ニール・アームストロング 宇宙飛行士への選抜と初期訓練

ニール・アームストロング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:30 UTC 版)

宇宙飛行士への選抜と初期訓練

ジェミニ計画初期の宇宙服を着るアームストロング

1961年、マーキュリー・セブンマーキュリー計画で選抜された、アメリカ初の7人の宇宙飛行士)に続き、第2次の宇宙飛行士選抜が行なわれるとの発表があった。ニールはアポロ計画とまだ見ぬ宇宙空間への探査を想像し胸を躍らせた。宇宙飛行士への道を選ぶことにはもはや何のためらいもなかった。ちなみにずっと後になって明らかになったことだが、彼の志願書が有人宇宙センター(Manned Spacecraft Center, MSC)に届いた日は提出期限の1962年6月1日を1週間過ぎていた。エドワーズ空軍基地でずっと一緒に勤務し後にMSCに在籍するディック・デイは、期日の過ぎたニールの志願書を、人に気づかれる前に他の志願書の山の中にそっと潜り込ませたという[23]

1月の終わり、若き志願者たちはブルックス・シティ基地で、苦痛に満ちた医学試験を受けることになった[24]

1962年9月13日、マーキュリー7のメンバーの一人だったディーク・スレイトンはニールを呼び出し、マスコミによって「ニュー9」と名付けられた宇宙飛行士のメンバーに加わる意志があるかとたずねた。断る理由などあるはずもなかった。なおこの選抜結果は3日間秘密にされていたが、この年の夏には新聞紙上で様々な憶測が飛びかい、ニールについては初の「民間人」宇宙飛行士として選抜されるだろうなどと報道されたこともあった[25]。しかし実のところ世界初の民間人宇宙飛行はロシアのワレンチナ・テレシコワによる1963年6月16日の飛行であり、アメリカにおいても1963年ジョセフ・ウォーカーがX-15で宇宙空間に到達している。

ジェミニ計画

ジェミニ8号

西太平洋上に帰還したジェミニ8号

1965年9月20日、ニールはジェミニ8号の船長に任命された。副操縦士はデヴィッド・スコットだった。スコットは宇宙飛行士の第3次選抜メンバーの一人で、そのグループの中で宇宙に行くのは彼が初めてだった。彼らの任務は無人衛星・アジェナ標的機との軌道上ランデブーとドッキングを行なうことで、飛行時間75時間で地球を55周する間にスコットはアメリカ人として2番目となる船外活動(extra-vehicular activity, EVA。ニール自身は「宇宙遊泳」と言われるのを嫌っている)を行なう予定だった。1966年3月16日、米東部時間午前10時にまずアジェナが打ち上げられ、午前11時41分02秒、2人を乗せたタイタンII GLV 型ロケットが後を追うようにして打ち上げられ、アジェナを追跡する軌道に乗った[26]

ランデブーとドッキングは打ち上げから6時間半後に予定どおり行なわれた。しかしその当時は宇宙船の軌道のすべてを網羅するような無線中継基地はまだ作られていなかったために、途中で通信が途絶えてしまった。その中絶している時間中に宇宙船はとつぜん予期せぬ回転運動をし始めた。ニールは軌道姿勢制御システム(Orbital Attitude and Maneuvering System, OAMS)を使って何とか機体回転を停止させようと試み、地上の管制官のアドバイスに従ってアジェナを切り離した。しかし不規則な運動はますます激しくなるばかりで、ついに1秒間に1回転するまでになってしまった。原因はジェミニ自体の姿勢制御システムにあることは明らかだった。飛行後の分析では回路がショートしてエンジンの一つに誤って点火の指令が出されてしまったのだろうと考えられた。ニールは残された最後の手段として大気圏再突入システム(Reentry Control System, RCS)を作動させ、OAMSのスイッチを切った。ちなみに飛行規則では、いったんこの装置を作動させたら宇宙船は次の可能な機会に必ず再突入をしなければならないことになっていた。

