としての「メルセデス・ベンツ」はダイムラー・ベンツ社が設立された1926年に制定され、会社としてのメルセデス・ベンツ社(Mercedes-Benz AG、2代目)は2019年に設立された(詳細は「#沿革」を参照)。
- ^ 写真の車両は販売代理をしているエミール・ロジェの名前から「ロジェ・ベンツ」とも呼ばれる。運転席に座っているロジェは右手でティラーハンドル(舵式のハンドル)を握り、左手でスロットル調整用のレバーを握っている。
- ^ 自動車を使った最初のイベントについて、フランスの新聞「ル・ベロシペード」が1887年に企画したヌイイ(パリ)からヴェルサイユに向かうショートレースが最初の例だとする説もある[9][W 9](走ったのはセーヌ川周辺のみという説もある[W 10])。このレースは開催当日の1887年4月28日(もしくは4月20日[W 10])に参加したのがジュール・アルベール・ド・ディオンの蒸気自動車1台のみだったため[9][W 9][W 10][W 11]、イベントとして不成立とみなし、1894年のパリ・ルーアンを最初の例とするのが通説である。
- ^ パナール・エ・ルヴァソールの共同経営者であるエミール・ルヴァソールとゴットリープ・ダイムラーの間には親交があり、ルヴァソールは単にダイムラーのエンジンをライセンス生産するだけでなく、共同でエンジンを開発するパートナーという面があった[11]。(「パナール」も参照)
- ^ 2座が対面式となっていることからこの名称が付けられた。自動車を受け入れたのはフランスが先だったため、ベンツ車は当初はフランス語による名前が付けられていた[12]。「ヴィ・ザ・ヴィ」と表記されることもある[12]。
- ^ この時の車両について、資料によっては「ベンツ・ヴェロ」となっているが、ダイムラー社は「ヴィザヴィ」としているので[W 14][W 15]、本記事ではそちらに沿って記述している。ドライバーのエミール・ロジェはフランスで1888年からベンツの販売を手掛けていた人物である[13][14][W 16]。
- ^ フランクフルトで行われたレースのような閉鎖された周回路におけるレースは認めた[20]。
- ^ カール・ベンツは自伝の中でレースに興じるフランスとアメリカをそれぞれ「スピード中毒の国」、「スピード狂」と評しており[24]、自身の考えとは距離があることを示している。
- ^ イェリネックは「ムッシュ・メルセデス」という仮名を用いてレースに参加した[27]。仮名で参加していた理由は、19世紀末の時点では自動車遊びは「貴族や上流社会の者が嗜むような趣味ではない」という偏見があったためである[27]。同様の理由で、イェリネックと同じくダイムラーの初期の顧客である[28]、銀行家のアンリ・ド・ロスチャイルドも「ドクター・パスカル」という偽名を名乗ってレースに参加していた[27]。
- ^ 総領事というのは名誉職のようなもので、本業は実業家だった[29]。夏はウィーン近郊のバーデン、冬は温暖なニースに住むという生活を送っていた[20]。
- ^ フェニックスは馬車のデザインをまだ引きずっており運転席の位置が高いこと、車体前部に重いエンジン(300㎏)を搭載し、高性能なエンジンを冷却するためラジエーターも大型化し重心が極端に前に寄っていること、にもかかわらずスピードは時速80㎞以上出ることなどから、事故は起こるべくして起こったとも考えられている[31]。後のダイムラー・ベンツは「シャシーはエンジンより速くあらねばならない」という哲学を持ち、足回りはエンジンより勝っているべきだとしていたことからすると、フェニックスはそれとは極端に反した車だった[29]。
- ^ この1号車は2座席のレース仕様として1900年末に完成し、1901年3月にニース・スピードウィークに投入された[35]。1901年中に公道用のツーリングカー仕様(4座席)なども製造・販売された[35]。
- ^ イェリネックはダイムラーの自動車を委託販売する形で商売をしていたが、この時の依頼では36台全て買い取ることを約束した[36]。36台というこの注文は当時のダイムラーが年間に販売する台数の1/4に相当する大口の注文だった[37]。
- ^ 他に、オーストリア、ハンガリー、フランス、ベルギー、アメリカ合衆国における販売代理権も要望した[29][34]。イェリネックが名前に要望を出した理由はいくつかあったとされる。ひとつはフランスではパナールがダイムラーのエンジンの製造権を持っていたため、ダイムラーの名前を使うと混乱を招く恐れがあったためである[36]。ふたつ目の事情として普仏戦争(1870年)による反ドイツ感情がフランスにはまだ残っており「ダイムラー」というドイツ的な名前は避けたい思惑があったためである[36]。「メルセデス」という名にした理由としては、顧客の富豪たちは皆が男性であることから「愛してもらうには女性の名であらねばならぬ」という判断があったためと考えられている[34][39]。
- ^ メルセデス・35PSは先進的な設計の車ではあったが、ニース・スピードウィークは当時の自動車レースとしてはローカルな小イベントであり、35馬力という出力も当時としては大きなものではなく、1901年当時の時点で他の車両と比べて圧倒的に優れた性能を持つというわけではなかった[41][31](スプリントレースやヒルクライムには強かったものの、当時の主流である都市間レースには向いていなかった[42])。ダイムラーはより大きな自動車レースでも競争力を持てるようメルセデスに改良を重ね、1902年には後継車両のメルセデス・シンプレックス(40馬力)が開発され、優れた車体性能を持つメルセデスは倍以上の排気量を持つライバルに対しても総合性能で遜色のない走りをすることができるようになった[31]。
- ^ ガンスは商才のある人物で、1890年代にベンツ車が利益をあげられるようになったのは、販売網を構築し大型の取引を獲得したガンスの功績とされる[45]。1900年に年間603台を売って世界一の販売台数を記録したベンツ社だったが[46]、ダイムラー(メルセデス)の台頭に伴い、1902年には385台まで落ち、その後も200台以下にまで落ち込んでいった[2]。
- ^ 「ミスター・オイゲン」を名乗る人物がベンツ車でエントリーして、開催地のパリまでは行ったがレースに参戦はしなかった[50]。
- ^ 6月10日午前2時半頃とされる[51]。
- ^ 当時は全てイギリス領。前年にイギリスチームが勝ったためイギリス開催となったが、本島での開催が不可能だったためアイルランド島で開催することになった。
- ^ ウンターテュルクハイムにおける最初の施設は1903年12月に操業を開始した[51]。その後、カンシュタットは1904年にシュトゥットガルト市の一部になり、1933年7月に「バート・カンシュタット」に名が改められた。100年以上経った2023年現在の今日でも、バート・カンシュタット南部からウンターテュルクハイムにかけたネッカー川沿岸一帯にメルセデス・ベンツ・グループ社の本拠地が置かれている。
- ^ ゴードン・ベネット・カップは国別対抗を強調するあまり、部品のひとつに至るまで自国の製品であることを求めた[50]。ダイムラーは上記の第4回大会でメルセデスに「ドイツ製の」ミシュランタイヤ(フランス)を履かせてアイルランド島に到着したが、これも不許可となるほど厳格に運用されており、現地でコンチネンタル(ドイツ)に交換する羽目に陥っている[53]。
- ^ 今日のグランプリレース(F1)につながるグランプリという意味では、この時のレースが最初のグランプリにあたる。「グランプリ」という名前が自動車レースに付けられたのはこの時が初めてというわけではなく、厳密には、1901年にフランスのポー・レースウィーク中の比較的小さな自動車レースで「ポーグランプリ」の名称が付けられた例が最初と考えられている[57]。
- ^ マイバッハが設計して1906年からレースに投入され、先進的すぎたために不振の原因となったOHCエンジンを巡る争いが、マイバッハが離脱する主因となる[59]。表面上の原因とは別に、根本的な原因はダイムラー(DMG)の技術陣の間に以前からあったマイバッハの才能への嫉妬心だったと言われており、イェリネックも同社のこの悪弊については嘆く言葉を残している[59]。
- ^ パウル・ダイムラーはゴットリープ・ダイムラーの息子で、1906年まではダイムラーの子会社のアウストロ・ダイムラーで技術部門の責任者(技術部長)をしていた。パウル・ダイムラーは、当初、マイバッハのOHCエンジンを自らが設計した無難なプッシュロッドエンジンに置き換えるが[61]、数年後、レース用と航空機用の全てのエンジンでOHCを採用し[62]、マイバッハの方針が正しかったことを追認することになる。
- ^ この1908年時点で、ベンツはダイムラーと遜色ないレベルまでレース車両の開発能力を高めていた[64][25]。ベンツのエメリは優勝したメルセデスのラウテンシュラガーに対して6時間のレースで8分遅れで2位となっているが、このレースでエメリは跳ね石でゴーグルを破損して目の治療のためにタイムロスしており、それがなければ優勝もあり得たと言われている[25]。
- ^ この月のレースは11月2日のレースと11月28日のレースがあり、前者を不成立として後者を「米国で最初のレース」とみなす説が比較的一般的だが、メルセデス・ベンツ・グループ社は前者を最初のレースとみなしている[W 31]。ベンツ車両はどちらのレースにも参戦し、11月2日のレースでは優勝(唯一の完走)、11月28日のレースでは2位という結果を残している[W 31][W 32]。
- ^ 車名の「18/100」は、「18」は課税馬力、「100」は公称馬力に基づいて付けられている[67]。
- ^ これは小排気量車を得意とするフランスとイギリスの車両を有利にするためだったと考えられている[68]。
- ^ このレースの例から後のノイバウアーではなくザイラーを「史上初のレース監督」とする見方もある[71]。
- ^ 序盤でザイラーが飛ばして捨て駒となったのはレース前から決められていたチームの作戦だったと言われている[72]。これが自動車レースにおいて「チーム戦術」が用いられた史上初の例だとされることもある[64]。
- ^ 当時はレース用車両でもブレーキを後輪のみに備えるのが一般的だったが、1914年フランスグランプリのプジョーは四輪全てにブレーキを備えており(史上初とされる)、制動力に優れ、非常に洗練された車両だった[71]。一方で、このレースにおけるプジョーの敗因として、チームとしてのプジョーは前年と前々年のフランスグランプリを連勝していたことで油断があったことと、5月のこの年のインディ500にチーム全体で遠征したため、フランスGPに対する準備不足があったことの2点が指摘されている[69]。
- ^ 2位になったルイ・ワグネの車両だとする説もある[W 38]。
- ^ 終戦からしばらくはイギリスやフランスのレース主催者は敵国だったドイツ車の参加を認めなかったため、レース活動の舞台はもっぱらイタリアとなった[64]。
- ^ イタリア国内の公道レースであるため、1924年のタルガ・フローリオに参戦したメルセデス車両・3台はレース中にイタリア人観客から妨害(投石)を受けることを避けるため、例外的に白ではなくイタリアのナショナルカラーである赤で塗装された[W 41][W 42]。
- ^ 前述してきたように、1900年代からのダイムラー社(DMG)のレーシングカー開発の中心人物でもある。1923年にダイムラーを去り、フェルディナント・ポルシェが後事を引き継いだ。
- ^ 一例として、1.5リッターDOHC、4気筒エンジンにスーパーチャージャーを装着した場合、当時としては驚異的な80馬力を発生させることができたと言われている[64]。
- ^ このレースは全5周で争われ、最初の4周はタルガ・フロリオ、全体の5周はコッパ・フロリオという扱いだった[83]。
- ^ 写真左側が車体前部、右側が車体後部である。ボディはレースの種類に応じて複数の仕様があり、この画像の形態はグランプリ仕様である。
- ^ 前述してきたように、1900年代からのベンツ社のレーシングカー開発の中心人物でもある。後述するように、ダイムラー・ベンツではダイムラーから合流してきたフェルディナント・ポルシェとともに技術部門を担った。ポルシェが1928年限りで去った後は単独の技術部長となり、1934年のW25の開発まで手掛けた(同年末に急死)。
- ^ 1926年にメルセデス・ベンツとなってからはリアエンジン・ミッドシップのレイアウトはしばらく採用しなかったが、四輪独立懸架の足回りは採用し、レース用車両では、メルセデス・ベンツになってから初めて開発されたレース専用車であるW25(1934年)から使用している[87]。(後述)
- ^ 1928年限りでダイムラー・ベンツを去ったが、1930年代末の速度記録車「メルセデス・ベンツ・T80」の開発にあたって再び関与する(「#T80(1939年)」を参照)。
- ^ 「SS」は「Super Sport」の略というのが正式だが、ドイツ語の「Sehr schnell」(とても速い)の略だと言われることもある[98]。
- ^ ポルシェには小型大衆車を作りたいという夢があり、高級車の開発販売を志向するダイムラー・ベンツと対立した結果、同社を去った[81]。
- ^ 「K」は「Kompressor」の略で、スーパーチャージャー搭載であることを示している。
- ^ SSKLの製造台数は4台、もしくは数台のみだと言われている。製造台数が不明瞭なのはレース専用として開発された特殊な車で、製造台数について正確な記録が残っていないためである[105]。「SSKL」として製造された車両は製造記録の上では「SSK(1931年型)」となっていて、通常のSSKと区別できないためである[W 56]。乗用車も含めた「SSK」全体でも製造台数は30台を少し超える程度(「33台」と言われることが多い)であり[106][81]、いずれにせよ当時の時点でも希少な車だった。
- ^ 戦略面からの貢献が大きかったことから、監督のノイバウアーはミッレミリアについて自伝で詳細に記している[108]。一方、ドライバーのカラツィオラは、この年に新型車タイプ51を投入して優勢だったブガッティに対して、不利を覆して勝利したドイツGPが印象的だったようで[110]、自伝の中でドイツGPのことを詳細に記述して懐古している[111]。
- ^ 実際にこの規定が採用されていたのは1922年から1925年の4年間のみだが[112]、フォーミュラ・リブレが主流となったことで、イタリアとフランスのメーカーは1920年代後半もこの規定をベースにした車両で参戦する例が多かった。
- ^ レースに参戦するためではなく、オープンカーとして使用した[W 59][W 60]。
- ^ 「キュウリ」と名付けたのはドライバーのブラウヒッチュ[W 56]、「ツェッペリン」と呼んだのはベルリンの観客たちだと言われている[117]。
- ^ カラツィオラが去った後もレースに情熱を燃やしていたノイバウアーは、1932年は職務としてではなく個人的にブラウヒッチュらメルセデス系プライベーターの監督をしていた。この年はダイムラー・ベンツからプライベーターへの技術的な支援もほとんどなくなっていたが、ノイバウアーの計らいにより、このレースの前にブラウヒッチュのSSKLはエンジンのオーバーホールを受け、ギア比を高速寄りに変更するという調整も施された[W 53]。そういった整備や調整もあったが、もしもエンジンの出力のみでSSKLの最高速を20 km/hも高めようとしたら、80馬力は向上させないといけないと考えられており、このボディの効果は絶大だった[W 64][W 62]。
- ^ この年のカラツィオラは白い車両と赤い車両のどちらにも乗っている[118]。ノイバウアーは自伝でこのレースの車両を「赤いアルファ」と記しているが[119]、当時の写真は白の車両なので白としている[W 65]。
- ^ レース中はカラツィオラに先行させ、その後ろでスリップストリームに入りつつ、無用の争いを避けてタイヤを温存し、最後に首位に立つ、というのがノイバウアーの作戦で、カラツィオラもその作戦を見抜いていた[119]。レース途中で指示に従わずに首位を走行したブラウヒッチュに対してノイバウアーは激怒している[119]。
- ^ 設立時のアウトウニオンは規模としてはダイムラー・ベンツよりも若干大きく、1933年時点でダイムラー・ベンツの年間売上がおよそ1億ライヒスマルクだったのに対して、アウトウニオンは1億1600万ライヒスマルクほどだった[121]。ナチス政権が誕生したことで両社ともに売上を倍以上に増やすが、ダイムラー・ベンツは軍需製品の受注が伸びたことから、1930年代半ばからは両社の売上規模は逆転することになる[121]。
- ^ レース中の事故の多発が問題になっており、安全性向上のため、車両の高速化に歯止めをかける狙いがあった[115]。重量以外は規制されておらず、排気量も無制限だが、1920年代の「2リッターフォーミュラ」に類する車両の車重がおおむね700㎏から800㎏程度だったことから、重量の上限が750㎏であれば、エンジン出力は自然と250馬力程度に抑えられるという思惑だった[87]。後述するように、この思惑は大きく外れることになる[123][W 69]。
- ^ 最軽量のSSKLでも1,500㎏あるため。
- ^ 1933年と1934年に休止していたヨーロッパ選手権がこの年に復活し、ドライバーズタイトル(ヨーロッパチャンピオン)が掛けられるようになった。
- ^ ヒューンライン自身が大の自動車レース好きだったという事情にもよるとされる。カラツィオラはヒューンラインについて「いばりちらしてはいるが人のよい男で、国家社会党の理想を心から信じており、自分の地位を利用して金持ちになったり利権をほしいままにしたりはできない男だった」と述懐し、悪印象はなかったことを述べている[131]。アウトウニオン側から関わりのあったフェリー・ポルシェはヒューンラインについて「面白味に欠けた男で、レースに純粋に興味を持っていたことを除けば、(能力的に)その役職に全く不適格であるように見えた」と評している[130]。
- ^ メルセデスチームの復帰レースにあたる。同チームのイタリア人ドライバーであるルイジ・ファジオーリがレース序盤をリードしていたが、NSKKの顔を立てるため、チームメイトの(ドイツ人である)ブラウヒッチュに譲るようチームオーダーが出されたと言われている[132]。チームの要請に従い2位に下がったファジオーリは、レース終盤に「ちょっとした不具合」があったためピットでリタイアし、ブラウヒッチュが優勝し、アウトウニオンのハンス・シュトゥックが2位に入り、ドイツ人ドライバーが1-2フィニッシュを遂げるというレース結果が残された[132]。
- ^ 開戦後はウーレンハウトは出自を理由にゲシュタポの監視下に置かれており、個人としては制約が課されている。
- ^ もともとは年間45万マルクをダイムラー・ベンツに支払うという取り決めだったが、アウトウニオンが異議を申し出たため両社で折半して22万5千マルクずつということになった[73]。
- ^ 政府からレースチームへの奨励金について、ノイバウアーはボーナスを含めて「年間45万マルク」で「レーシングチーム1つを維持していく費用の10%以下だったが、無いよりはましだった」と記している[115]。シルバーアロー時代の年間予算について、資料によって、「250万マルク」[74][W 29]、「400万マルク」[75]という説もあるが、ノイバウアーの発言を信じれば500万マルク程度ということになる。
- ^ ニベルとマックス・ヴァグナーのコンビは、W25の設計を担当する以前の1931年にリアエンジンの試作乗用車W17の設計を手掛け、1934年にその市販車である130 (W23)が発売されている。
- ^ 通常は314馬力で、コンプレッションを上げることで最大354馬力を発生させることができた[75]。
- ^ 1934年のW25のデビュー時点で、ライバルであるアウトウニオンのV型16気筒(V16)エンジンはW25のM25Aエンジンより排気量が1,000㏄ほど上だった[75](4,300cc程度)。そのため、M25エンジンにはスーパーチャージャーの改良などにより、初年度の内に数度の強化が加えられた[75]。
- ^ 補欠として、ハンス・ガイアー、エルンスト・ヘンネとも契約している[W 69]。
- ^ ドライビング能力への評価はともかく、性格に激しやすい面があるのはファジオーリも同様であり、彼の起用は気が進まなかったことをノイバウアは述懐している[142]。その不安は的中し、チームスピリットというものを持たないファジオーリとはやがて決裂することになる[143]。
- ^ このテストは5月末のアヴスレンネンの練習走行を利用して行われ、カラツィオラはブラウヒッチュとファジオーリのタイムを破った[129]。
- ^ テストの段階でW25ショートカーに問題点があることはわかっていたが、この初戦は雨だったため、カラツィオラは車をだましだまし走らざるを得ず、問題点の洗い出しは遅れることになった[146]。
- ^ この車両は前2シーズンに使われたW25と外観が異なるが、正式な型番は「W25」のままで、ダイムラー・ベンツの中では単に「モデル1936」もしくは「ショートカー」と呼ばれた[148][149]。同社が後年作成した資料の中では区別のための便宜上「W25E」と表記しているケースもある(W25の各モデルにこの種の区別が必要になる場合、同社はM25エンジンの型番に合わせてアルファベットを付している)[149]。他の呼称(ダイムラーが用いない呼び方)として、「W25C」(1934年の車両を「A」、1935年の車両を「B」とみなした呼び方)、「W25K」(「ショートカー」を意味する「Kurzer Wagen」の「K」を付けた呼び方)が用いられることもよくある[150]。
- ^ 「M25C」の次が「ME25」となるのは、搭載見送りとなった試作V12エンジン(MD25エンジン[W 79]、M25DABエンジン)が「D」に相当するためである[151]。このDシリーズエンジンはグランプリレースで使用されることはなく、フォーミュラ・リブレで行われた1937年のアヴスレンネンで1基のみ用意され、ブラウヒッチュ車に搭載された例が数少ないレースでの使用例である(練習走行で故障した)。その後は速度記録車用に転用されることになった(詳細は「#最高速度記録」を参照)。
- ^ 結果的にこれは過剰となり、ド・ディオン式サスペンションはW25の車体に対して「性能が良すぎた」ため、接地性や加速が向上した分、剛性の弱い車体フレームに負荷をかけて不具合を引き起こす一因となっていたことが後に明らかになる[153]。
- ^ ホイールベースが短すぎたことに加えて、車体剛性の不足に問題の大きな原因があることが後に明らかになった。
- ^ ウーレンハウトはレーシングカーの運転経験はなかったが、ニュルブルクリンクで市販車の走行テストをする際に高速走行の経験は豊富だったため、W25も問題なく運転することが可能だった[154]。
- ^ 失敗作のW25ショートカーもドディオン式のリアサスペンションは高く評価されていたため、W125でも修正の上で取り入れることになった。
- ^ レース部門の設立後も実際の開発は中央設計本部がしばらく担当した[157]。W125の車体を設計したのはヴァグナーだが、実質的にコンセプトはウーレンハウトによるものであることから、W125はウーレンハウトの設計だとされることが常で、ノイバウアーやダイムラーはW125はウーレンハウトが設計した車両として説明している[138][W 80]。
- ^ 一例として、1960年代から1970年代までF1で広く使用されたフォード・コスワース・DFVエンジンの出力は400馬力から500馬力程度であり、過給時のM125エンジンはそれを上回る出力ということになる。速度記録車については話が別で、同時期のシルバーアローによる挑戦では元々は1936年型W25用に開発されていたV型12気筒のM25Dエンジンを転用しており、1937年末のW125レコルトワーゲンに搭載されたM25DBAエンジンは最大で736馬力を瞬間的に出力したとされる[161]。
- ^ タイムアタックを行わせ、このオーディション中に1名が事故死している。
- ^ 社会階級の違いからラングを見下す傾向があったのはブラウヒッチュに限らず、中産階級出身のカラツィオラもラングが台頭するようになるとブラウヒッチュに連帯するようになり、ドライビングについてカラツィオラを絶賛するノイバウアーもこの点は手を焼いたことを自伝の中で記している[138][163][164]。
- ^ 唯一落としたのはイタリアグランプリで、このレースではアウトウニオンのヌヴォラーリが優勝した。このレースでカラツィオラが3位に入ってヨーロッパチャンピオンを確定させたものの、レースそのものは完敗したため、ノイバウアーは激怒する[89]。
- ^ この選択は特に不自然なものではなく、他のチームの大部分も自然吸気エンジンか過給機付きかという違いはあれ、最大排気量にすることを選択した[155]。
- ^ W154はW125を小排気量にリファインしたものだと説明されることがあるが、実際には逆で、1936年時点ですでに構想が固まっていたW154を幹として、急遽開発が必要になったW125という枝が派生したというのが実態であるとされる[165]。
- ^ 外観が異なっていたことに加えて、車両発表時にダイムラー・ベンツが出したプレスリリースの誤表記により、この車両は(エンジン名の「M163」から)「W163」という誤った車名で紹介されてしまい、1960年代まで「1938年の車両はW154で、1939年の車両はW163である」という誤解が通説としてまかり通る結果となった[168]。
- ^ 非選手権の主要レースも含めれば、この年はイタリアで開催された5月のトリポリグランプリ、7月のコッパ・チアーノ、8月のコッパ・アチェルボ(ペスカーラ)、9月のイタリアグランプリ(モンツァ)のいずれもドイツ車が勝利している。コッパ・アチェルボでは、少しでもイタリア、フランス車が戦えるようになるよう、メルセデス・ベンツとアウトウニオンが絶大なアドバンテージを持っていた直線区間の途中にシケインを設けるということまでしたが、それでも歯が立たなかった[174]。
- ^ オスマン帝国から奪取した1911年(伊土戦争)からイギリスに奪取される1943年までの間、トリポリはイタリアの植民地だった。(この時期については「イタリア領リビア」を参照)
- ^ ラング車はスピードは出る代わりにタイヤの摩耗は早まるため1ストップ作戦、カラツィオラはノンストップ作戦として、ラング車にトラブルが発生した場合に備えた[163][177]。
- ^ 独ソ不可侵条約は1939年の開戦直前に結ばれた条約であり、これを独ソの一時的な協調だと見る向きはあったにせよ、2年も経たない内に破られると予想することは当時のドイツの人々には困難だった[180]。
- ^ 一例として、スイスに置かれた2台のW165はスイス当局に差し押さえられ、戦利品として競売にかけられている[182]。1台(1号車{車体番号449546}[183])はスイスのメルセデス・ベンツディーラーが競り落として取り戻したが、もう1台は人手に渡っていった[182](2023年現在は2台ともメルセデス・ベンツ博物館が所蔵している)。
- ^ この見方はナチス政権に限ったことではなく、「スイスに逃亡し、ドイツを守る義務を果たさなかった」ことから、カラツィオラに対する不評はレース仲間の間でも存在した[179]。
- ^ ファンジオのスタイルを学ぶため、モスはファンジオの車の後ろにぴったりとついて走るということを複数のレースで行っていた[185]。ファンジオは英語を話せず、モスはスペイン語を話せなかったため、会話はモスが少し話せたイタリア語とジェスチャーを混ぜて行われたが、この二人は仲は良かったという[186]。モスが仕掛けてこないことを知っていたため、ファンジオも無理にインを閉めるような走りはしなかった[186]。
- ^ 移籍前のマセラティでも2勝しておりファンジオとしてはシーズンで6勝している。
- ^ 7戦中1-2フィニッシュは4回記録し、4台が参戦したイギリスグランプリでは1位から4位までを独占した。
- ^ 1939年トリポリグランプリで、W165はアルファロメオ・158に難なく勝利しているが、アルファロメオは1946年にはレース活動を再開し、158には1940年代後半を通じて改良が加えられていた。
- ^ シートには蟹股で座る必要があり、シフトチェンジも通常とは逆なのでそれを覚えるのに少し時間がかかったとモスは回顧している[186]。
- ^ 画像の車両は300SLRのエンジンを搭載した3リッターカーで、非選手権で用いられた(当時のF1の技術規則には適合しない)。M196エンジンより大きなエンジンを搭載しているため、ボンネット中央にふくらみがある[202]。
- ^ 高速サーキットのモンツァであればストリームライナー仕様が当然速いと思われたが、モンツァでも誰が乗り比べてもオープンホイール仕様のほうがラップタイムは2秒速かった[205]。これは、ストリームライナー仕様にはコーナーからの立ち上がり加速時にリアタイヤがグリップを失う特性があることと、正確なコーナリングが困難だったことが原因だった[205]。
- ^ 契約前にモスはW196の試乗を行っているが、これは(シーマンの時のように)メルセデスチーム側がオーディションとして行ったものではなく、起用をオファーされたモスの側が契約前に試乗しておきたいと要望したため行われた[208]。
- ^ メルセデスチームは同種の高速輸送車を1920年代から運用していた[210][211]。
- ^ その後、1967年に廃棄されたが、1993年から復元計画が進められ、2001年に復元車が完成した[W 88]。
- ^ 「Mercedes-Benz AG」。ダイムラー・ベンツ社内の組織再編により、乗用車部門の子会社として1989年から1997年まで一時的に存在していた(2019年の組織再編によって設立された同名の会社とは異なる)。
- ^ F1復帰に向けた動きが始まった時期について、当時メルセデス・ベンツのモータースポーツ部門責任者だったヨッヘン・ニアパッシュは「メルセデスがレースに復帰した時(1988年)」としており、他方、マックス・ウェルティやレオ・レスのようなザウバーの関係者は「1990年以前にそうした動きがあった覚えはない」と語っている[W 94]。
- ^ 表向きはグループCカー開発のためということで、F1参戦は否定していた。この時点では、メルセデスはエンジンサプライヤー(エンジン供給のみをする立場)としてF1参戦するという考えを持っていなかった[216]。
- ^ M291エンジンは1991年の世界スポーツカー選手権(WSC)新規定に合わせて開発されたもので、これは将来のF1参戦で使用することも視野に入れて開発されたものだったため[120]、F1参戦するにあたってこのエンジンの使用を最初に考えることは順当なことだった。
- ^ ポスルスウェイトがザウバーに移籍する直前に在籍していたティレルは翌1992年からイルモアを搭載する予定だったため、ポスルスウェイトはイルモアについてよく知っていた[217]。
- ^ ペーター・ザウバーとイルモアのマリオ・イリエンは同郷(どちらもスイス人)であり、ザウバーはイリエンと面会させるため、メルセデス・ベンツ社社長のニーファーと同社エンジン部門の責任者ウォルフガング・ペーターをイルモアに連れていって説得を試みた[218]。その結果、両名ともイルモアの設備やエンジンに大いに感銘を受け、イルモアがザウバー用のF1エンジンを手がけることが承認された[218]。1997年にメルセデス・ベンツ社がダイムラー・ベンツに再吸収された際、イルモアとの提携関係は引き継がれた。
- ^ ニーファーはモータースポーツ推進派だったが、「F1に参戦しない」と表明するよう親会社であるダイムラー・ベンツの強い意向が働いたため、そう発表せざるを得なかった[218]。同じタイミングでスポーツカー世界選手権からの撤退も発表している[W 95]。
- ^ F1参戦計画の撤回に際して、ダイムラー・ベンツはザウバーに対してAMGのようにメルセデス専門のチューナーにならないかと提案したが、ペーター・ザウバーは「サッカーチームにサッカー以外のことをやらせても、うまくいくはずがない」と言って断った[220]。
- ^ メルセデスからの資金提供は大きな額ではなく[221][218]、年間3000万マルク(約21億円)だったと言われている[218]。メルセデスから提供される資金のみではザウバーがプライベーターとして参戦する費用を賄うことはできなかったため、ザウバーは独自にスポンサーを開拓する必要があった[221][216]。これらの点について、ペーター・ザウバーはメルセデスは「十分以上の義理立てをしてくれた」と回想している[219]。
- ^ 上記の通り、2014年をもって供給契約を終了していたが、2021年からメルセデス・ベンツPUの供給を再び受けるようになった(カスタマー契約のため有償供給となる)。
- ^ 1970年代後半にBMWがF2で組んでいたマーチと協力して展開したもので、ブルーノ・ジャコメリ、マルク・スレール、エディ・チーバーらを発掘し、彼らはF1までステップアップしていった[232][233]。
- ^ フレンツェンの離脱後にフリッツ・クロイツポイントナーが起用されているが[232]、ニアパッシュによれば、クロイツポイントナーはル・マン24時間レース参戦のためのリザーブドライバーという位置付けで、フレンツェンの後任というわけではなかったという[234]。
- ^ アイルトン・セナの死亡事故が発生した1994年サンマリノグランプリで使用されたオペル・ベクトラAは、同車としては高性能な204馬力の2リッターターボ・4x4モデルだったが、十分な性能を持っていなかったとしてしばしば非難されている[236][W 110][W 111]。豪雨となった1994年日本グランプリで使用されたのはホンダのクーペであるプレリュード(4代目)で、これは問題なく役目を果たしたものの、同じ会社の最高性能車であるNSXを使用しなかったことには疑問の声も挙がった[W 112]。このように、性能や車種の選択で懸念や疑念を生むことがしばしばあった。
- ^ ダイムラー・ベンツが供給を開始する前の1996年4月のアルゼンチングランプリでは、ルノー・クリオがセーフティカーとして使用されている[W 116]。そのため、単独供給の開始時期について、1996年とする例と1997年とする例のどちらもある。
- ^ デ・パルマの1914年型グランプリカーもパーツの不足のため整備不能になり、一説には買い取られてヨーロッパに戻ったという。
- ^ この試みとは別にルドルフ・カラツィオラも1946年にW165を用いてインディ500に参戦しようとしたが、これはメルセデス車両を用いた参戦は実現しなかった(詳細は「ルドルフ・カラツィオラ#1946年インディアナポリス500」を参照)。
- ^ その後、このW154・9号車は複数のオーナーの手を経た末に、アメリカからヨーロッパへと戻った[240]。エンジンは、リーの死後、人手に渡っていたところでリッチー・ギンザーによって発見されてヨーロッパに戻った[240]。さらに後、W154のボディは元の形状に復元され、1980年代になって元のエンジンと組み合わされて再びひとつになるという数奇な運命をたどった[240]。
- ^ 実際には初年度の1995年シーズンから複数チームに供給された。
- ^ 当時、インディカーでイルモアエンジンのライバルはフォードのバッジを付けたコスワースだったが、イルモアが所在するブリックスワースとコスワースが所在するノーザンプトンは10㎞ほどしか離れておらず、パブでのちょっとした会話や噂などの形で情報漏洩は容易に起き得る環境だった[W 119]。イルモアで同エンジンの開発に関わっていた従業員たちは家族にもプッシュロッドエンジンの話をしないよう言い渡された[W 119]。
- ^ また、このエンジンは3,400cc(約209立方インチ)という、当時のインディカーとしては珍しい大きな排気量であることから「209」がしばしば強調される[W 119][W 121]。
- ^ カムシャフトを用いたエンジン(OHCエンジン)はカムシャフトとベアリングの摩擦が抵抗を生んでいたが、イルモアのプッシュロッドエンジンは摩擦による損失(フリクションロス)の低減に重きが置かれ、摩擦の発生個所が少なく抑えられていた[W 119]。それに加えて、ライバルのフォード・XBエンジンが750馬力の最大出力時に12,000回転/分だったのに対して、排気量の大きな500Iエンジンは9,800回転/分で最大出力の1,024馬力を出力可能だったので、レブリミットは10,500回転/分に設定していたほどで[W 117]、エンジンの回転数も低く、摩擦による抵抗が小さかったことが燃費に寄与したと言われている[W 119]。
- ^ ル・マンで起きた事故について、ドイツではテレビで報じられリアルタイムで論議されており[251]、ダイムラー・ベンツとしてもドイツの国民感情の高まりを無視できなくなっていた[252]。
- ^ C111シリーズは1960年代後半にルドルフ・ウーレンハウトがいた頃に着手された試験車両開発計画で、最終的には市販車に活用することを目的として、高効率なエンジンであるとか、空力的なドラッグの極小化を通じて燃費効率の高い車両を研究していた[256](結果的に市販車の域を超えた高性能車を開発していっていた)。そのため、グループCで掲げられたテーマは彼らの研究テーマと共通項のあるものだった。
- ^ ジーガー&ホフマンにフォールを紹介したのは、シュトゥットガルト大学で空気力学を研究していたユルゲン・ポットホフ(Jürgen Potthoff)である[259][260]。ジーガー&ホフマンからの問い合わせを受けた時点でポルシェ・956の開発に協力していたポットホフは協力することはできなかったため、元教え子のフォールをジーガー&ホフマンに推薦した[259][260]。
- ^ レオ・レスは1982年末にBMWにヘッドハントされ、この時点で既にダイムラー・ベンツを離れていたが、ザウバーのプロジェクトには有志として携わり続け、1985年にザウバーにテクニカルディレクターとして正式に移籍することになる[258]。
- ^ これはダイムラー・ベンツに限ったことではなく、1980年代のヨーロッパにおいて、本格的なムービングベルト付きの風洞を持っていることで知られていたのはイギリスのインペリアル・カレッジだけだった[268]。
- ^ この風洞もムービングベルトは備えていない。レーシングカー用のムービングベルト付き1/1風洞(100%風洞)は、15年後ほど経った後に初めて作られた[W 128]。
- ^ 続く1986年と1987年もチーム名にメルセデス・ベンツの名はないが、ボディには「MERCEDES」と書かれるようになった。
- ^ このレースの予選ポールポジションのタイムは3分14秒8。
- ^ 当時のシルバーストンは超高速サーキットであり、予選では、過給圧を高めることが可能なターボエンジン搭載車が自然吸気エンジン搭載車より有利だったにもかかわらず、大差で後れを取ってしまった。
- ^ ダイムラー・ベンツとしては1955年限りで撤退したが、1956年にプライベーターが300SLを走らせた例がある[275]。
- ^ ジャガーのグループCカーは、当時レース用としては唯一だったインペリアル・カレッジのムービングベルト付きの風洞を使って開発されていたため。
- ^ ポルシェをはじめ多くのチームは重量物を重心近くに集める考えからサイドラジエーターだったが、ジャガーはV12エンジンとのバランスを取る意味合いもあってXJR-6からフロントラジエーターの配置を採用しており[277]、C9はそれに続くものだった。
- ^ C9の実質的な最終年である1989年に、通常の選手権レース用のスプリント仕様(短距離仕様)とは別に、ル・マン用にロードラッグ仕様を用意することになる。
- ^ スーパーカップはグループCカーを使ったスプリントレースとして開催されていた選手権で、1986年から1989年までの4年間のみ開催された。当時の西ドイツの国内選手権に過ぎず(ドイツレーシングカー選手権の後継シリーズにあたる)、基本的にポルシェの独擅場だったが、ジャガーや日産自動車のような外国勢も参戦していた。
- ^ 1986年にザウバーにイヴ・サンローランを紹介した縁から、ニアパッシュはダイムラー・ベンツのザウバー担当だったヘルマン・ヒエレスと接触するようになり、ダイムラー・ベンツと接近していた[274]。
- ^ 1985年から1987年の間は単に「Sauber」というチーム名か、メインスポンサーのクーロスの名称で「Kouros Racing」としてエントリーを行っていた。
- ^ ザウバー・メルセデスは3台で1-2フィニッシュと5位フィニッシュを達成した。この結果について、ニアパッシュもペーター・ザウバーもこの年は勝てるとは考えておらず、目標は完走することだったと語っており[284][285]、ニアパッシュはこの結果は「ある意味で非常にラッキーだったんだろう」と後に語っている[284]。
- ^ ル・マン以外のレース距離は前年までは1000㎞のレースが多かったが、1989年から同選手権のテレビ放映権がF1と同じFOCAに委ねられた関係から、テレビ中継しやすいことを理由に480㎞くらいに短縮された。
- ^ 「C9」の次が「C11」となった正確な理由は定かでないが、2つの説が知られている。ひとつはワークス体制になってから新規に開発され、C9から大きな飛躍を遂げたことから「C111」へのオマージュを込めたという説である[292]。もうひとつは、より現実的な事情によるもので、ドイツ語では「C10」は「ツェー・ツェーン」(/t͡seː/ /tseːn/)となり発音に難が伴うため飛ばしたという説である[293][W 94]。
- ^ ペーター・ザウバーはこれは「ル・マンが世界選手権に加えられるべき」という意思表示としての出場拒否だったと述べている[284]。
- ^ デビッド・プライス・レーシング(DPR)の創設者でもある。
- ^ エアインテークは屋根の上に設ける方法もあるが、その場合、ドラッグが増えるという欠点があった[304]。加えて、C291は後述するようにエンジンのバンク角が180度であるため、インテークマニホールド(エンジン本体の吸気管)は低い位置にあり、配管が複雑になりすぎるため、インテークを車の屋根に置くという配置は現実的ではなかった[304]。
- ^ グループ内の組織再編により、1997年にメルセデス・ベンツ社はダイムラー・ベンツ社に再び吸収され、1998年にダイムラー・ベンツはクライスラーと合併してダイムラークライスラーとなった。
- ^ 決勝レースへの出場を認めたフランス西部自動車クラブ(ACO)もFIAの世界モータースポーツ評議会から追及を受けた[313]。
- ^ 前年に発売されたAクラス(W168)の転倒の危険発覚に伴うリコール騒動や、同じくMクラス(W163)やSクラス(W220)などの品質に対する酷評といった、ブランドイメージを毀損する出来事が相次いだ時期であり、タイミングも良くなかった。
- ^ サーキットに対しても、路面の傾斜や縁石など、高速走行中の車両に対して上下方向の安定を乱す要因となる箇所の見直しを求めた[310]。
- ^ 190シリーズは後継車からはCクラスとなって引き継がれていくことになる。1997年にさらに小型のAクラスが登場するまでは、Cクラスがメルセデス・ベンツのラインナップの中で最もコンパクトで廉価な車種だった。
- ^ ボディ後端には巨大な箱型スポイラーが装着されており、これはこの車両の大きな特徴となっている。これは市販車の時点で装着されているもので、シュトゥットガルト工科大学のリヒャルト・レープルとダイムラー・ベンツのルディガー・フォールが開発した[W 150]。
- ^ 戦前や戦後直後の少量生産の高級スポーツカーによる参戦については前述した各項目の通りである。
- ^ メルセデス・ベンツのみ翌年のエントリーをしていた[W 153]。
- ^ 車両もGT3はレーシングスポーツカーであり、ダイムラーの中では「#カスタマーレーシング」に属する活動ということが明言されている[W 157]。
- ^ 当初、チームの運営や車両の組立はHWAの本拠地であるドイツのアファルターバッハで行われていた[W 168]。HWAとの契約は2021年までのものだったため[W 169]、2020年末以降、アファルターバッハで行われていた活動はブラックリーに移されていった[W 168]。
- ^ 参戦初年度の2019年-20年シーズンは「Mercedes-Benz EQ Formula E Team」[W 170]。
- ^ ドライバーズランキングでは所属ドライバーのストフェル・バンドーンが2位を獲得[W 173]。
- ^ スポーツプロトタイプの300SL(W194)の市販バージョンで、メルセデス・ベンツを代表する車両のひとつとされる。
- ^ 市販車の300SLと300SEは4速まで。
- ^ 陸路でシンガポールまで行き、海路でパースに渡り、オーストラリア大陸を横断してシドニーを目指すというルートが設定された。
- ^ 同車を製造するための工場の新設・拡張も含めると、同車の開発から完成に至るまでにはおよそ20億マルクが投じられ、これはダイムラー・ベンツとしてはそれまで開発した車両の中でも最大の投資額だった[W 186]。
- ^ それまでのサファリラリーを中心とした参戦は若い層にアピールすることは目的に含まれておらず、販売地域拡大(認知度向上)が目的だったため、この点は問題にならなかった[278]。
- ^ 第1回大会の記録について、今日では自動車とオートバイは分けられて伝えられることもあるが、当時の公式記録の上では、クラス分けはされていない[W 187]。なお優勝は二輪のシリル・ヌヴーで、3位までをオートバイが独占している[W 187]。
- ^ その後のダイムラー・ベンツ社の歴史を通しても、航空機用エンジンから転用したケースを除くと、このエンジンの排気量は自動車用エンジンとしては最大の排気量だと言われている[346]。
- ^ バーマンの記録を破ったのは1919年2月12日にラルフ・デ・パルマのパッカード・905によるもので、この時はフライングキロメートルで241.2 km/hを記録して自動車の新記録を樹立した(これもAIACRは認定していない)。
- ^ このボディの開発にあたっては、フリードリヒスハーフェンにあるツェッペリンの風洞設備が活用された[W 199]。全長の違いはあるが、1936年のW25レコルトワーゲンのボディ形状は、1937年のW125レコルトワーゲン(初期型)にほぼそのまま流用されている。
- ^ 速度記録車ではなくレース用の車両。カーナンバー36のブラウヒッチュ車にはV型12気筒のM25DABエンジンが搭載された[348]。
- ^ 1936年、アヴスはベルリンオリンピックの自転車競技や競歩の開催地となったため、アヴスレンネンは開催されなかった。1937年はフォーミュラ・リブレで開催されることが1年前から発表されていたほか、休止期間を利用して、いわゆる「死の壁」として知られる巨大な43度バンクが建設されていたことから、同レースが高速化することは1936年の時点で明らかだった。
- ^ この1938年のW125レコルトワーゲン(改良型)のボディ形状は、1939年のW154レコルトワーゲン(フライングスタート仕様)にもほぼそのまま流用されている[W 203]。
- ^ メルセデスチームが速度記録会を「1月28日」に行おうとしているということを、アウトウニオンのローゼマイヤーが知ったのは1月25日だった[134]。
- ^ 氷を用いて冷却するという方法は(なぜか)アウトウニオンも同時に採用した[134]。
- ^ 2017年11月4日にケーニグセグのアゲーラRSがアメリカ合衆国ネバダ州の公道を封鎖して速度記録に挑戦し、フライングキロメートルで445.63 km/h、フライングマイルで444.76 km/hという新記録を樹立し、この時に初めてW125レコルトワーゲンの記録が破られた[W 205][W 206]。
- ^ 前年のローゼマイヤーの事故により、フランクフルト~ダルムシュタット間は高速走行には不適当だと判断された[W 204]。ベルリン~ライプツィヒ間の一区間として新設されたこの区間は、速度記録挑戦に適するよう建設された[W 204]。
- ^ ブダペスト近郊の直線道路。
- ^ 1935年9月3日にポンネビルで、イギリスのマルコム・キャンベルがブルーバード(約2,300馬力)で史上初の時速300マイル(約483 km/h)超えを達成している。これ以降は、自動車の最高速度記録(絶対記録)のほとんどはボンネビルで記録されるようになった(詳細は「自動車の速度記録」を参照)。
- ^ 通常のDB603エンジンの出力は2,000馬力程度とされている[W 211]。
- ^ 上記のW154レコルトワーゲンの速度記録挑戦にはこの区間が使用された[W 204]。
- ^ ドライバーは主任のリーボルト自身が務めた[354][W 219][W 216]。