この時オフィスに待機していた数人の飛行士の中で最も著名な人物だったウォルター・カニンガムは、「ニールとスコットは、このような事態が発生した場合に対応する手順を怠っていた。ニールが二つあるRCSのスイッチのうちの一つをオンにしていれば回転はすぐに収まり、計画を犠牲にすることはなかったのだ」と明白に述べている。しかしこの批判は的を射たものではない。なぜならそのような手順はチェックリストには書かれていなかったし、彼に唯一できるのは、二つのRCSのスイッチのどちらか一つではなく、両方をオンにすることだけだった。NASAの主任管制官だったジーン・クランツは「乗組員は訓練されたとおりのことをやった。もし彼らが間違ったことをしたというのなら、それは訓練が間違っていたのだ」と述べている。また計画の立案者や管制官たちは、一つだけ大きな事実を見落としていた。2機の宇宙船がドッキングしたら、それは1機の宇宙船になるということである[27]

ニール自身はといえば、予定されていた計画のほとんどを中止しスコットが船外活動をする機会を奪ってしまったことに、意気消沈し悩んでいた。彼は他の飛行士たちの批判には耳を貸さなかったが、フライト終了後に「アジェナとドッキングしている間はジェミニの姿勢制御装置は全く不要のものであり、アジェナの姿勢制御装置を使っていれば容易に制御を回復できていたはずだ」と述べている。

ジェミニ11号

ジェミニ計画における最後の任務はジェミニ11号のバックアップ・クルーの船長で、8号が帰還した2日後に任命された。すでに2回の飛行訓練の経験があるニールはシステムについては十分な知識を持っており、バックアップ・クルーの新人パイロット、ウィリアム・アンダースの指導も担当した。ピート・コンラッド飛行士とリチャード・ゴードン英語版飛行士を乗せた11号は1966年9月12日に打ち上げられ、ニールは地上の連絡担当官(CAPCOM)を務め計画は成功裏に終わった。

計画終了後、リンドン・ジョンソン大統領はニール夫妻に南アフリカへの足かけ24日間にわたる親善旅行への参加を打診した。参加者にはディック・ゴードン、ジョージ・ロウなどの他の飛行士とその妻たち、そして多数の関係者が含まれていた。一行は11の国の14の主要な都市を巡り、ニールは現地語で政府の高官に挨拶するなどして当地の人々を喜ばせた。後にブラジルに行ったときには、ライト兄弟と並び称されるブラジル出身の飛行機王、アルベルト・サントス・デュモンの業績を称えたこともあった。

アポロ計画

1967年1月27日、ニールはディック・ゴードン、ジム・ラベルスコット・カーペンターらとともに、ワシントンD.C.で開催された国際連合宇宙条約交渉に出席していた。彼らはそこで、各国の高官たちと午後6時45分まで歓談した。その後カーペンター一人が空港に向かい、残りの者たちがホテルに帰ると、「ただちに有人宇宙センターに電話せよ」とのメッセージが届いていた。そこで初めて、ガス・グリソムエドワード・ホワイトロジャー・チャフィーの3名が、アポロ1号の火災事故で死亡したことを知らされたのである。彼らはその夜、スコッチウィスキーを飲みながら、この事態について遅くまで討論し合った[28]

1967年4月5日、1号の火災事故に関する調査結果の報告会が開かれ、ニールはディーク・スレイトンら17人の飛行士とともに出席した。冒頭でスレイトンは「最初に月面に降り立つ男は、この部屋の中にいる者たちの中の誰かである」と述べた。ユージン・サーナン飛行士によれば、ニールはこれを聞いても特に何の反応も示さなかったという。彼にとってみれば、今ここに集まっているのはジェミニ計画のベテランパイロットばかりであり、月に行く能力を持っているのは自分たちを置いて他にはいないと確信していたことは想像に難くない。スレイトンは今後のアポロ計画の予定についても説明し、ニールを9号のバックアップ・クルーに任命した。なおこの時点では、9号はアポロ司令・機械船および月着陸船による、高軌道の試験飛行を行なう予定だった。その後着陸船の開発の遅れにより8号と9号の搭乗員が交替したが、11号では予定どおりニールが船長を務めることになった。

ベル・エアクラフト社は飛行士たちに着陸船の操縦技術を習得させるために、月着陸研究機(後に月着陸練習機に変更される)を開発した。「寝台」というあだ名がつけられたこの機体は、ターボファンエンジンを使用し、地球の6分の1の月の重力を再現するものだった。1968年5月6日の訓練で、ニールが地上30mから降下を試みたとき、とつぜん機体が傾きはじめた。ただちに射出座席で脱出したためことなきを得たが、後の分析ではもし脱出するタイミングがあと0.5秒遅れていたらパラシュートが開くのが間に合わなかったかもしれなかったと言われている。この時彼が負った傷は舌をかんだことだけだった。危うく命を落とすところだったにもかかわらず、ニールは「研究機や練習機は操縦者に着陸船の様々な特性を経験させるために有効であり、これがなければ月面着陸は成功しなかっただろう」と述べている。

アポロ11号

アポロ11号3人の飛行士。左からアームストロング、コリンズ、オルドリン

1968年12月23日アポロ8号の月周回飛行成功後、スレイトンはニールをアポロ11号の船長に任命した。2005年に出版されたニールの自伝で明かされたところによると、この時の会合でスレイトンは、船長をニール、着陸船の操縦士にバズ・オルドリン、司令船操縦士にマイケル・コリンズを考えているが、オルドリンの代わりにジム・ラベルを起用するのはどうかと聞いていた。ニールは数日間考えた後、ラベルは一緒に仕事をする上で何の問題もないが、着陸船の操縦士はオルドリンがよいだろうと答えた。もしラベルを起用すると、彼は3人の飛行士の中で(非公式なものだが)3番目に序列されてしまう。ジェミニ12号で船長を務めたような人物をそのような順位に置くことは適切ではないと考えたという。

はじめオルドリンは、最初に月面に降り立つのは自分だと考えていた。ジェミニ計画では、全体の責任者であり船外活動の訓練はあまり積んでいない船長が、船内にとどまり副操縦士の船外活動を補佐していたからである。しかし地上の訓練で飛行士に宇宙服を完全装備させ着陸船の模型で手順を試してみると、彼を先に出すと船長の体が邪魔になり機体内部を傷つけてしまう可能性があることが判明した。

1969年3月、スレイトン、ジョージ・ロウ、ボブ・ギルルース、クリス・クラフトらの会合で、最初に月面に降り立つ人間はニールにすることが決定された。NASAの上層部は彼が最も自己顕示欲の少ない人物だと見ていたのである[29]。1969年4月14日に開かれた記者会見では、着陸船の内部構造と、なぜ船長を先に出さなければならないのかという理由が説明された。船外活動用のハッチは内側に右開きになるように設計されており、右側に立っている着陸船操縦士が先に出るには船長の体を乗り越えなければならず、非常に困難だった。この会見でスレイトンはさらに、

「付け加えるならば、私の個人的な見解としては、最初に物事を行なうのは船長であるということが当然だと思ったからだ。この決定にはギルルースらも賛成してくれた」

と述べた[30]。もっとも3月の会合では、彼らはハッチの問題は全く知らなかったのだと、ジーン・クランツは2001年に出版した自伝で述べている[29]

1969年7月16日、月に向かう当日に、ニールは打ち上げ責任者のグエンター・ウェンドから、「月への鍵だ」と言ってポリスチレン製の三日月のおもちゃを受け取った。月から帰還した後、ニールは返礼として「二つの星間のタクシー券」を渡した。