- ^ ダイムラー・ベンツの子会社(当時。後のMBtech)が所有する巨大な円形のテストコースがある。
- ^ その後、シリッノは2022年にコッパ・トラックでもタイトルを1回獲得し、両選手権の通算による獲得回数を5回に伸ばしている(ジアフォーネもコッパ・トラックを含めると通算5回)。
- ^ ワンメイクというわけではなく、どの年もフォルクスワーゲンもエンジンを供給しており、2017年はフォルクスワーゲンエンジン搭載車でランド・ノリスがドライバーズチャンピオンになっている。
- ^ 11月2日のレースでは優勝した[W 31]。11月2日のレースは不成立だったとみなし、11月28日のレースを米国最初のレースとみなす説が比較的一般的である。こちらのレースではベンツ車は2位になっている[W 32]。
- ^ 書籍によっては1897年の出来事としている[365]。
- ^ 元々、マルセイユからモンテカルロまで走るレースだったが、参加者たちはモンテカルロに至る手前のラ・テュルビーの登り坂を自分たちの車では登り切れないことに気付いたため、レースは中止され、一行は坂を下って手前のニースまで引き返した[W 224]。そして改めて、ニース~ラ・テュルビー間でヒルクライムレースが行われた、という経緯である[W 224]。
- ^ 前方に行くに従いすぼまるウェッジシェイプ形状(楔型)になっている。装飾の特徴として、1910年から市販車でも使用されるようになった「スリーポインテッド・スター」がフロントラジエーター上部に配され、ラジエーターそのものもその後のメルセデスの市販車のフロントグリルで特徴となるV字形状となっている。
- ^ ダイムラーは輸出への影響を考えて同日開催のスペインのレースのほうが重要という考えを持っていたため、ドイツGPで車を走らせる予定はなかった[370]。メルセデスチームに所属していた新人カラツィオラからの嘆願を聞き入れて、個人としての資格で出場することを許可し、同様にローゼンベルガーにも許可を出し、2名のみ参戦した[370]。当日はフェルディナント・ポルシェやマックス・ザイラーらもサーキットを訪れ、個人的に協力して彼らを助けた[370][90]。
- ^ 最初の試作車が完成したのは1934年1月3日という説や[77]、M25Aエンジンが完成して車体に取り付けられた(走行可能になった)のは1934年2月半ばとする説もあるが[372]、ダイムラーは最初のテストが行われた日を1933年11月18日としているため[W 253][W 74]、この記事ではそれに沿って記載している。
- ^ 時期は1933年12月末という説もある[77][W 29]。
- ^ ダイムラー・ベンツのレースの研究開発分野で、このコンビによる管理と設計の二頭体制は戦争による中断を挟んで1955年まで続くことになる。
- ^ AMGは1967年に設立され、この時点ではダイムラー・ベンツと資本関係はない。
- ^ 1985年から1987年までの3年間はダイムラー・ベンツとしての公式なワークス活動ではなく、予算、人員ともに小規模な形で活動が行われた[219]。
- ^ 開幕前はAEGカラーの黒に近い濃紺を基調としたカラーリングだった[286]。
- ^ シーズン最終戦(第8戦)は10月だが、9月3日の第6戦終了時点で、5勝、2位1回を記録していたザウバーが有効ポイント制(6戦が有効)の関係でタイトル獲得を実質的に確定させた。
- ^ このタイミングで株式の持ち分を増やした背景として、前年にイルモアの共同創業者のポール・モーガンが死去したことが影響している[375]。
- ^ F1以外の事業(主に北米のインディカー用エンジンの開発)については創業者のマリオ・イリエンが引き取り、イリエンは再び「イルモア」(Ilmor Engineering Ltd.)の名で会社を設立した[W 273]。登記上は、メルセデス・ベンツ・ハイパフォーマンスエンジン社が旧イルモア以来の存続会社で[W 272]、この時にイリエンが設立したイルモアは新会社という扱いになる[W 274]。
- ^ メルセデスチームとともに獲得した分とは別に、ハミルトン自身は2008年にマクラーレン・メルセデスでもドライバーズタイトルを獲得している。
- ^ F1コンストラクターズタイトルは1958年に創設されたものであるため、1954年・1955年の参戦時にメルセデスはチームとしてのタイトルを獲得していない。
- ^ 2020年12月時点で、株主はダイムラー(当時。現在のメルセデス・ベンツ・グループ社)、トト・ヴォルフ、イネオスの3者で、株式は均等に保有されているとされる[W 280]。
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.54
- ^ a b MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.19
- ^ a b MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.21
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.23
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.31
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.51
- ^ 日本の自動車レース史(杉浦2017)、p.55
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.174
- ^ a b F1 Racing 2001年2月号、「F1グランプリレースの起源」 pp.84–88
- ^ a b c MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.5
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「パリにある記念碑──セルポレ、ルヴァソール、ウィミーユ──」 pp.55–67
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.151
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.125
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.154
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「世界最初のモーター・レース」 pp.28–35
- ^ a b c d e f シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「3 ファクトリーカーの誕生」pp.47–48
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.2
- ^ a b MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.10
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.3
- ^ a b c d e f g MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.4
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.181
- ^ 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.157
- ^ 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.189
- ^ a b 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.156
- ^ a b c d e f g h シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「7 ベンツの台頭」pp.57–60
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.42
- ^ a b c MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.43
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.14
- ^ a b c d MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.36
- ^ The Mercedes-Benz Racing Cars(Ludvigsen 1971)、p.13
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「4 メルセデスの誕生」pp.49–51
- ^ a b c d e f MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.6
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.35
- ^ a b c d e メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.104–106
- ^ a b 世界の自動車2 メルセデス・ベンツ──戦前(高島1979)、「近代自動車の祖、メルセデス」 p.22
- ^ a b c モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「メルセデスという車名の由来」 pp.48–51
- ^ メルセデスの魂(御堀2005)、p.45
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.7
- ^ メルセデスの魂(御堀2005)、p.46
- ^ 世界の自動車2 メルセデス・ベンツ──戦前(高島1979)、「近代自動車の祖、メルセデス」 pp.18–19
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.10
- ^ 世界の自動車2 メルセデス・ベンツ──戦前(高島1979)、「ダイムラー,メルセデス」 pp.34–50中のp.34
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.6
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.12
- ^ メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.72–73
- ^ MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.16
- ^ MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.17
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.13
- ^ a b c d e f g h i j k l シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「5 ゴードン・ベネット杯レース」pp.52–54
- ^ a b モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ゴードン-ベネット・トロフィー」 pp.39–48
- ^ a b c d e MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.17
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.52
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.18
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.53
- ^ a b c d e f g シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「6 グランプリレースの誕生」pp.55–57
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ゴードン-ベネット・トロフィー(続)」 pp.52–55
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「サルト・サーキットとジャコバン・プロムナード」 pp.179–187
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.22
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.53
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.26
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.51
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.54
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.30
- ^ a b c d e f g h i オートスポーツ 1973年10/1号(No.127)、「レーシング・マシン・ヒストリー:シリーズ1 メルセデス・ベンツ」(折口透) pp.108–111
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.31
- ^ a b c d e f g MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.8
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.61
- ^ a b c d e f g h i j シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「8 1914年フランスグランプリ」pp.60–63
- ^ a b c モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「洋書の文献の誤り」 pp.105–112
- ^ a b c MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.71
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.72
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.73
- ^ a b c d e f MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.135
- ^ a b c d MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.22
- ^ a b c d e f g h i j k シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「12 750kgフォーミュラW25の誕生」pp.70–74
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.76
- ^ a b c d e f MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.24
- ^ a b c d e MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.195
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「101日間の奇跡」 pp.119–125
- ^ a b c d e シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「10 ダイムラーとベンツの合併」pp.65–67
- ^ a b c d e MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.14
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.83
- ^ 自動車と私 カール・ベンツ自伝(藤川2013)、p.202
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.90
- ^ a b c d e f シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「9 トロッペンワーゲン」pp.63–65
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.92
- ^ a b MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.18
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.99
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「15 1938年──大戦の危機」 pp.163–172
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「1 カラッチオラのデビュー」 pp.11–17
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.114
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「2 魔のニュルブルクリンク」 pp.18–24
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.48
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.9
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.102
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.131
- ^ a b c d e f g シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「11 モデルKからSSKLへ」pp.67–70
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.104
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.116
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.106
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.117
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.119
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.126
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「3 1929年の恐慌」 pp.25–30
- ^ a b c d MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.15
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.103
- ^ a b c d MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.51
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「4 宿敵ヌボラーリとバルツィ」 pp.31–44
- ^ MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「5 メルセデスとブガッティの対決」 pp.45–52
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「7 先輩たち」 pp.43–49
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「8 雨のドイツ・グランプリ」 pp.50–53
- ^ a b c d MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.2
- ^ a b c d e f g MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「8 レース監督の非情と友情」 pp.71–81
- ^ a b c d e f g h i j k MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.134
- ^ a b c d e f g h i j k MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「7 ヨーロッパの悲劇」 pp.60–70
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.133
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.130
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「9 アルファ・チーム」 pp.54–60
- ^ a b c d e MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「6 不吉な予言」 pp.53–59
- ^ a b c d e RacingOn No.478 Mercedes' C、「C292 走れなかった“最終走者”」 pp.80–87
- ^ a b Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.80
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.85
- ^ a b c シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「13 メルセデス・ベンツW125「銀の矢」」pp.74–76
- ^ a b c d e f g h i MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.23
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.66
- ^ a b c d e MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.124
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.50
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.137
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.144
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.153
- ^ a b c カラツィオラ自伝(高斎1969)、「24 戦時下のできごと」 pp.152–159
- ^ a b c Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.154
- ^ a b c d e f g h シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「14 戦後最後の栄光のマシンW154」pp.77–79
- ^ a b c d e f g h i j k l MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「13 時速450キロの死」 pp.131–146
- ^ a b c d e MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「14 ナチズムの横暴」 pp.147–162
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.61
- ^ Hitler's Motor Racing Battles(Reuss / McGeoch 2008)、p.81
- ^ a b c d e f g h MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「12 新人ヘルマン・ランクの台頭」 pp.119–130
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.50
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.136
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.25
- ^ MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「9 バルツィの華やかな情事」 pp.82–89
- ^ MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「10 ライバルの登場」 pp.90–100
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「13 カムバック」 pp.76–80
- ^ a b c d MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.27
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.48
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.47
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.156
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.46
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.29
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.154
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.157
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.163
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.162
- ^ a b c d e f MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.210
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.160
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.161
- ^ a b c d MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.58
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.164
- ^ a b c d e f MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.59
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.82
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.110
- ^ a b c d e f MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「16 メルセデスの活躍」 pp.173–185
- ^ MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「17 シーマン最後のレース」 pp.186–200
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.88
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.89
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.115
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.106
- ^ a b c MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.107
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.111
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.254
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.252
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.129
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「21 コッパ・アチェルボ」 pp.129–138
- ^ a b c d e f g シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「15 第二次大戦前の最後の勝利」pp.79–82
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.126
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.127
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.141
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.140
- ^ a b c d e MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.134
- ^ a b c d MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.135
- ^ a b カラツィオラ自伝(高斎1969)、「27 シルバー・アローとの再会」 pp.180–182
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.132
- ^ a b c d MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「18 戦争の終結」 pp.201–213
- ^ a b c d MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「20 1995年ル・マンの大惨事」 pp.232–247
- ^ a b c Number Plus [F1 未知への疾走](2000)、「スターリング・モスが語る、ライバル フアン・マヌエル・ファンジオとの熱き戦い。」(スターリング・モス インタビュー) pp.42–46
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.345
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.174
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「16 300SL」pp.82–84
- ^ a b c d e f g MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「19 メルセデスのカムバック」 pp.214–231
- ^ a b c d e f MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.150
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.347
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.351
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.173
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.148
- ^ a b シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「17 世界最強のレーシングカーW196」pp.84–86
- ^ a b c MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.149
- ^ a b c d F1 Racing 2002年7月号、「F1を支えてきた力」 pp.68–72
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.171
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.151
- ^ a b c d e f MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.179
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.178
- ^ a b c MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.152
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.154
- ^ a b c d e MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.155
- ^ a b カラツィオラ自伝(高斎1969)、「28 300SLでミルレ・ミリアへ」 pp.183–186
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.359
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.344
- ^ オートスポーツ 1965年 Winter(No.7)、「スターリング・モスのスポーツ時評」(訳・久保正明) pp.33–40中のp.40
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.103
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.105
- ^ a b MB (ノイバウアー自伝)(橋本1991)、「21 偉大な時の終り」 pp.248–251
- ^ F1全史 1950–1955、p.123
- ^ a b The Amazing Summer of '55(Young 2005)、p.158
- ^ オートスポーツ 1989年6/15号(No.529)、「メルセデス・チームを操る男」(ヨッヘン・ニアパッシュ インタビュー) pp.46–49
- ^ a b c d e f g h i j k GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「F1プロジェクト撤回の真実」(ヨッヘン・ニアパッシュ インタビュー) pp.56–61
- ^ a b c d GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「理解されなかったF1スタンダード」(マイク・ガスコイン インタビュー) pp.36–41
- ^ a b c d e f g h i シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「9 F1グランプリ「復活」への始動」pp.142–148
- ^ a b c d e f g GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「生き残れたことが誇り」(ペーター・ザウバー インタビュー) pp.14–19
- ^ GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「グループC時代とほぼ同じチームで戦った」(ベアト・ツェンダー インタビュー) pp.48–53
- ^ a b c AS+F 1992年ポルトガルGP号、「ザウバーの工場を訪ねる」(ルク・ドマジオ) pp.20–21
- ^ シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「10 マクラーレン・メルセデスの誕生」pp.148–154
- ^ MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.116
- ^ F1速報 1995総集編、p.51
- ^ F1全史 1991–1995、p.100
- ^ F1全史 1996–2000、p.21
- ^ a b c シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「11 シルバーアロウでチャンピオンに」pp.155–158
- ^ F1全史 1996–2000、p.37
- ^ F1速報 1997総集編、p.44
- ^ F1速報 1997総集編、p.68
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o RacingOn No.478 Mercedes' C、「頂点までは長い道のりでした」(ペーター・ザウバー インタビュー) pp.20–27
- ^ a b c d e f g RacingOn No.478 Mercedes' C、「目指したのはF1」 pp.52–58
- ^ RacingOn No.478 Mercedes' C、「育成プログラムはF1参戦構想の一環でした」(ヨッヘン・ニアパッシュ) p.59
- ^ a b GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「義務なし、課題なし、環境あり。」 pp.82–85
- ^ シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「3 ITC「2年間」の明と暗」pp.120–124
- ^ GP Car Story Vol.07 Williams FW16、「最悪の結末を招いた4つの“死角”」 pp.86–91
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「12 アメリカンレーシング」pp.159–162
- ^ a b c d MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.137
- ^ a b c d e f g h i j k l MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.138
- ^ a b c MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.139
- ^ MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.119
- ^ A History of the World's Sports Cars(Hough 1961)、p.23
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.265
- ^ a b Karl Ludvigsen's Fast Friends(Ludvigsen 2019)、「Engineers - Rudolf Uhlenhaut」
- ^ a b c d e シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「18 ル・マン24時間レースの惨事」pp.87–88
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.186
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.194
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.196
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.197
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.185
- ^ a b 死のレース 1995年ルマン(カーン/相原1993)、p.191
- ^ 死のレース 1995年ルマン(カーン/相原1993)、p.195
- ^ ファンジオ自伝(高斎1984)、「16 3度目の世界チャンピオン:1955年」 pp.181–190
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.6
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.7
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa Karl Ludvigsen's Fast Friends(Ludvigsen 2019)、「Executives - Werner Breitschwerdt」
- ^ a b c d e MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.471
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「6 グループCカーレースの実績」pp.131–135
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.489
- ^ a b GP Car Story Vol.35 Sauber C20、「安定していたダウンフォースレベル」(レオ・レス インタビュー) pp.40–43
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.470
- ^ a b c d e f g h i j Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.11
- ^ a b c d e f g h MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.473
- ^ a b c d e f g h i j MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.474
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.9
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.472
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.10
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.16
- ^ a b c d Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.12
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.475
- ^ a b Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.13
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.14
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.15
- ^ a b c d e f g h i j k Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.17
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.307
- ^ a b c d Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.20
- ^ RacingOn No.472 Jaguar's C、「殊勲車XJR-9LM その誕生と限界」 pp.24–29
- ^ a b c d e f g h Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.23
- ^ a b c d e f Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.21
- ^ a b c d グループCカーのすべて vol.1、「ザウバー・メルセデスC9」 pp.56–61
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.460
- ^ a b c d Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.24
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.28
- ^ a b c d e RacingOn No.100、「ル・マン24時間に向けて」(ヨッヘン・ニアパッシュ) p.69
- ^ a b オートスポーツ 1990年4/1号(No.550)、「'90シーズンに賭ける」(ペーター・ザウバー インタビュー) pp.34–38
- ^ a b c RacingOn No.478 Mercedes' C、「シルバーアロー復活の立役者」 pp.30–39
- ^ シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「7 ル・マンの勝利と「ある決断」」pp.136–139
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.31
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.33