月への航海

アポロ11号の打ち上げの瞬間、ニールの心拍数は109に達した。サターンV 型ロケット第1段のS-IC の騒音はジェミニ8号のタイタンII GLVとは全く比較にならないほど想像以上のもので、アポロ宇宙船の船内もまた、ジェミニとは比較にならないほど広々としていた。この広さは宇宙酔いの原因となるのではないかと予想されたが、11号の乗組員は誰もそのような症状を訴えることはなかった。特にニールは子供の頃から乗り物酔いになる傾向があり、長時間の曲芸飛行をした後などには吐き気を覚えることがあったため、何も不調を感じなかったことで安心した。

11号の目的は単に月面に降りるだけではなく、予定された地点に正確に着陸することだった。月着陸船イーグルがエンジンを噴射しながら降下している時、ニールはシミュレーターで見慣れていたクレーターを通過する時間が2分ほど早すぎたことに気づいた。これはつまり、予定着陸地点を数マイルほど行きすぎてしまうことを意味していた[31]。イーグルのレーダーは正確に月面をとらえてはいたが、その時コンピューターが警報を発した。最初はコード1202という警報で、訓練を積んだニールやオルドリンでさえもこの意味が分からなかったが、ヒューストンの管制官は迅速に、この警報には大した意味はなく着陸を続行するよう指示した。次に1201という警報が出されたが、これも無視するよう伝えた。1202と1201は着陸船のコンピューターがオーバーフローを起こしたことを示すものだった。オルドリンの「月の影」という著書によれば、このオーバーフローは彼自身が作成したチェックリストに従って、降下中にドッキング用のレーダーをオンのままにしておいたことが原因で起こったのだという。彼がそうしたのは、もし着陸を中止して緊急脱出する事態になった際司令船との再ドッキング手順を容易にするためだったのだが、その瞬間には正確な理由が分かる人間など誰もいなかった。

船外活動を行った後にオルドリンが撮影したアームストロング

ニールは操縦を手動に切り替え着陸を続行した。だがその時イーグルの行く先にはフットボール場ほどもある大きなクレーターが口を開けていた。内部には乗用車ほどの大きさの岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかだった。他によい着陸地点はないかと目を凝らしていると、ようやく民家の庭ほどの広さの平坦な場所があるのを発見した。操縦桿を倒して機体を水平移動させる。燃料はどんどん残り少なくなっていく。管制官が「残り30秒」と伝えた次の瞬間、センサーが月面に接触したことを感知してエンジンが停止し、着陸船は月面に降り立った。時間は1969年7月20日、20:17:39(UTC)だった[32][33]

アポロ11号に関する多くの記事では、この時着陸船の燃料の残量は極めて危険なレベルにまでなっていたとされている。計器は残り17秒と表示していた。だがニールは月着陸練習機で残り15秒以下になるような事態も経験していたし、着陸船は15mの高さから垂直落下しても耐えられるように設計されていることを知っていたので、自信を持っていた。また計画終了後の分析では、月面の重力が小さく、常に撹拌されているタンク内の燃料が予想以上に擾乱されたため残量が低く表示され、実際にはまだ50秒分以上残っていたのではないかとも言われている。

月面に降り立ったとき、ニールが最初に発した言葉は、

「ヒューストン、こちら静かの基地。イーグルは着陸した (Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」

だった。もっとも実際に月面に着陸した瞬間に乗組員が発した言葉は、オルドリンの「接触灯が点灯した(Contact Light.)」だった。着陸脚には長さ1.5mのセンサーが取りつけられていて、先端が月面に接触すると船内の表示灯が点灯するようになっている。オルドリンは手順に従ってそう言ったまでのことだった。その3秒後には再びオルドリンが「エンジンは停止した(Okay. Engine Stop.)」と言い、ニールが「停止を確認(Shutdown.)」と応えた。この直後2人は握手して成功を祝っただけで、すぐさまマニュアルに従い不測の事態が発生した時に備えて月面から緊急脱出する準備を始めた[34][35][36]