- ^ a b グループCカーのすべて vol.2、「ザウバー・メルセデスC9」 pp.46–47
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.32
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.500
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.505
- ^ a b c d RacingOn No.478 Mercedes' C、「旧規定Cカーの集大成で見せた最後の輝き」 pp.42–51
- ^ a b c d e f Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.37
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.38
- ^ a b c グループCカーのすべて vol.2、「メルセデス・ベンツC11」 pp.48–53
- ^ a b Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.39
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.40
- ^ a b c d e f g h i j k l RacingOn No.478 Mercedes' C、「Cカー新規定に向けたシルバーアローの意欲作」 pp.64–73
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.47
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.50
- ^ Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.51
- ^ a b Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.48
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.56
- ^ a b c シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「8 スポーツカーレース「撤退」の意味」pp.139–142
- ^ グループCカーのすべて vol.2、「メルセデス・ベンツC292」 pp.98–99
- ^ グループCカーのすべて vol.2、「メルセデス・ベンツC291」 pp.86–91
- ^ a b c Sports-Car Racing Vol.13 シルバーアローの復活、p.57
- ^ a b c d e f RacingOn Archives Vol.01、「夢を打ち砕いた「宙返り」 戦慄のクラッシュ、その後」 pp.182–186
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t RacingOn No.475 GT1特集(ふたたび)、「“最強”になれなかったシルバーアロー」(大谷達也) pp.38–45
- ^ a b c d e f g RacingOn No.475 GT1特集(ふたたび)、「CLRはなぜ宙を舞ったか」(サム・コリンズ) pp.46–49
- ^ a b RacingOn No.298、p.22
- ^ RacingOn No.298、「メルセデスCLRはなぜ宙を舞ったのか」(津川哲夫) pp.62–63
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.431
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.439
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.432
- ^ a b c d e f g h シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第3章「1 ベイビー・ベンツが生んだDTM」pp.113–117
- ^ a b c d e f g h 新旧DTMマシンのすべて、「メルセデスベンツ 190E」 pp.24–27
- ^ a b c d e 新旧DTMマシンのすべて、「メルセデスベンツ Cクラス」 pp.46–55
- ^ a b c d e 新旧DTMマシンのすべて、「メルセデスベンツ CLK-DTM/Cクラス」 pp.74–81
- ^ a b c 新旧DTMマシンのすべて、「メルセデスベンツ Cクーペ DTM/C63 DTM」 pp.110–115
- ^ F.ポルシェ その生涯と作品(フランケンベルク/中原1972)、p.115
- ^ F.ポルシェ その生涯と作品(フランケンベルク/中原1972)、p.24
- ^ a b c d e f MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.428
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.429
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.308
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.309
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.189
- ^ a b MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.190
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.433
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.438
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.443
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.437
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.440
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.445
- ^ a b c d e f g MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.447
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.449
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.450
- ^ a b c オートスポーツ 1982年3/1号(No.340)、「男のロマン パリ~9000km~ダカール・ラリー」(高岡祥郎) pp.169–172
- ^ オートスポーツ 1983年4/1号(No.367)、「第5回パリ・ダカール・ラリー J・イクス(ベンツ4WD)が優勝」 p.133
- ^ a b c d e MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.38
- ^ MB 重厚な技術、名車を生む(スタインウェーデル/池田1973)、p.45
- ^ a b c d e MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.19
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.20
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.39
- ^ a b c d e f g MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.40
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.83
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.81
- ^ a b MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.59
- ^ カラツィオラ自伝(高斎1969)、「19 アリス」 pp.112–123
- ^ a b c d MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.41
- ^ F.ポルシェ その生涯と作品(フランケンベルク/中原1972)、p.105
- ^ a b MB 栄光の歴史(ハイリッグ/増田2000)、p.80
- ^ a b c メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.98–101
- ^ a b MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.72
- ^ a b c d e f g h i j k l MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.109
- ^ MB グランプリカーズ(菅原1997)、p.113
- ^ a b c d ナチズムとドイツ自動車工業(西牟田1999)、p.54
- ^ a b メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.64–66
- ^ メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.66–68
- ^ a b c MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.1
- ^ a b シルバーアロウの軌跡(赤井1999)、第2章「2 モータースポーツの黎明」pp.43–46
- ^ a b c d MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.5
- ^ a b c メルセデス・ベンツの思想(ザイフ/中村1999)、pp.101–102
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.7
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ヴァンダービルト・カップ・レース」 pp.74–83
- ^ a b MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.25
- ^ モータースポーツミセラニー(高斎1998)、「ジュリオ・ランポーニ」 pp.212–218
- ^ a b c カラツィオラ自伝(高斎1969)、「6 勝利」 pp.36–42
- ^ Speedway(Ireland 2010)、p.57
- ^ MB Quicksilver Century(Ludvigsen 1995)、p.142
- ^ MB 歴史に残るレーシング活動の軌跡(宮野2012)、p.61
- ^ a b c GP Car Story Vol.18 McLaren MP4-13、「イルモアが挑んだ革新的開発の全貌」 pp.54–57
- ^ GP Car Story Vol.22 Sauber C12、「最優先課題は信頼性確保」(マリオ・イリエン インタビュー) pp.62–65
- ^ “125 Years of Motorsport at Mercedes-Benz” (英語). Mercedes-Benz AG. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b 笠原一輝 (2018年8月26日). “【Suzuka10H】メルセデスAMG、カスタマーレーシング責任者に聞く”. Car Watch. インプレス. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “【メルセデスAMGの深層⑥】AMGはモータースポーツを愛する人たちを支えることも使命のひとつ【モータースポーツ】”. Webモーターマガジン (2019年3月23日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “メルセデスストーリー 第4回 いかにしてシルバー・アロー伝説は生まれたか”. メルセデス・ベンツ日本. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Silver Arrows” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “メルセデス・ベンツとモータースポーツ、125年の歩み”. Mercedes-Benz LIVE!. メルセデス・ベンツ日本 (2019年3月15日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “1904 Vanderbilt Cup Race” (英語). Vanderbilt Cup Races. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h Thomas O'Keefe (2001年1月). “East Meets West: Mercedes-Benz at Indy” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b Karin Andreasson (2013年7月22日). “Motor racing in 1887 - a picture from the past” (英語). The Guardian. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c Doug Nye (2016年12月21日). “Doug Nye: Motorsport's greatest '7' years” (英語). Goodwood. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 佐野彰一 (2016年9月15日). “世界初の自動車レース(1)―102台のエントリー―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 佐野彰一 (2016年9月30日). “世界初の自動車レース(2)―ガソリン自動車の優勝―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 佐野彰一 (2016年10月14日). “世界初の自動車レース(3)―ダイムラーの勝利―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Competitive motorcar race from Paris to Rouen on 22 July 1894: The birth of motorcar racing 125 years ago: closely associated with Mercedes-Benz from the outset.” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年7月23日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “World's first car race from Paris to Rouen” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1894年7月22日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Anzeige Emile Roger, Paris, 1888” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Benz 8 hp racing car, 1899” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benz 16 hp racing car, 1900” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Benz 20 hp racing car, 1900” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “From Daimler to Mercédès. First DMG trademarks” (英語). Mercedes-Benz Group AG. 2022年1月30日閲覧。
- ^ a b c “35-hp Mercedes shows its superiority in Nice Race Week” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1901年3月29日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “The birth of the modern automobile in 1901” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2017年4月30日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “Daimler "Phoenix" car, 1897 - 1902” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Fatal accident in Nice - La Turbie race” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1900年3月26日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “First Mercedes model series, 1900/1901” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Karl Ludvigsen (2001年1月). “A Star is Born: The Tale of the First Mercedes Car” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 佐野彰一 (2020年10月15日). “第219回 地上最高速の争い(53)―メルセデスの誕生―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “Mercedes-Simplex models, 1903” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “進撃のシルバーアロー (1934年)”. Gazoo (2017年3月31日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benz 120 hp Grand Prix racing car, 1908” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “First car race in the USA, Chicago-Vaukegan-Chicago (92 miles)” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “Second car race in the US 1895” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benz 150 hp racing car, 1908” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Daimler and Benz in Competition 1909 - 1925” (英語). Mercedes-Benz Club of America. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes 115 hp Grand Prix racing car, 1914” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “A matter of identity” (英語). Motor Sport Magazine (1982年5月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “A major triumph in the first golden age of motor racing” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2014年6月6日). 2023年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes Celebrates Indy 500 Victory” (英語). Sports Car Digest (2015年6月5日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The one that got away” (英語). Motor Sport Magazine (1970年12月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The Mercedes Grand Prix racing car of 1914” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2014年6月6日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes "Targa Florio" racing car, 1924” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “90 years ago: Mercedes triumphs in 1924 Targa Florio and Coppa Florio” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2004年3月27日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Ferdinand Porsche succeeds Paul Daimler” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1923年4月30日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Triple victory for Mercedes in the Targa Florio and Coppa Florio of 1924” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2004年3月27日). 2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Benz RH "Teardrop" racing car, 1922 - 1925” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “【技術革新の足跡】サスペンション形式――速くて快適なクルマを求めて(1931年)”. Gazoo (2014年5月2日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Merger in the Year 1926: DMG and Benz & Cie. merge to become Daimler-Benz AG: Together for the best for 90 years” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2016年6月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Rudolf Caracciola” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team (2017年). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Rudolf Caracciola: “A silver lining in racing drivers’ skies”” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2011年10月19日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ Hartmut Lehbrink (2009年9月29日). “Rudolf Caracciola: Milchbubi im Geschwindigkeitsrausch” (ドイツ語). Spiegel. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e Doug Nye (2014年7月). “Mercedes and Auto Union: A nation divided” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz 26/170/225 hp Type S, 1927” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Formidable victory at International Avus race in 1932” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2023年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz 27/240/300 hp Type SSKL, 1931 - 1934” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Graham Keilloh (1952年2月). “The 38/250 Supercharged Super Sports Mercedes-Benz” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Benz 27/240/300 hp Type SSKL streamlined racing sports car, 1932 - 1933” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 伊東和彦 (2015年1月2日). “【モータースポーツ大百科】グランプリレース(前編)”. Gazoo. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c 伊東和彦 (2015年1月9日). “【モータースポーツ大百科】グランプリレース(後編)”. Gazoo. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “From Mercedes-Benz K model to SSKL” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Großer Preis von Deutschland 19.07.1931.” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Biography: Manfred von Brauchitsch” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Highlights of the Mercedes-Benz SSKL featuring a streamlined body” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz Classic” (英語). Mercedes-Benz USA, LLC. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “The Silver Arrow: SSKL Avus Racing Car from 1932” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ Georg Pahl (1932年). “Berlin, Avus, Rudolf Caracciola mit Alfa Romeo” (ドイツ語). Bundesarchiv. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Übergewichtiger Renner schrumpft zum Silberpfeil” (ドイツ語). Welt (2009年3月27日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Überragender Sieg beim Internationalen Avus-Rennen 1932” (ドイツ語). Mercedes-Benz Group Media (2019年9月13日). 2023年3月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ Graham Keilloh (2019年8月19日). “Legendary Mercedes racing cars to appear at Pebble Beach” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Mercedes-Benz W 25 (1934 to 1936)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2012年8月20日). 2023年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “1933 - 1945. Daimler-Benz in the Nazi Era” (英語). Mercedes-Benz Group AG. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “How Dick Seaman became a Nazi hero” (英語). The Guardian (2002年9月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Don Sherman (2018年8月9日). “Porsche’s silent founding partner” (英語). Hagerty. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “The Mercedes-Benz Silver Arrows from 1934 to 1939” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年1月31日). 2023年3月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Benz W 25 racing car, 1934” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz W 25 racing car, 1935” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz W 25 racing car, 1936” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Caracciola wins in Monaco and Tunis” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1936年5月17日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Max Sailer succeeds Hans Nibel” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1935年1月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Benz W 25 record car, 1936” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz W 125 (1937)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2012年8月20日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz W 125 racing car, 1937” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-Benz W 154 (1938 to 1939)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2012年8月20日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “Mercedes-Benz W 165 (1939)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2012年8月20日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c Dirk Johae (2011年9月7日). “Der Eintags-Rennwagen” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Marcel Schot (2001年). “Mercedes in F1: the Facts and Stats” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Mercedes-Benz enjoys a sparkling finale to the 1955 racing season” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年11月30日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f Hans-Jörg Götzl (2015年1月13日). “Fangios Meisterstück-Silberpfeil” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “The cars racing in the 1955 motor sport season” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年11月30日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz high-speed racing car transporter” (英語). Mercedes-Benz Museum. 2023年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-Benz racing car transporter, 1955” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d Don Capps (2001年1月). “The Return of the Three Pointed Star: the Swansong of Alfred Neubauer” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Team: Brixworth” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d Mike Cotton (1989年6月). “Interview: Jochen Neerpasch” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j “Under Scrutiny - Sauber-Mercedes” (英語). Motor Sport Magazine (1990年4月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Benz withdraws from Group C” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1991年11月28日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The classic Mercedes-Benz Silver Arrows” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年1月31日). 2023年3月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b Laurence Edmondson (2020年3月30日). “The untold stories of Brawn GP: How close the fairy tale came to never happening” (英語). ESPN. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “ダイムラーAGとマクラーレングループ F1の協力体制を変更”. メルセデス・ベンツ日本 (2009年11月27日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “FIA フォーミュラ・ワン世界選手権 参戦について”. 本田技研工業株式会社 (2013年5月16日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Edd Straw (2009年11月16日). “Mercedes takes over Brawn” (英語). Autosport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Jonathan Noble (2009年12月23日). “Schumacher makes F1 return” (英語). Autosport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “F1=ハミルトンが優勝、メルセデスは史上初の7連覇達成”. Reuters (2020年11月2日). 2023年1月14日閲覧。
- ^ “シーズンを通して復調を見せたチームを「誇りに思う」とメルセデスF1代表。2022年は失敗と間違いから学ぶ1年に”. autosport web. 三栄書房 (2022年12月9日). 2023年1月14日閲覧。
- ^ “Formula One: Lewis Hamilton in profile.” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ Ben Anderson (2016年8月10日). “What Manor F1 driver switch means for Mercedes' junior drivers” (英語). Autosport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Great Scot: In Conversation with Paul di Resta” (英語). Automobilist (2020年5月5日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Paul di Resta. “Ask A Pro: Paul di Resta” (英語). SAFE is Fast. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “ANALYSIS: Story of the Year - The Junior Drivers” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team (2017年). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b Jonathan Noble (2020年11月18日). “F1のセーフティカー、来季からメルセデスとアストンマーチンが車両供給を”分担”?”. Motorsport.com. 2021年6月28日閲覧。
- ^ David Tremayne (2019年5月1日). “Memories of Imola '94 – by David Tremayne” (英語). Formula1.com. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Rodrigo Ribeiro (2020年5月1日). “Um Vectra pode ter contribuído para o acidente fatal de Ayrton Senna?” (ポルトガル語). Auto Esporte. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Laurence Edmondson (2020年4月24日). “Five things that stood out re-watching the 1994 Japanese GP” (英語). ESPN. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The powerful C” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b “Check out the new Mercedes and Aston Martin Safety Cars that'll be used in F1 in 2021” (英語). Formula1.com (2021年3月8日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “【メルセデスAMGの深層④】いかにして「AMG」はメルセデス・ベンツのイメージリーダーになったのか【モータースポーツ】”. Webモーターマガジン (2019年3月24日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Fabien Gaillard (2020年5月9日). “ギャラリー:F1におけるセーフティカーの歴史……1973-2019”. Motorsport.com. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Keith Howard (2007年4月). “Mercedes-llmor 500i” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Joseph Siano (1993年5月22日). “AUTO RACING; Penske Drives Through Loophole And Into Indianapolis Front Row” (英語). The New York Times. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Gordon Kirby (2010年8月). “Penske's last great unfair advantage” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b Phillip B. Wilson (2019年5月9日). “Harding Steinbrenner trio recall 'Beast' of a win in 1994 Indy 500” (英語). IndyCar. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c Bruce Martin (2019年5月23日). “When ‘The Beast’ obliterated the Indianapolis 500” (英語). NBC Sports. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “When Mercedes-Benz Tackled the Indianapolis 500…” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team (2019年5月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “Mercedes-Benz 300 SL (W 194 011) racing sports car prototype, 1953” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz 300 SL (W 198) touring sports car, 1954” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz 300 SLR (W 196 S) racing sports car, 1955” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Simon Taylor (2019年9月19日). “Lunch with John Fitch” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f Karl Ludvigsen (2001年10月). “Sauber = Clean” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benetton Opens New Wind Tunnel” (英語). Motorsport.com (1998年12月3日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “GEHARD PRINZ, INDUSTRIALIST; WAS DAIMLER-BENZ CHAIRMAN” (英語). The New York Times (1983年11月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Breitschwerdt takes the chair on the Board of Management” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1983年12月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e Gary Watkins (2010年1月). “When Mercedes turned it up to 11” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Edzard Reuter becomes Chairman of the Board of Management” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1987年9月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d Karl Ludvigsen (2001年). “Racing for Business: Mercedes-Benz in the 1990” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Re-entering motor sport” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1988年1月15日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “FIA GT Drivers' and Constructors' Championship 1997 for AMG Mercedes: 20 years ago: Schneider's masterstroke driving a CLK-GTR” (英語). Mercedes-Benz Group Media. 2023年6月28日閲覧。