月面への第一歩

月面に足を踏み降ろすアームストロング

NASAの飛行手順では、乗組員は船外活動(EVA)をする前に休息を取らなければならないことになっていたが、ニールは休息を取りやめてEVAをヒューストン時間の夜に行うよう要求した。とてもではないが、眠ってなどいられなかった。管制センターは要求を受け容れ、2人はただちに宇宙服を着て船内を減圧した。ハッチを開き、はしごを下り、左足を月面に踏み降ろしながら、1969年7月21日02:56(UTC)[37]、アームストロングは次のように言った。

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である。
(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)

[38]

【右上の動画中のアームストロングの発言内容】

I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.

いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている。

I'm going to step off the LM now.

これより着陸船から足を踏み降ろす。

That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.

これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である。

ニール自身も認めているが[要出典]、このとき彼は間違えて不定冠詞の "a" を省略してしまった(one small step for man)。確かにこの用法だと、man は「人類」の意味になってしまう[38](直訳すると、「これは人類にとって小さな一歩だが、人類にとって偉大な飛躍である」になる)。しかし彼は、「もし仮に間違っていたとしても、歴史が私の言い間違いを許す寛容さを持ち、人類が一つになる方向に向かって進むことを希望する」と後日述べている。

一方で音響分析の専門家の中には、失われた「a」の存在を主張する者もいる[38][39]オーストラリアのコンピューター・プログラマー、ピーター・シャン・フォードは、「アームストロングは実際には "a man" と言っていたのだが、当時の通信技術には限界があったため "a" は録音されなかったのだ」と分析している[38][40][41][42]。フォードと、ニールの伝記の著者であるR.ハンセンは、この分析結果をニール本人やNASAの代表者たちに提示した[43]

フォードの論説は自身のウェブサイトでも紹介されているが、言語学者のデビッド・ビーヴァーやマーク・リバーマンはこの意見に懐疑的である[44][45][46][47][48][49] 。ニール自身は、文章で引用されるときには冠詞の a の前後に括弧をつけられるのが好みだと表明している[50][51]


ニールの声明は「これより着陸船から足を踏み出そうと思う(I'm going to step off the LM now.)」の後に発せられた。それから彼は後ろを振り返り、左足を月面に踏みおろした。彼の言葉はVOA(ボイス・オブ・アメリカ、アメリカ合衆国政府が公式に運営する国営短波ラジオ放送局)から、BBCをはじめ数多くの放送局を通して世界中に発信された。当時の世界の人口36億3,100万人[52] のうち、およそ4億5,000万人がこの言葉を聞いたとされている[53]

「小さな一歩」のくだりについては、ニールは月面に着陸してからの数時間の間に考え、決定していたという[54]

ニールから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月に立った2番目の男になった。両名は、月の表面では人間はいかに身軽に動けるかということを実感しながら、予定されていた各種の行動を始めた。はじめに彼らの飛行を記念したプレートを月面に置き、次に星条旗を立てた。この旗は宇宙空間でも展開できるように中にワイヤーが織り込まれていたのだが、旗竿を十分に伸ばすことができず、また旗自体もきつく折りたたまれていたため、真空中であるにもかかわらず、たなびいているように見えてしまった[55]。地球では国旗を立てることに関する是非を問う声もあったが、ニールはそんなことは全く気にしていなかった。旗を立てている最中、スレイトンが緊急連絡が入っていることを知らせてきたが、彼はわざとそれがニクソン大統領からのものだということを伏せておいた。

着陸船の傍らで船外活動をするアームストロング。彼を写した5枚の写真の中の1枚

オルドリンは旗を立てるのに手間取り、おまけに大統領から予定外の電話が入ってきたため、写真を撮る暇がなくなってしまった。全計画を通じて撮影された写真のうち、月面で活動するニールをとらえたものは5枚しか残されていない。オルドリンは後に語っているが、この計画の主目的は月面でのニールの写真を撮ることだったのだが、大統領の電話で予定が狂い、むしろ自分が撮影された写真のほうが有名になってしまったという。このハプニングのために予定が5分遅れた。彼らの行動は分刻みでスケジュールされており、ぐずぐずしている暇はなかった。なお11号の月面活動の写真のほとんどは、ニールが持ったハッセルブラッド社製のカメラで撮影された[56]

科学実験装置を設置した後、ニールは着陸船から60m東にあるイースト・クレーターまで歩いて行った。今回の計画で着陸船から最も遠くに離れる行動だった。彼の月面における最後の任務は、ユーリ・ガガーリンソビエト連邦出身の史上初の宇宙飛行士。この前年の1968年3月27日に飛行機事故で死亡)、ウラジーミル・コマロフ(同じくソ連の宇宙飛行士。1967年4月24日ソユーズ1号の墜落事故で死亡)、そしてアポロ1号の火災事故で亡くなったガス・グリソムエド・ホワイトロジャー・チャフィーらの業績を称えた記念品を収めたパッケージを、オルドリンが月面に置いていくように気を付けることだった。11号の月面での船外活動の時間は2時間半ほどで、全6回のアポロ月面着陸の中で最も短いものだったが、この後の5回のミッションでは徐々に延長され、最後のアポロ17号では合計21時間に達した。

地球への帰還

船外活動を終え着陸船に戻りハッチを閉めたとき、彼らはかさばった宇宙服で上昇用ロケットエンジンのスイッチを壊してしまっていたことに気づいた。エンジンが点火できなければ地球への帰還は不可能になる。そのためオルドリンはボールペンの先でスイッチを入れ、ロケットが上昇している間もずっとそれで押し続けていた。司令船とのランデブーとドッキングにも成功し、3人を乗せた司令船は7月24日16:50:35(UTC)、無事太平洋上に着水し、空母ホーネット(USS Hornet)に回収された。

11号の飛行士たちと会見するニクソン大統領

月から病原菌ウイルスを持ってきていないかを検査するため、帰還後ただちに特殊な病棟に18日間隔離された。異常がないことが確認されると、3人は「偉大な飛躍(Giant Leap)ツアー」と銘打った親善旅行で、45日間にわたって全米や世界各国を訪れた。1969年、コメディアンのボブ・ホープとともにベトナム戦争に従軍する兵士たちの慰安に訪れた際には、「我々が戦場に縛りつけられている最中に、どうして月に行く必要があるのか」という質問を浴びせられたこともあった。また三流紙の中には、この時同行していた歌手で女優のコニー・スティーブンスとの関係を取り沙汰するものもあったが、根も葉もないゴシップにすぎなかった。

1969年10月31日にはマイケル・コリンズ、バズ・オルドリンと共に日本を訪問。その際には日本政府より文化勲章を贈られた[57]。翌11月1日に銀座で行われたオープンカーでのパレードには12万人の観衆が押し寄せた。

1970年5月、ニールはソ連で開催された第13回国際宇宙調査委員会に出席した。ポーランドからレニングラード(のちのサンクトペテルブルク)に向かう途中、モスクワコスイギン首相(当時)とも面会した。彼は西側の人間として初めてツポレフTu-144の現物を見て、そのあと「自然の中に造られた、ちょっとヴィクトリア朝風の建物(ニール談)」の、ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センターを訪れた。その日の終わりにソユーズ9号打ち上げのスロー映像を見せられたが、そこに搭乗しているアンドリアン・ニコラエフ飛行士は、いま目の前で彼をもてなしているワレンチナ・テレシコワ(世界初の女性宇宙飛行士)の夫だと知らされて、少なからず驚いた[58]


注釈

  1. ^ 降着装置ほか機体強度の関係から、衝撃を伴いかねない着陸重量の上限は、どのような航空機でも一般に離陸時のそれを下回る

出典

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