- ^ a b Angelo Uccello (2018年). “The Story of the Mercedes CLK GTR SuperSport – The Most Mental Mercedes Ever” (英語). Drivetribe. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d Mike Fernie (2019年). “Geeky read: Why did this famous crash happen?” (英語). Drivetribe. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Ollie Barstow (2016年6月18日). “Mark Webber: The career that could have been” (英語). Crash. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes CLR for Le Mans presented” (英語). DaimlerChrysler AG (1999年). 1999年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月28日閲覧。
- ^ Rob Ladbrook (2018年10月3日). “Inside Mercedes' 1999 Le Mans” (英語). Motor Sport Magazine. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes prepares to quit CLR project” (英語). Autosport (1999年7月21日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The Aerodynamic Stability of a Le Mans Prototype Race Car Under Off-Design Pitch Conditions” (英語). SAE Mobilus. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Gary Watkins (2011年11月2日). “Le Mans prototypes get fender holes to reduce airborne crashes” (英語). Autoweek. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b 森脇稔 (2010年3月24日). “メルセデスベンツ SLS AMG にレース専用のGT3登場”. Response. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c Masahiro Takato (2013年8月8日). “連載GT3解剖(2)メルセデスベンツSLS AMG GT3”. autosport web. 三栄書房. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Rallies and records” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2011年11月10日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “The History of AMG”. メルセデス・ベンツ日本. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “【メルセデスAMGの深層①】「AMG」の名を世界に知らしめた1971年の300SEL 6.8 AMG【モータースポーツ】”. Webモーターマガジン (2019年3月8日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “190E2.3-16”. 名車文化研究所 (2018年3月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Evolution – in theory and in practice: Thirty years ago, the Mercedes-Benz 190 E 2.5-16 Evolution II débuted” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2020年3月12日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ 大谷達也 (2016年5月31日). “【大谷達也コラム】自動車メーカー×モータースポーツ、変わりゆく役割と“変革””. autosport web. 三栄書房. 2021年6月28日閲覧。
- ^ JP Kraemer and Matthias Malmedie: Mercedes-Benz’ Holy Halls(7m40s〜) - YouTube
- ^ 大谷達也 (2015年3月13日). “【モータースポーツ大百科】ツーリングカーレース(前編)”. Gazoo. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “The History” (英語). Mercedes-AMG GmbH. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-AMG GmbH starts business” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1999年1月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “スーパーGT、DTMとの車両規則統一に向け契約締結”. autosport web. 三栄書房 (2012年10月16日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-AMG Motorsport expands its international GT involvement and will also be competing with customer teams in the DTM” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2021年2月4日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Erebus Motorsport completes SBR take over”. Speedcafe. (2013年1月8日) 2014年5月19日閲覧。
- ^ “Erebus owner confirms Will Davison for 2014”. Speedcafe. (2014年1月6日) 2014年5月19日閲覧。
- ^ “Betty Klimenko explains why Erebus Motorsport is ditching Mercedes for Holden in 2016”. Fox Sports. (2016年1月14日) 2017年10月16日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Simplex wins with hybrid drive” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1902年5月7日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b “The history of Porsche begins electrically” (英語). Porsche AG. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “arly experiments by Wilhelm Maybach” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2005年2月17日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ 小倉茂徳 (2014年12月31日). “オグたん式「F1の読み方」 - 2014年を振り返ってみて”. Car Watch. インプレス. 2021年8月28日閲覧。
- ^ 水書健司(翻訳) (2016年2月18日). “メルセデス「パワーユニット開発ルール変更でライバルとの格差は縮小される」”. autosport web. 三栄書房. 2021年8月28日閲覧。
- ^ Sam Smith (2016年10月4日). “Mercedes poised to make Formula E entry in 2018” (英語). Motorsport.com. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz to enter Formula E in Season 6” (英語). FIA Formula E (2017年7月24日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b Sam Smith (2020年11月4日). “Mercedes Formula E team to relocate to Brackley F1 base” (英語). The Race. 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b “HWA AG loses racing project in Formula E” (英語). HWA AG (2020年11月4日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Alex Kalinauckas (2019年9月11日). “Mercedes signs Vandoorne, de Vries for debut FE season” (英語). Motorsport.com. 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b c “2020/21年フォーミュラE王者はデ・フリースに決定。激戦の世界選手権初年度を制す”. autosport web. 三栄書房 (2021年8月16日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b c 遠藤俊幸 (2021年8月17日). “【フォーミュラE】世界選手権としての初シーズン、群雄割拠の大接戦を制してメルセデスのニック・デ・フリーズが戴冠”. Response. 2021年8月28日閲覧。
- ^ Matt Kew (2020年8月14日). “Berlin E-Prix VI: Vandoorne gives Mercedes first Formula E win in finale” (英語). Autosport. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-EQ to conclude Formula E success story” (英語). Mercedes-Benz AG (2021年8月18日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ “フォーミュラE王者メルセデス、来季2021/22年“シーズン8”をもって活動終了を発表”. autosport web. 三栄書房 (2021年8月18日). 2021年8月28日閲覧。
- ^ a b Alan Baldwin (report), David Goodman (edit) (2022年8月14日). “Vandoorne secures Formula E title in Seoul” (英語). Reuters. 2022年8月14日閲覧。
- ^ a b Jake Boxall-Legge (2022年8月14日). “Vandoorne: Four-way Formula E title battle added to "beautiful story" of triumph” (英語). Autosport. 2022年8月14日閲覧。
- ^ a b “シーズン7はメルセデス&バンドーンのダブルタイトルで幕。優勝モルタラ|フォーミュラE最終戦ソウルePrix決勝”. Motorsport.com (2022年8月14日). 2022年8月14日閲覧。
- ^ “Ten Mercedes-Benz rally highlights: worldwide adventures” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ Kai Klauder (2013年6月20日). “Rallye-Legende gestorben” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Rally races and records” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2014年3月10日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Double victory for Mercedes-Benz in London - Sydney rally” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1977年9月28日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “40 years ago: One-two for Mercedes-Benz 280 E in the “London–Sydney”: Rally tour half-way round the world with the W 123” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2017年9月25日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c Dirk Johae (2013年3月5日). “Mit Röhrls Rallyeauto Vollgas ins Aus” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Make Wins” (英語). Jonkka's unofficial World Rally Archive. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Mike McNessor (2012年11月26日). “Mercedes-Benz W201 190 turns 30” (英語). Hemmings. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “RETROSPECTIVE 1979-2007” (英語). Dakar Rally (2007年). 2011年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月20日閲覧。
- ^ a b c d e Justin Nguyen (2022年12月1日). “Dakar Rally Truck pioneer Georges Groine dies at 88” (英語). The Checkered Flag. 2023年8月20日閲覧。
- ^ “Trucking milestones: 1982 – Endurance test for the Unimog U 1700 L” (英語). Daimler Truck AG. 2023年8月20日閲覧。
- ^ a b Nicolas Laperruque (2023年2月4日). “Paris-Dakar 1983 : comment Jacky Ickx et Claude Brasseur ont gagné” (フランス語). Lalsace. 2023年8月20日閲覧。
- ^ “FIA World Land Speed Records” (英語). FIA. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes: absolute world record in Florida” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1904年1月27日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Art Evans (2011年8月5日). “History of Sports Cars – Speed Records at Daytona Beach” (英語). Sports Car Digest. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Bowden sets a new world record in a Mercedes” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1905年1月25日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ 佐野彰一 (2020年11月15日). “第221回 地上最高速の争い(55)―ベンツ社の挑戦(2)―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c 佐野彰一 (2020年12月1日). “第222回 地上最高速の争い(56)―ベンツ社の挑戦(3)―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d 佐野彰一 (2020年12月15日). “第223回 地上最高速の争い(57)―ベンツ社の挑戦(4)―”. 公益財団法人タカタ財団. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “Mercedes-Benz W 25 record car, 1934” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Record-breaking runs with the Silver Arrows” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2012年8月20日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b “Records List No. 304 Nov 1937” (英語). FIA (1937年11月4日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “100th anniversary of Bernd Rosemeyer’s birth” (英語). Audi AG (2009年6月10日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Ollie Kew (2017年10月29日). “The fastest road car ever? An 80-year old Audi. This is its driver's story...” (英語). Top Gear (BBC Studios). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “Mercedes-Benz W 154 fully streamlined record car, 1939” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Dirk Johae (2015年1月27日). “Caracciola im 465 PS-Rekordwagen” (ドイツ語). auto motor und sport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Koenigsegg Agera RS Achieves Multiple Production Car World Speed Records” (英語). Koenigsegg Automotive AB (2017年11月7日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Vijay Pattni (2017年11月7日). “The Koenigsegg Agera RS has claimed five speed records” (英語). Top Gear (BBC Studios). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Mercedes-Benz W 154 streamlined record car with separate streamlined wheel houses, 1939” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz record cars (1934 to 1939)” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2009年1月31日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz W 125 record car, 1938” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Record runs in Gyon, Hungary” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “Mercedes-Benz T 80 – History” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2018年7月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Mercedes-Benz T 80 record car, 1939” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Alex Oagana (2010年10月23日). “Mercedes-Benz T80 – The Record Car That Never Was” (英語). Autorevolution. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Max Rohmann (2018年). “The Mercedes-Benz T80 - A record car stopped by World War 2” (英語). Drivetribe. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz T 80 – Technical data” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2018年7月13日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “LIST OF FIA ABSOLUTE WORLD RECORDS” (英語). FIA. 2023年1月14日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-Benz C 111-III record-setting car” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2008年4月3日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Record for the C 111-IV: 403.978 km/h” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1979年5月5日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Nardò - History Milestones & Records” (英語). Porsche Engineering. 2022年1月30日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-Benz 190 E 2.3-16: records in Nardò” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1983年8月21日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “V6 CDI diesel engine replaces five- and six-cylinders” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (2005年5月2日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz E 320 CDI record car.” (英語). Mercedes-Benz Museum. 2023年6月28日閲覧。
- ^ a b “The Mercédès era: history of the future” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2017年4月30日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “EARLY HILL- CLIMBS by "baladeur"” (英語). Motor Sport Magazine (1951年12月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Vienna Höhenstrasse hillclimb race (8.2 km)” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “German Hillclimb Grand Prix on the Grossglocknerstrasse (25.2 km)” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “European Championship 1939” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Hermann Lang is "Pan-German Hillclimb champion"” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “European Truck Racing Championship – a look back in time” (英語). Daimler Truck AG. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz 1450 S race truck.” (英語). Mercedes-Benz Museum. 2023年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz Atego race truck.” (英語). Mercedes-Benz Museum. 2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c “Mercedes-Benz e AM Motorsport vão em busca do título da Copa Truck 2020” (ポルトガル語). Mercedes-Benz do Brasil Ltda. (2020年12月10日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ André Bueno (2017年3月10日). “Acabou? Nove equipes da Fórmula Truck abandonam temporada 2017” (ポルトガル語). Bonde. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Leonardo Marson (2017年11月8日). “Agora nacional, Copa Truck revela calendário para 2018” (ポルトガル語). Racing. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Wellington Cirino” (ポルトガル語). AM Motorsport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Osires Junior (2017年6月9日). “Cirino quer retomar série de conquistas com a equipe AM Motorsport” (ポルトガル語). AM Motorsport. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f “New FIA Formula 3 European Champion crowned: Mick Schumacher has done it!” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2017年10月26日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d “FORMULA 3 – ENGINES OF SUCCESS” (英語). HWA AG. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “French Daimler patents to Panhard & Levassor” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1889年2月5日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Daimler wire-wheel car delights Paris license goes to Barcelona” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1889年10月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “First French engine built under Daimler license goes to Barcelona” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1889年10月29日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Outstanding successes for Mercedes at Nice Week in 1901” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2021年3月25日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e “Biography: Emil Jellinek” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benz "Parsifal" 60 hp racing car, 1903” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Biography: Wilhelm Maybach” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “The Mercedes star is born” (英語). Mercedes-Benz Group AG. 2022年1月30日閲覧。
- ^ “Benz 200 hp "Lightning Benz" record car, 1909 - 1911” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g “Mercedes-Benz Classic: 125 Years of Motorsport with Mercedes-Benz – Newsletter Edition 4” (英語). Mercedes-Benz Group Media (2019年4月24日). 2022年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月28日閲覧。
- ^ “Benz 80 hp "Prince Heinrich" car, 1910” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Benz 100 hp "Prince Heinrich" car, 1910 / 1911” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Kissel, Wilhelm” (ドイツ語). Neue Deutsche Biographie. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Ferdinand Porsche goes, Hans Nibel stays” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1929年1月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “Mercedes-Benz W 25 750-kg formula racing car undergoes testing” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1933年11月18日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz T 80 with V12 DB 603 aeroengine” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1939年10月12日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “New on Board of Management: Nallinger becomes chief design engineer” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1940年4月23日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “First phase of reconstruction successfully completed” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1950年12月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Withdrawal from motor sport” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1955年10月24日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Scherenberg retires, Breitschwerdt takes over” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1977年12月31日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Kickoff in Suzuka: one-two win in silver” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1989年4月9日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz AG formed” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1989年6月29日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “EVO II raced to victory in Kyalami 30 years ago” (英語). Mercedes-Benz AG. 2022年5月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月28日閲覧。
- ^ “Cooperation agreement signed with AMG” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1990年10月). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes-Benz returns to Formula One” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1993年11月3日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ Ewan Tytler (2001年1月). “Ilmor: Bowmen of the Silver Arrows” (英語). Atlas F1. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Return to Formula One with Sauber-Mercedes” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1994年3月27日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Daimler-Benz AG: new organizational structure” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1997年4月1日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Capital increase: DaimlerChrysler AG is born” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (1998年11月12日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b “【メルセデスAMGの深層⑤】衝撃的だったAMGメルセデス190 E 2.5-16のDTM制覇【モータースポーツ】”. Webモーターマガジン (2019年3月18日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ John Willcock (1999年7月11日). “DaimlerChrysler buys stake in McLaren” (英語). The Independent. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “DaimlerChrysler takes stake in McLaren” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (2000年2月3日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “DaimlerChrysler holds majority stake in Ilmor Engineering” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (2002年9月20日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ a b c “MERCEDES AMG HIGH PERFORMANCE POWERTRAINS LIMITED” (英語). Companies House. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “History” (英語). Ilmor Engineering Ltd. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “ILMOR ENGINEERING LIMITED” (英語). Companies House. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “DaimlerChrysler AG becomes Daimler AG” (英語). M@RS – The Digital Archives of Mercedes-Benz Classic (2007年10月4日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ 森脇稔 (2013年6月7日). “メルセデス SLS AMG のEV、ニュルで市販EV最速タイム…7分56秒234”. Response. 2021年6月28日閲覧。
- ^ 森脇稔 (2016年12月7日). “メルセデス AMG GT、GT4レーサー開発中”. Response. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “メルセデス、最新GT4マシンの『メルセデスAMG GT4』詳細発表。価格は2582万円”. autosport web. 三栄書房 (2017年7月25日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “親会社ダイムラーが組織再編による新体制へ”. 三菱ふそうトラック・バス (2019年11月6日). 2022年1月30日閲覧。
- ^ “The Mercedes-AMG Petronas Formula One Team is delighted to announce that INEOS will become a one third shareholder in the team, which will be owned in three equal parts by Daimler AG, INEOS and Toto Wolff.” (英語). Mercedes-AMG Formula One Team (2017年). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Mercedes” (英語). Formula1.com. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “Modern Slavery Act Statement” (英語). Mercedes AMG High Performance Powertrains. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “HWA AG exceeds targets for 2017” (英語). HWA AG (2018年4月26日). 2021年6月28日閲覧。
- ^ “HWA AG H9WG.D” (日本語/英語). Reuters. 2021年6月28日閲覧。
- ^ “About us” (英語). HWA AG. 2021年6月28日閲覧。
- ^ Jack Benyon (2019年10月17日). “メルセデス傘下のHWA、アーデンを引き継ぎ来季からF2参戦へ”. Motorsport.com. 2021年6月28日閲覧。
- 1 モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツとは
- 2 モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツの概要
- 3 最初期のレース車両
- 4 ゴードン・ベネット・カップ(1903年)
- 5 グランプリレース黎明期(1906年 - 1914年)
- 6 戦間期のグランプリ・白の時代(1921年 - 1931年)
- 7 レース活動の休止(1932年 - 1933年)
- 8 「シルバーアロー」時代(1934年 - 1939年)
- 9 フォーミュラ1
- 10 インディカー
- 11 スポーツカーレース
- 12 ツーリングカーレース
- 13 電気自動車
- 14 ラリー
- 15 最高速度記録
- 16 ヒルクライム
- 17 トラックレース
- 18 その他のカテゴリー
- 19 沿革
- 20 関連組織
- 21 脚注
- モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツのページへのリンク