キューバ危機 概要

キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 01:49 UTC 版)

概要

1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。アメリカは偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見、直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫った[注 1]。一触即発の危険な状態に陥ったが、当時のケネディ大統領とフルシチョフ第一書記とで書簡をやり取りし、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。また、これを機に米ソ間でホットラインの開設がなされ、不測の事態による軍事衝突を防ぐための対策が取られた。

危機の期間に定義があるわけではないが、アメリカ軍が空中偵察でミサイル基地を発見した1962年10月14日、または大統領にその情報が入った10月16日から、フルシチョフがミサイル撤去を伝えた10月28日までとすることが多い[注 2]。ただし、実際にソ連が核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカが封鎖解除したのは11月21日である。

「キューバ・ミサイル危機」とも呼ばれ、またこの1年半前の1961年4月の「ピッグズ湾事件」を「第一次キューバ危機」と呼び、この1962年10月の危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ場合がある。

経過

キューバ革命

1959年の訪米時のカストロ首相

1959年1月キューバ革命で親米軍事独裁のフルヘンシオ・バティスタ大統領を打倒し、首相の座に就いたフィデル・カストロは、革命の1ヶ月後にバティスタ派の人々に対する簡易裁判を行い、即時に600人を処刑したことから、彼がアメリカに対してどのような外交姿勢を取るのか懸念されていた。このような懸念に反してカストロは「アメリカ合衆国に対して変わらず友好関係を保つ」と表明し、早くも4月にワシントンD.C.を訪問し、アメリカ政府に対して友好的な態度を見せるとともに、革命政権の承認を求めた。

しかし、カストロからの公式会談申し入れを受け入れたドワイト・D・アイゼンハワー大統領は、CIAより、権力掌握後のカストロが国内でバティスタ派の有力者を処刑したり、親米的な地主からの農地の強制接収による農地改革を推し進めていることを根拠として「カストロは共産主義者である」との報告を受けており、結果「かねてから予定されていたゴルフに行く」との理由で公式会談を欠席した。

さらにアイゼンハワーに代わって会談したリチャード・ニクソン副大統領との会談において、カストロは「アメリカとの友好関係を保つ」と言いながらも、彼から「革命後の共産主義の影響拡大」、「反革命派の処刑」、「自由選挙の未実施」といった点を問い詰められて怒りだす寸前になる始末であった[1]。このようなカストロの態度を受けたニクソンは、アイゼンハワーに「カストロは打倒すべき人物で、キューバ人亡命者部隊を編成してキューバに侵攻すべきである」と進言した[1]

キューバとソ連の接近

ジャン=ポール・サルトルと妻のシモーヌ・ド・ボーヴォワールと話すゲバラ(1960年)

このような「予想外」の冷遇に反発したカストロ首相は、アメリカとの友好関係の継続と支援を受けることにまだ期待を持ちながらも、帰国後に農地の接収を含む農地改革法の施行を発表した。

当時アメリカ企業であるユナイテッド・フルーツとその関連会社、関係者がキューバの農地の7割以上を所有していたことから、これは事実上アメリカ企業の資産の接収を目的にした法の施行ということになり、アメリカ政府や企業からの大きな反発を受けることとなった。

アメリカとの関係が悪化する中、カストロは全方位外交を掲げることで、第三世界のみならず西側の先進国を含めた世界各国から革命政権の承認を受けることを目論み、革命の同志で国立銀行総裁に就任したエルネスト・チェ・ゲバラ日本インドネシアパキスタンスーダンユーゴスラビアガーナモロッコをはじめとするアジアアフリカ東ヨーロッパ諸国に派遣した。

さらにカストロは、弟のラウル・カストロ国防大臣にソビエト連邦首都モスクワを訪問させ、ニキータ・フルシチョフ首相から歓迎を受け、アナスタス・ミコヤン第一副首相をハバナに公式訪問として正式に招請するなど、冷戦下でアメリカ合衆国と対峙していたソビエト連邦との接近を開始する。

その後もキューバとアメリカの関係は悪化の一途をたどり、1960年1月にはユナイテッド・フルーツの農地の接収を実施したほか、2月にはソ連のアナスタス・ミコヤン第一副首相のハバナ公式訪問を受け入れ、ソ連との砂糖と石油の事実上のバーター取引や有利な条件での借款の受け入れ、さらにソ連からの重火器類を含む武器調達の取引に調印した。アメリカ合衆国本土の隣国であるキューバがソビエト連邦と手を組む事態を受け、アメリカ合衆国は共産主義国家による軍事的脅威を間近で感じることになった。

アメリカとの対立

国連総会に出席したカストロ(1960年4月)

同年4月には早くもソ連のタンカーがキューバの港に到着し、さらに6月には、キューバ政府によりユナイテッド・フルーツやチェース・マンハッタン銀行、ファースト・ナショナル・シティ銀行をはじめとする、アメリカの政府や企業、国民が所有する全ての国内資産の完全国有化を開始するとともに、穏健派のルフォ・ロペス財務大臣の更迭(その後アメリカに亡命)など、キューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。

さらに9月にアメリカ政府は、国内にあるすべてのキューバ資産を差し押さえるとともに、キューバに経済および軍事援助を行った国に対する制裁を規定する法案を可決した。

同月下旬にカストロは自ら国連本部で開催される国連総会に出席すべくニューヨークを訪問したものの、これに対してアメリカ政府はキューバ代表団のマンハッタン外への移動を禁止し、さらに宿泊予定のシェルボーン・ホテルはキューバ代表団に対して膨大な額の「補償金」の支払いを要求するなど、嫌がらせともいえるような対応を取った。なおその後ハーレムにある安ホテルに移動したカストロは、ホテルを訪問したフルシチョフやエジプトナーセル大統領、マルコムXなどと会談し、さらに26日には国連総会において4時間29分に渡る長時間の演説を行い、キューバ革命の意義を自画自賛するとともにアメリカを非難した。

アイゼンハワー政権は更なる対抗策として、キューバ最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置に踏み切り、1961年1月3日には国交断絶を通告した。この間、大量のキューバからの避難民がフロリダ州マイアミに到達し、その数は10万人に達した。

アメリカによるキューバへの軍事侵攻

ピッグス湾事件

ピッグス湾事件で撃墜されたアメリカ軍のB-26爆撃機の残骸
アイゼンハワー(右)とケネディ

これに先立つ1960年3月、キューバのソ連への接近を憂慮したアイゼンハワー大統領とCIAは、カストロ政権転覆計画を秘密裏に開始した。キューバ革命で母国を脱出してきた亡命者1,500人を「解放軍」として組織化し、1954年にCIAが主導した「PBSUCCESS作戦」により親米軍事政権が成立していたグアテマラの基地において、ゲリラ戦の訓練を行った。アメリカの軍事援助と資金協力の下でキューバ上陸作戦を敢行させるためであった。

アイゼンハワーはすでに退任間近だったためこのキューバ問題から手を引き、その後はリチャード・ニクソン副大統領とCIAのアレン・ダレス長官らによって作戦計画は進められた。

そして、兵員数と物資で圧倒的に劣勢であった反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つためには、アメリカ軍の介入が必要と見たCIAは作戦計画にこれも組み入れていた。表面的には亡命した反カストロ軍が故国キューバの独裁政権を倒しカストロを追放するという目的はそのままであったが、元の計画ではキューバ国内での反政府グループの支援を見込んで、またカストロ体制がまだ盤石ではないと予測していた。

そして1960年11月の大統領選挙で当選し1961年1月20日ジョン・F・ケネディが大統領に就任すると、カストロ政権転覆計画をCIAと軍部から説明を受けた。この時に「あくまでアメリカ軍が直接介入するのではなく、CIAの援助のもとに亡命キューバ人が組織した反カストロ軍が進める作戦」として説明を受けたケネディはその通りに理解し、アメリカ軍の正規軍が直接介入しないことを条件に作戦を許可した。作戦は2つの段階があり、最初の4月15日に、「払い下げ品の」旧型のアメリカ軍の爆撃機を仕立てた亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪い、4月17日にピッグス湾(コチーノス湾)に艦船の援助を受けて上陸作戦を実行する予定であった。

ところが、4月15日に行われた最初の空爆作戦が失敗、制空権を確保できないまま、4月17日に1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸した時に、上陸を予想したキューバ政府軍の反撃に遭い[注 3]、さらに空からキューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立してしまった。

ここで当初「正規部隊は介入しない」と軍とCIAはケネディ大統領に説明していたにも拘らず、亡命キューバ人部隊の劣勢を受けて「状況を挽回するために正規軍を介入させたい」と軍が主張するも彼は拒否、結局亡命キューバ人部隊は1189名が捕虜となり、114名が戦死するなどして壊滅、作戦は完敗に終わった[注 4]。さらに、最初の爆撃にアメリカ軍の正規軍が関わっていることが明らかになって、世界からアメリカに非難が集中した[注 5]

この「ピッグズ湾事件」の直後の4月28日に、ケネディは「西半球における共産主義者とは交渉の余地がない」としてキューバに対する経済封鎖の実施を発表した[注 6]。なおアメリカのこれらの軍事侵攻や経済制裁の実施を受けて、キューバ政府は先の革命が社会主義革命であることを宣言しアメリカの挑発に答えた。1962年初めに米州機構から追放された。

ウィーン会談

フルシチョフ(左)とケネディ(1961年)

ピッグズ湾事件から2カ月の6月3~4日にオーストリアの首都ウィーンで、ケネディ大統領とフルシチョフ首相は最初で最後の首脳会談に臨んだ。この会談でケネディが持論であった大国同士の『誤算』が戦争を引き起こすことについて話すと、フルシチョフはキューバ問題について「バチスタを支持したことがキューバ国民の怒りがアメリカに向かっている理由です。キューバ上陸作戦はキューバの革命勢力とカストロの地位を強めただけである。わずか600万人のキューバがアメリカにとって脅威ですか?アメリカは他国の国内問題に介入する先例を作ってしまった。この状況は誤算を引き起こすことになる」と語り、ケネディはキューバの状況に関して判断ミスがありピッグス湾事件は誤りであったことを認め、両者は『誤算を生む可能性を排除すること』に同意した[2]

この時、ケネディは「私は政策判断をする場合に、ソ連が次に世界でどう動くかに基づいて下さなければならない。これはあなたがアメリカの動きに関して判断しなければならない場合と同様である。故にこの会談をこれらの判断により大きな正確さをもたらすのに役立つものとしたい」とフルシチョフに語り、そしてフルシチョフは「危険はアメリカが革命の原因を誤解した時にのみ起こるものだ」と切り返した[3]

マングース作戦

ピッグス湾事件の7カ月後の1961年11月、ケネディは軍事作戦とは別に隠密作戦の検討を始め、その特別グループを編成した[4]。そしてカストロ打倒計画を立てる中心人物としてエドワード・ランスデール空軍少将[注 7] を作戦立案者に指名し、政権の総力を挙げてカストロ政権打倒を目指す「マングース作戦」(Operation MONGOOSE)を極秘裏に開始した。ただし軍事訓練を施した亡命キューバ人をキューバ本土に派遣して破壊活動を実施させ、再度のキューバ侵攻作戦の計画立案を進めたのではなく、ランスデールが国防総省で検討を加えたのは破壊工作・経済的妨害・心理戦などからなる計画で隠密行動が主であり、その中にはカストロ暗殺計画もあり、1962年10月までにカストロ政権を転覆させるというものであった。

今日、ケネディ政権がどこまで本気でこのマングース作戦を実行するつもりであったかは不明である[注 8]。アメリカ軍によるキューバ侵攻作戦という大がかりな計画ではなく隠密にカストロを暗殺するものであったという見解と、一方では当時CIAはすでにカストロ体制が予想以上に強く隠密作戦だけで体制を転覆させられると考える者はなく、大規模な軍事行動が必要であるとの考えから軍事作戦の基本計画を練っていたという見解がある[5]

「マングース作戦」は徐々に速度を上げて進捗し、キューバでミサイル基地が発見された時の1962年10月15日にも作戦が予定されていたが急遽中止となった[注 9]。それは奇しくもキューバへのミサイル配備計画とほとんど時期を一にするものであった。

キューバへの核ミサイル配備

アナディル作戦

イリユーシンIl-28爆撃機
キューバに向かうソ連の貨物船「クラスノグラード」(9月)

そのような状況下で、キューバとソ連の関係は一層親密化し、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に最新鋭のジェット戦闘機や地対空ミサイルなどの供与を要求しはじめた。しかしソ連は1962年夏には、最新兵器の提供の代わりに秘密裏に核ミサイルをキューバ国内に配備するアナディル作戦ロシア語版[注 10] を可決し、キューバ側のカストロもこれを了承した。

キューバへのミサイル配備をフルシチョフが検討を始めたのは1962年4月の終わり頃で、ミコヤン第一副首相との会話の中でミサイル配備が話題となり、その後マリノフスキー国防相とも協議を始めている。ミコヤンは当初懐疑的であった。後にフルシチョフが書いた回顧録によると彼がキューバにミサイルを配備した動機は何よりもキューバの防衛であった[6]。しかしただ防衛だけであったなら、わざわざ隠密に極秘に核ミサイルを運ばなくても堂々とキューバと協定を結んで通常兵器を供与する方がケネディも反対できなかったし、仮にそれが小規模のものであってもアメリカが攻めて来る場合はソ連兵と直接戦闘となるリスクが生じ、歴史上初めてアメリカとソ連が直接武力で戦う覚悟を必要とし、それ故にアメリカのキューバ侵攻の抑止になると考える方が自然である。そう考えなかったフルシチョフにはミサイル配備のバランスでアメリカと均衡させるためにあえて核ミサイルの配備にこだわったと言える[7]

アナディル作戦の背景には、当時核ミサイルの攻撃能力で大幅な劣勢に立たされていたソ連がその不均衡を挽回する狙いがあった。アメリカは本土にソ連を攻撃可能な大陸間弾道ミサイルを配備し、加えて西ヨーロッパ、そしてトルコにも中距離核ミサイルを配備していた。これに対し、ソ連の大陸間弾道ミサイルはまだ開発段階で、潜水艦と爆撃機による攻撃以外にアメリカ本土を直接攻撃する手段を持たなかったといわれる。また、共産主義国家のリーダーとして台頭する中国への対抗心もあったという[8]

ソ連がアナディル作戦でキューバへの軍事力の展開をするには事前の発覚を避け、それでいて高性能の戦闘機、地対空ミサイル、それを管理する部隊や大量の装備品、そして約5万人の派兵が必要でそれらの人員や装備品を輸送する船舶がおよそ85隻が必要であり、しかもその船舶は何回も往復しなければならなかった。この時に運んだ人員および装備は以下の通りである[9]

  • 戦術核兵器
    中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基
  • 陸上兵力
    4個連隊合せて1万4000名。これらは機甲化されていないが各連隊に戦車、大砲、対戦車ミサイルを装備。そして射程40キロの短距離ロケット36基。
  • 航空兵力
    軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG-21)40機、その他地対空ミサイル72基。
  • 沿岸防衛
    巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻。

この他に、海上兵力として潜水艦11隻なども予定していたが、結局キューバには送られなかった。そしてキューバに派遣された人員は4万5234名で、この内海上封鎖が始まった時点で3332名はまだ公海上であった[10]

なお、これほど大量の物資及び人員を海上輸送する作戦をソビエト軍は実施したことはなく、加えて急遽決定された計画であったため、ミサイル基地の建設は非常に困難を極めるものであった[8]

  • 建設チームはキューバに関する情報(経済状況、天候、取得できる天然資源、地図、地形等)をほとんど持ち合わせておらず、スペイン語を話すキューバ人との会話にも支障をきたす有様であり、積み荷が到着するスケジュールすら知らされていなかった。
  • 当初はミサイル基地全体をヤシの木の葉で覆い隠す予定だったが、ヤシの木がまばらにしか生えておらず、急遽緑色のネットを被せて核ミサイルの存在をカモフラージュした。
  • 偵察チームは当初決定されたミサイル基地の建設候補地について、より適した場所への移転を本国に進言したが(カストロから情報提供があった)、上層部(フルシチョフ)の決定は絶対であったため、それらの提言はことごとく拒絶された。
  • NATO及びアメリカ軍に船舶が臨検を受けた場合は発砲の許可が下りており、秘密を守るために書類や積み荷の破棄が厳命されていた。
  • 一部の兵士は客船でキューバに渡ったが、ほとんどの兵士は物資を輸送する船舶に押し込まれたため、長い船旅で体調を崩す者が続出し、海上で死亡した者は水葬の措置が取られた。
  • ソビエトの工作機械はヨーロッパの気温が低い乾燥した気候に合わせて作られていたため、高温多湿のキューバでは錆の発生に苦しめられた(現場からの度重なる要望により、9月になり高温多湿の環境でも稼働する工作機械がやっと導入された)。また、工作機械の電圧もソビエトとキューバ(アメリカの規格である120ボルト60ヘルツが使われていた)では異なるため、その調整も一苦労だった。
  • 建設工事は昼夜を問わず24時間体制で進められたが、度重なるハリケーンの襲来により工事がたびたび中断し、スケジュールは予定通りには進まなかった。
  • 本作戦の最重要機密であるR14ミサイルについてはキューバ政府の一部の高官にしか存在を知らされていなかった。

軍事協力協定

キューバとソ連は、かつてない大胆で広範な軍事協力であったため、7月にラウル・カストロがモスクワを訪問して両国間の権利・義務・責任を確認して「キューバ駐留ソビエト軍に関する協定」を結んだ。この後8月にチェ・ゲバラらが訪ソして再調整し改めて2国間の「軍事協力協定」が結ばれた。その時に公表を求めるキューバに対してフルシチョフは公表する必要はないとして退けている[11][注 11]

フルシチョフは、1962年11月にニューヨークを訪れて国連総会に出席する予定であり、そこでキューバのミサイル基地建設の成功を劇的に公表するつもりであった。そうすれば西側にベルリンからの撤兵を要求するための前奏曲にできると考えていた。遡ること9月にケネディ政権はソ連に対してICBMの数で2対1の割合でアメリカが勝っていることを明らかにしていた。ここでキューバに中距離弾道ミサイル(MRBM)を配備すれば、アメリカ国内の標的を攻撃することができ、米ソ間の核バランスをソ連優位に修正することが出来ると考えていた[12]

偵察飛行

1962年7月から8月にかけて、ソ連やその同盟国の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするようになったため、これを不審に思ったアメリカ軍は、キューバ近海の公海上を行き来するソ連やその同盟国の船舶やキューバ国内に対する偵察飛行を強化していた。CIAはソ連船の数が急増していることの意味を検討していた。また亡命キューバ人やキューバと交易のある同盟国(デンマークトルコスペインなど)の情報機関からも情報が入ってきた。8月にCIAは4000~6000人のソ連人がキューバへ入国していると結論づけた。ソ連が戦略ミサイルを配備しようとしているかも知れないがソ連はそれほど愚かだと考える者は事実上皆無であった[13]

そして8月23日にケネディはマコーンCIA長官にキューバに核ミサイルが存在することは容認しないと述べていたが、この時にソ連が核ミサイルの配備を試みていると考えた者はマコーン以外はいなかった。そしてCIA内部でもソ連は核を運んでいると分析することはなく、9月19日にCIAが政府に提出した報告「特別国家情報評価」の中の「キューバの軍事力増強」でも同じ見方であった。それはソ連の過去の行動パターンにも予測する政策にも合致しないことであった[14]。そして9月にキューバ上空に偵察機を飛ばすことを制限した[注 12]

国内の動き

バリー・ゴールドウオーター

このような動きに対してケネディ大統領は、確かな証拠がまだ手に入っていないがもし配備されていたら容赦はしないとの警告を出す決意をした。8月31日、ニューヨーク州選出上院議員ケネス・キーティング[注 13] は、ケネディ政権はキューバ問題に対して意図的な怠慢を続けていると非難し、以降ソ連は1000人以上の部隊をキューバに派遣してミサイル基地を建設していると指摘した。他にバリー・ゴールドウオーター[注 14]、ジョン・タワーらの有力な共和党上院議員からもキューバへの行動に出るように要求が出された。

議員のもとに亡命キューバ人からの情報が入っていた。9月4日、ケネディは議会の代表者と会談し、現時点でソ連軍の大規模な展開はあるが、今までの監視から見て防御的な性格であると説明して、同日に声明を発表し「戦闘部隊が組織だって派遣されている証拠はない。軍事基地を提供している証拠もない」と前置きして「これらの証拠があるとなれば、最も憂慮すべき問題が生じ、きわめて深刻な事態が起きることになるだろう」と警告した。

9月6日にソ連のドブルイニン駐米大使から「中間選挙前にソ連が国際情勢を複雑にしたり米ソ関係の緊張を増したりするような措置は取らない。ただしアメリカがそのような行動に出ないことが条件である。ソ連はキューバで新しいことは何もしておらず、全て防衛的性質のものでアメリカの安全に脅威を与えるものではない」とのコメントがソレンセン大統領顧問を通じて伝えられた。9月7日にケネディは1万5000人の予備役を招集する権限を議会に要求し、さらに9月11日に「いつ如何なる形であれキューバがソ連に軍事基地を提供した場合は、アメリカは自国および同盟国の安全を守るため行わなければならないことは全て行う」と再び声明を出した[15]

同じ9月11日にソ連は声明を発表しキューバに対する如何なる軍事行動も核戦争を引き起こすであろうと警告していた。しかしその間にもソ連から、通常の工作機器の輸出に巧妙にカモフラージュされたソ連製核ミサイルや、核兵器が搭載可能でアメリカ東海岸の主要都市に達する航続距離を持ったイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に貨物船でキューバに運ばれた。さらに核兵器の配備に必要な技術者や軍兵士もキューバに送られ、急速に核ミサイルがキューバ国内に配備されはじめた。

しかし当初アメリカ軍の解析班は、これらの貨物船で運ばれている物の多くがアメリカからの経済制裁の発令に伴って供給が止まり、その代わりにソ連から送られるようになったドラム缶に入ったガソリンや木材であると解析した。さらに中央情報局(CIA)による分析では、貨物船でキューバに運ばれたソ連軍兵士の数も実際は4万3000人程度いたところを、その4分の1以下の約1万人と見積もるなど、ケネディの命令により偵察機による撮影が制限されてしまったアメリカの情報チームは、ソ連によって行われた巧妙なカモフラージュを全く見抜くことができなかった。

ようやく9月下旬に入りケネディはキューバ上空の偵察飛行を再開させたものの、この間にキューバにソ連からSS-4核ミサイルとその弾頭99個、さらに核兵器の搭載が可能なイリユーシンIl-28爆撃機が秘密裏に運ばれ、同時期に貨物船の船底にぎゅうぎゅうに詰め込まれて送られた万単位のソ連将兵とともに、キューバ国内への配備が始まっていることには気が付かないままであった[16]

核ミサイル基地の発見

サン・クリストバルに配置されたソ連のMRBM(10月14日)

1962年10月9日、米軍の上空偵察委員会はU-2偵察機によるハバナ南方のサンクリストバル一帯の偵察飛行を提言した。キューバからの人的情報で特に怪しいと見た地域である。ケネディはすぐに許可したがこの任務は悪天候のため何日か延期となり、ようやく10月13日午後11時半にカリフォルニア州エドワーズ空軍基地から飛び立った。そして翌10月14日の朝までにはキューバに達し、キューバ上空で偵察飛行を行い、フロリダに帰着した[17]

このアメリカ空軍ロッキードU-2偵察機が撮影した写真について、翌15日月曜日の午前にワシントンの国家写真解析センター(NPIC)でフィルムの解析が行われた。オレグ・ペンコフスキー大佐がもたらした技術仕様書や、メーデーの際にクレムリン広場をミサイル搭載車がパレードした際の写真と見比べて解析したアメリカ空軍とCIAの解析班は、アメリカ本土を射程内とするソ連製準中距離弾道ミサイル(MRBM)の存在を発見、さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見した[18]

10月16日(火)

これらの写真は10月16日朝にCIA高官のリチャード・ヘルムズによってホワイトハウスに届けられた[注 15]。ケネディ大統領は16日午前9時にマクジョージ・バンディ国家安全保障担当補佐官から報告を受けて11時45分から緊急に国家安全保障会議を招集する決定を下した。しかもこの会議にはいつものメンバーに加えて、それ以外の顔ぶれを集めたので後に国家安全保障会議執行委員会(エクスコム)と呼ばれることとなった。

エクスコム

エクスコムに参加するケネディ大統領(窓際真ん中)やロバート・ケネディ(写真の一番左で、椅子を机から離している)、マクナマラ(大統領の右)など(1962年10月29日)

このエクスコムの会議には14〜15人が集まり、主な顔ぶれはジョンソン副大統領、ラスク国務長官、ボール国務次官、マクナマラ国防長官、ギルパトリック国防次官、マコーンCIA長官、ロバート・ケネディ司法長官、ディロン財務長官、スティーヴンソン国連大使、テイラー統合参謀本部議長、バンディ補佐官、オドンネル大統領特別補佐官、ソレンセン大統領顧問、アチソン元国務長官、ラヴェット元国防長官などであった[19]。この席でケネディは直面する危険とこれに対処するあらゆる行動を即時徹底的に調査するように命じた。そして徹底した機密保持も命じた。この10月16日から13日間が歴史に深く刻まれ核戦争の寸前までいったキューバ危機の期間である。

大統領顧問であったソレンセンが1965年に書いた著書「ケネディの道」の中で、この16〜19日までの96時間が午前・午後・夜間を問わず会議の連続であったという。その間に新しい空中写真の分析が進み、近距離用攻撃用ミサイルが配置された地点が6カ所に上り、中距離用ミサイル(IRBM)用の基地にするために掘られた個所が3カ所見つかった。

6つの選択肢

ロバート・マクナマラ国防長官と話すケネディ(6月)

ここでメンバーがこれから行動に移す可能なコースとして、

  1. ソ連に対して外交的圧力と警告および頂上会談(外交交渉のみ)
  2. カストロへの秘密裏のアプローチ
  3. 海上封鎖
  4. 空爆
  5. 軍事侵攻
  6. 何もしない

の6つの選択肢を挙げた。そして 1.の外交交渉のみと 6.の何もしないは最初から真剣に討議された。18日夜の段階でも外交交渉のみの案を支持するメンバー(主に国務省関係者)もいたが、ケネディは、1.と 6.のどちらも却下した。2.のカストロへのアプローチも相手は、キューバではなくソ連が相手であることで却下となった。そして 5.の軍事侵攻も1人[注 16] を除いて積極的な意見は出てこなかった。

ケネディの「侵攻は最後の手であって最初の手ではない」との意見が、ほぼ全体のコンセンサスとなった。残るは 3.の海上封鎖か 4.の空爆で、最初は空爆が有力であった。ソレンセンは少なくとも17日の段階までケネディも空爆に傾いていたと述べている[20][注 17]

マクナマラは、16日夕方の会議で海上封鎖をしてキューバの動きを見守り、その反応によってはソ連と戦うと述べた[21]。ロバート・ケネディは、事前警告無しの空爆は「真珠湾攻撃の裏返し」であり歴史に汚名を残すと述べ、この事前警告をした場合は逆にソ連に反撃のチャンスを与え、かつフルシチョフが反撃に乗り出さざるを得ない状況に追い込んで、却って危険な状況となることが予想された。

テイラー統合参謀本部長は夕方までの間に他の参謀たちと協議して、1回の外科手術的空爆では不十分で、キューバの軍事的な目標全体を対象とした大規模な空爆が必要と認識していた[22]

10月17日(水)

事前警告の問題

17日の会議でアドレー・スティーブンソン国連大使は「平和的解決手段がすべて無駄に終わるまで空爆などはしてはなりません」と大統領に強く主張した[23]。ここで空爆の前に事前警告の必要が議論の焦点となった。統合参謀本部のメンバーはキューバへの空爆を支持していたが、マクナマラやロバート・ケネディは海上封鎖を主張した。マコーンCIA長官は事前通告無しの空爆には反対であった。彼はフルシチョフに24時間の猶予を与えるべきで、この手順を踏んで、しかし最後通牒に応じない場合に攻撃を行うと主張した。アチソン元国務長官はより強気で、発見されたミサイルを早急に破壊するための外科手術的空爆に賛成した。ここでケネディはアイゼンハワー前大統領に電話で意見を聞いているが、前大統領はキューバにある軍事目標全体への空爆を支持した。一方スティーブンソン国連大使は、トルコにあるジュピター・ミサイルとキューバにある核ミサイルとを取り引きすることを検討するよう求めた[24]

ジャクリーン夫人の決意

この日までにケネディ大統領はジャクリーン夫人に事態が容易ならざる方向に進んでいることを伝えていた。

ホワイトハウス警護官で大統領夫人担当のクリント・ヒル[注 18] は緊急事態に備えて大統領夫妻と打ち合わせする必要を感じていた。そしてこの10月17日にジャクリーン夫人と不測の事態が起こった場合の対応について率直に話し合うことにした。それまでにシークレットサービスは大統領の家族および政府の要人を避難させる計画を既に持っていた。そして事態が発生した直後は取り敢えずホワイトハウスの地下の核シェルターに入ることとなっていた[25]

このことをジャクリーン夫人に伝えようとした時に、逆に大統領夫人は『核シェルターに入らなければならない時、私がどうするか、知らせておくわ』として『もし事態が変化したら、私はキャロラインとジョンJRの手をつなぎ、ホワイトハウスの南庭に行きます。そして勇敢な兵士のようにそこに立ち、全てのアメリカ人と同じく運命に立ち向かいます。』と語った。クリント・ヒルは『そうならないように神に祈りましょう。』と答えるだけであった[26][注 19]

10月18日(木)

ロバートの5つの試案

18日の会議でロバート・ケネディは、

  1. 1週間の準備と西欧諸国とラテンアメリカ諸国への通告の後に24日にMRBMの施設を爆撃する
  2. フルシチョフへの警告の後にMRBMの施設を爆撃する
  3. ミサイルの存在・今後阻止する決意・戦争の決意・キューバ侵攻の決意をソ連に通告する
  4. 政治的予備会談を実施し失敗の場合に空爆と侵攻を行う
  5. 政治的予備折衝無しに空爆と侵攻を行う

の5つの選択肢を提示した[21]。ラスクは 1.に反対し、国防省関係者は 2.に反対した。国務省関係者は 3.に賛成であったが、ただし空爆の前提ではなく監視強化が前提であった。4.と 5.には意見は無かった[27]

この日にソ連問題担当顧問で、後に駐ソ大使となったリュウェリン・トンプソンが出席して、フルシチョフは何らかの取引を目的にミサイルを配備し、それはベルリン問題で何らかのアメリカの譲歩を引き出すためではないか、と考えてフルシチョフに交渉の機会を与えることが大事だと主張した。いきなり軍事行動では報復を呼ぶだけであり、その後は予測も制御もできないとして、海上封鎖であればソ連は封鎖を突破しないと考えるがミサイル基地の作業の中止および撤去は難しいとの懸念を示した[28]

前日空爆反対を唱えたスティーブンソン国連大使はこの日ニューヨークに戻る前に大統領に文書を送り、キューバへの攻撃はソ連がトルコやベルリンに報復行動に出る可能性が高く、結果として核戦争になると強調した[21]

この段階で封鎖と空爆の2つの選択肢が残っていたが、実際は二者択一ではなく、海上封鎖から空爆へという考えと、どちらにせよ最後はキューバ侵攻へという考えで、このエクスコム会議に出席していたメンバーの大半は最後は侵攻する必要があることを理解していた[29]

そして海上封鎖の場合に、フルシチョフが撤去に応じる代わりに要求してくる要素をさまざまに検討して、トルコのミサイルが浮上してきた。また海上封鎖は厳密には戦争行為であるので、戦争に突入することなく海上封鎖を法的に正当化するためにどうするか、この問題ではラスク国務長官とマーチン国務次官補が1947年に締結したリオ条約(米州相互援助条約)に基づき米州機構(OAS)の承認を得ることを提案し、また18日夜にミーカー国務省法律副顧問から「海上封鎖」を「隔離」と言い換える提案が出された。

ここまで強硬に空爆を主張してきた軍も、最初は封鎖してフルシチョフの出方によっては空爆か軍事侵攻も視野に入れることにその主張を後退させた。そして封鎖の場合に撤去させるのは攻撃用ミサイルだけとすることで、この日にはケネディは海上封鎖の選択に傾いた。

グロムイコ外相訪問

グロムイコ外相(座って左から3番目)らと会談するケネディ大統領(1962年10月18日)

こうしたホワイトハウス内の極秘の動きの中で、この日午後5時にソ連外相アンドレイ・グロムイコがホワイトハウスを訪ねてきた。これはそれ以前から予定されていたもので、国連総会への出席のための訪米に伴う儀礼的な訪問であった。ケネディはこの場では攻撃用核ミサイルを発見したことを一切語らずに、またグロムイコ外相はソ連の対キューバ援助は「キューバの国防能力に寄与する目的を追求したもの」として「防衛兵器の扱いについてソ連専門家がキューバ人を訓練しているのは決して攻撃的ではない」ことで「もしそうでなかったらソ連政府は決してこうした援助を与えないであろう」と述べて、「キューバに配備されたミサイルは防御用の通常兵器である」と9月に述べたことを繰り返し述べた。このホワイトハウスの大統領執務室での会談は、その後冷戦史上に残る最も奇妙で緊張した会談であり、茶番劇でもあった。グロムイコ外相は会談後にモスクワにワシントンの状況は満足のいくものであった、と報告している。ケネディが何かをつかんでいるとは微塵も感じなかったのである[30]。そしてケネディは4日後の声明で、この日のグロムイコ外相とのやりとりを明らかにして、「偽りであった」と非難した[注 20]

グロムイコ外相との会談終了後、ケネディは同じホワイトハウスの閣議室に戻った。そしてこの日の夜に急速に海上封鎖が有力な案になった。また国務・国防・司法の各省はその法律専門家に封鎖宣言の根拠について検討作業を始めさせた。

10月19日(金)

この頃は中間選挙が11月初めに予定されており、その応援演説のため遊説があり、ケネディ大統領はこの日クリーヴランド、イリノイ州スプリングフィールド、そしてシカゴに行く予定であった。それらをキャンセルすると政府内での動きが感づかれる恐れがあったので、いつも通り行っていた。ジョンソン副大統領も同じでジョンソンは結局選挙遊説で会議に出ていないことが多かった。そしてケネディは軍部と朝に会議を行った。

統合参謀本部の強行案

朝、この統合参謀本部のメンバーとの協議の席で、テイラー議長はキューバへの軍事行動はベルリンを危険にし西欧諸国から批判を浴び、アメリカを孤立させかねないとする大統領の立場を認めながら、早急な軍事行動が必要とする意見を曲げなかった。そして参謀総長らが空爆や侵攻を強く主張し、空軍参謀総長のカーチス・ルメイは封鎖は弱腰と判断されるとしてケネディを苛立たせた。この直後、ケネディは「お偉いさん達の意見をその通りにして間違っていたら、間違っていたと言おうにも誰も生きていないことになる」と補佐官のケネス・オドンネルに吐き捨てるように言い残した[31][注 21]

封鎖と空爆

この日午前の会議(大統領は中間選挙遊説で欠席)では2つのグループに分かれて海上封鎖と空爆について最も有力なシナリオを提示することにした。海上封鎖チームにはボール国務次官、アレックス・ジョンソン国務次官補、マクナマラ、ラスク、トンプソン顧問。空爆チームはロバート・ケネディ、アチソン元国務長官、ディロン財務長官、バンディ補佐官であった。午後の会議では全体会議を行い、アチソン元国務長官、ディロン財務長官、マコーンCIA長官、バンディ補佐官が空爆に賛成、ラヴェット元国防長官は封鎖に賛成した。ここでマクナマラの空爆を認めながら海上封鎖を優先させるべきとの意見とロバートの「会議で空爆と結論を出しても大統領は受け入れないだろう」との意見が通り、海上封鎖を実行し事態が進まない場合は空爆実施という折衷案がまとまった[32]

10月20日(土)

そしてロバートからの要請を受けてケネディ大統領は「軽い風邪のため」として選挙遊説を早めに切り上げてヘリコプターでワシントンに戻った。

海上封鎖決定

20日午後2時30分からの正式な会議(国家安全保障会議第505回会議)[注 22] で、ケネディはまずマコーンから新しい航空写真とその他の情報を提出させて、その後で、(1)まず封鎖から始めて必要に応じて行動を強めていくか、(2)まず空爆から始めて最後は侵攻を覚悟するか、という2つの選択肢を基幹としてそれから派生する分枝の問題が提示された。その後にケネディはまず封鎖から着手すべきとして、空爆と侵攻を主張するメンバーにそういう作戦がその後に絶対に採られないことではないと解してよろしいと言葉を続けた。ソレンセンによると、決める前に限定的な空爆がまず出来ないことを重ねて確かめるつもりであったが、結局自分で結論を出した。大統領が下さなければならない決断であり、それが出来るのも大統領だけだからであると著書で書いている。

ケネディはこのとき海上封鎖の実施を決断した。ケネディがその次に打つ手を自由に選べることと、フルシチョフにも選択の余地を残す利点があることで封鎖での力の誇示がソ連に考え直す機会を与えることになることが決め手であった。何よりも悪いのは何もしないことであると述べている。しかしもしミサイル基地の撤去に同意しなかった場合については意見が分かれた。多くのメンバーは空爆を支持したがマクナマラとスティーブンソン国連大使は反対し、スティーブンソンはグアンタナモ米軍基地の撤収まで言及して軍事的衝突は避けるべきであると主張した[33]。この封鎖以外での外交交渉でのカードとしてトルコのミサイル撤去があったが、この時にはケネディは他の欧州諸国にとって関心の無いカリブ海の小国の問題で自国の利益のために欧州の安全を犠牲にするのではないか、という疑惑を裏書きすることで同盟を破壊しかねない譲歩をすべきではないと考えていた。この問題は最後の局面で重要な課題となった[注 23]

この後に、ケネディは21日(日曜日)にテレビ・ラジオを通じて国民に演説する意向を示したが、国務省から事前に他の同盟国や中南米諸国に説明する必要があり、日曜日ではなく月曜日にそれらを全て行うため、結局22日(月曜日)午後7時に演説することで同意した。ここで国務省からあった封鎖(Blockade)という言葉が好戦的で戦争行為と解釈されるので以後は隔離(Quarantine)を言葉として使用することも決まった[注 24]

会議が終わってから外交ルートで米州機構への申し入れ、国連への安保理開催の申し入れ、各国首脳と西ベルリン市長あての手紙、フルシチョフへの簡単な通告文書の作成にかかった。

10月21日(日)

問題解決の困難さ

21日に、ケネディは空軍のスイーニー司令官と会談した。スイーニーは率直に、一度の攻撃でキューバの全てのミサイルを破壊できる保証はないと伝えた。攻撃しても、結局残ったミサイルで反撃される可能性があったのである。ミサイルの問題は封鎖でも空爆でも、解決できないことをケネディは理解したのである[34]。そしてシュレジンジャー補佐官に「最終的には取引しなければ駄目だろうな」と述べている。この日にマクミラン英国首相に親書を送った。その内容は、

フルシチョフの意図がベルリン問題について自分の選択肢を増やすことにあるのは間違いありません。ゆえにカリブ海と同様にベルリンについても十分な役割を果たす用意をすべきです。…もしフルシチョフが、弱さや不決断を当てにして行動しているのなら、それは彼の誤算であると知るべきだということです[35]

より詳細な内容は、翌日駐英大使より報告があったが、この他に翌日のテレビ演説の直後にも、マクミランと電話で会談をしている。マクミランは、ヨーロッパがもう何年もソ連の核ミサイルの射程圏内に入ったままだと述べて過剰反応を戒め、カストロを忌避するアメリカに懸念を示した。ケネディはマクミランに今回の秘密の動きはベルリンに関係していると述べている。

ケネディの考えの中には、今回のキューバへのミサイル配置はベルリン問題への駆け引きがあると睨んでいた。フルシチョフのキューバ戦略とベルリン戦略は連結していると考えているケネディは、フルシチョフがキューバで揺さぶることで西ベルリンを一挙に解決する(要するにソ連にとっては獲得する)ことを目指したものであると結論を出していた。統合参謀本部のメンバーに「キューバに爆撃を加えたら、それは彼らにベルリンを奪取する口実を与えることになる」「我々がキューバへの状況に耐えるガッツを持たなかったことで、ベルリンを失ったと後で西ドイツ国民から見なされるだろう」「西欧の人からすればベルリンや自国の安全には気にかけるが、キューバなど遠く離れていて気にかけていない」と述べた[36]

10月22日(月)

モスクワの事前の動き

一方ソ連では、モスクワ時間の22日朝から動きがにわかに慌ただしくなった。ケネディが夜遅くにテレビ演説を行うという情報が入って、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)がアメリカ軍の行動がきわめて異常だと報告し始め、国家保安委員会(KGB)はワシントンで何か重大なことが起きようとしているとの気配を察知していた。フルシチョフは共産党中央委員会幹部会を緊急招集した。

フルシチョフはキューバのミサイルが発見されたことをケネディが公表するのだと確信し、マリノフスキー国防相はアメリカがすぐに行動に出ることはないとした。しかし幹部会のメンバーは海上封鎖を宣言して何もしてこないと予測する方よりも、遅くとも数日以内にカリブ海で戦争が起こる可能性が高いとみる方が多かった。この時点でフルシチョフは「最終的には大戦争になるかも知れない」と思った[37]。そしてキューバ駐留ソビエト軍総司令官ブリーエフに出す指示の内容についての議論が始まった。全面的な警戒態勢を取り、如何なる場合も核兵器は政府の明示的な許可がないと使用してはならない旨を伝達することが決まった。しかし包囲された中での防御戦では戦術核兵器を使用しなければ防御は絶望的だとの思いが強まり、もしモスクワからの通信が遮断された場合はブリーエフ司令官に許可することもいったんは決定したが、この部分は事態の進展を待ってということで留保された。マリノフスキーは情報が傍受されて核兵器使用の権限を現地司令官に移譲するなどとアメリカが知ったら、逆に先制攻撃の口実を与えることになることを憂慮したのであった[38]

ワシントンの動き

アメリカではこの日22日の午前から重要な同盟各国への通知が行われた。トルーマン政権での国務長官だったディーン・アチソンをフランスのシャルル・ド・ゴールのもとに派遣するとともにイギリスのハロルド・マクミラン、西ドイツのコンラート・アデナウアー、カナダのディーフェンベーカーの各首相のもとにも特使を派遣し、NATO主要国である彼らの支持を得た。

この他に西ベルリン市長ブラント、イタリア首相アミントレ・ファンファーニインド首相ジャワハルラール・ネルーにも親書を送り、また、OAS諸国には現地のアメリカ大使から政府に事態を知らせた。元大統領のフーヴァー、トルーマン、アイゼンハワーに対してはホワイトハウスから電話でケネディ自身が状況説明を行い、さらに午後5時から議会指導者に対しても自身で状況説明を行った。この議会指導者との会談では多くの議員から反対の声が聞かれ、J・ウィリアム・フルブライト、リチャード・ラッセル・ジュニアの両上院議員は海上封鎖に反対し、キューバ爆撃を主張した。ソ連のドブルイニン大使が国務省に招かれたのが午後6時でほぼ同じ時刻でモスクワでコーラー駐ソ大使がクレムリンに向かった。

テレビ演説

そしてケネディ大統領は10月22日午後7時(東部標準時)からテレビ・ラジオを通じてアメリカ国民にキューバにおける新しい事態の説明を始めた。

かねてから国民の皆さんに約束した通り、政府はキューバ島におけるソ連の軍事力増強を厳重に監視してきました。過去1週間以内に明白な証拠によって一連の攻撃用ミサイル基地が現在キューバ島に準備されている事実が確認されました。これらの基地の目的は西半球に対する核攻撃力を提供することにほかなりません。……これらは1947年のリオ条約、……国連憲章及びソ連への警告を重大かつ故意に無視した全米州国家の平和と安全に対する明白な脅威である。こうした措置は、ソ連が……キューバへの軍備増強の防衛的性格の維持、他国へのミサイルを配置する必要も願望も持っていないとするとの再三の保証に反するものである。……アメリカは……意図的な欺瞞や攻撃的な脅迫にも容赦するわけにはいきません[39]

この演説で、キューバにソ連の攻撃用ミサイルが持ち込まれた事実と米国によるキューバ海上封鎖措置を発表し、ソ連およびキューバ国民に対して攻撃用ミサイルは何の利益にもならないと強調して、この中で以下の7項目の措置を速やかに行うことを明らかにした。

  1. キューバ向け船舶の「海上隔離措置」
  2. キューバへの空中監視
  3. 他国へのキューバからのミサイル発射は米国への攻撃とみなすこと
  4. キューバ島内にあるグアンタナモ基地の増強および全部隊に警戒態勢を指示
  5. 米州機構(OAS)全体会議の招集
  6. 国連安全保障理事会の緊急招集
  7. フルシチョフに「世界を壊滅の地獄から引き戻すための歴史的努力」に参加すること[40]

そして最後にこの言葉で結んだ。

これが我々が着手した困難かつ危険な努力であることは、何人も疑ってはならない……今後どのような経過をたどるか、どれだけ人的損害を招くか正確に予見しうる者はいない。……我々の意志と忍耐が試練にかけられ……我々の直面している危機を常に我々に感知させるだろう……一番大きな危険は何もしないことです。……我々が選んだ道は危険に満ちています。……しかしそれは……我々が世界に負っている責任にもっともふさわしい道です……自由の代価は常に高い、だがアメリカは常に支払ってきた。……自由を犠牲にしての平和ではなく世界における平和と自由である。神が許したもうならばこの目標は達成されるであろう。……[41]

この演説は、合衆国海外情報局 (USIA) を通してスペイン語に訳され、中南米諸国に放送された。

ソ連の対応

ソ連ではケネディの演説の後に、フルシチョフはしばらく猶予が与えられたと考え、ミサイル基地の建設を続けることを決定した。幹部会ではワルシャワ条約機構の兵力に対して低いレベルでの警戒態勢に入るよう命じた。またソ連を出発してまだ日が浅い船舶については引き返すように指示し、キューバに近い船については予定している港でなく一番近い港に全速力で向かうように命じた。この他、国内のR-7やキューバのR-12英語版を発射準備に入れ、またハバナ市内をはじめキューバ国内の主要地点に対空砲を構えてアメリカ軍の攻撃に備えた。そしてキューバの工業大臣を務めていたチェ・ゲバラは、サンクリストバルのミサイル基地の近くの洞窟に緊急の指令室を作り、そこで現場の指揮を執った。

アメリカ軍の動き

アメリカ国内の軍隊をアメリカ南東部に移動させ、空軍戦略航空軍団警戒レベルを引き上げ、180隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた[注 25]

アメリカ軍全部隊の警戒態勢は、22日の大統領演説中にDEFCON(Defence Condition;デフコン)3となった。これは最高度の警戒レベルであるDEFCON1と平時のDEFCON5の中間にある警戒レベルである。迎撃機が各地に配置され、すでに空軍戦略航空軍団(SAC)は警戒レベルを上げていた。そして戦略爆撃機のうち8分の1は常時上空に待機する(飛行中)体制となった。万が一ソ連が奇襲しても爆撃機が確実に生き残れるようにするためであった[42]

ペンコフスキー逮捕

なおこの日に、アメリカの諜報員にキューバにおけるミサイル発射サイトの計画案をはじめとする核ミサイルの配備状況を伝え、アメリカの偵察機による核ミサイルの発見に多大な貢献をしていたソ連軍参謀本部情報総局の大佐で、ソ連軍参謀本部情報総局長官であったイワン・セーロフや陸軍の兵科総元帥のセルゲイ・ヴァレンツォフと友人だった[43] オレグ・ペンコフスキーがモスクワ市内で逮捕された。

ペンコフスキーの逮捕によって、キューバ国内の核ミサイルの配備状況のみならず、ニキータ・フルシチョフが当初から妥協を模索していたなどのクレムリン内の動向がアメリカ側に伝わらなくなってしまったものの[44]、これまでにアメリカに伝わっていた情報は、アメリカとソ連の間の交渉において大いに役立った。ソ連軍参謀本部情報総局大佐で後に亡命したヴィクトル・スヴォーロフは、「歴史家はGRU大佐オレグ・ペンコフスキーの名前を感謝の念とともに心に留めることになるだろう。彼の計り知れない価値のある情報によってキューバ危機は最後の世界大戦に発展しなかったのだ」と述べている[45]


注釈

  1. ^ 核ミサイル基地の建設を発見したアメリカであったが、この時点では基地建設であって、核ミサイルはまだ持ち込まれていないと考えていた。したがって要求は核ミサイルの撤去ではなく、ミサイル基地の撤去であった。
  2. ^ 10月16日から10月28日の13日間をキューバ危機とする解釈で製作された映画が「13 Days」である。
  3. ^ 当初のカストロ政府軍の人数の読みが甘く、予想以上の反撃であった。これはこの計画の致命的な誤りであった。
  4. ^ 正確な死傷者数について通説はない。「キューバ危機」203P参照
  5. ^ 作戦の失敗の原因は複数あり、計画そのものがずさんで、政府軍の反撃も当初の見積もりが過少すぎる評価であったと言われる。アメリカは1年半後この捕虜となった亡命キューバ人の身柄引き換えの300万ドルと医療器具など5000万ドル相当の物資をキューバ政府に提供した。ギャレス・ジェンキンズ著『ジョン・F・ケネディ フォトバイオグラフィ』184P
  6. ^ キューバ製葉巻H.アップマン」を愛好していたケネディは、この発表の直前にピエール・サリンジャー報道官に対して至急大量に輸入するように命じ、1,200本を確保したことを確認した後に経済制裁の実施を発表したと伝えられている。「The Rake」Issue 8 P.104 2016年3月
  7. ^ CIA所属。1950年代にフィリピンと南ベトナムで共産軍と戦い、特殊作戦の天才として知られていた。
  8. ^ フルシチョフとカストロは作戦をキューバへの本格的な軍事介入の前触れとみていた。しかしソ連とキューバの情報機関は困惑させることが主眼で情報収集を目的とした中途半端な企てとみていた。そしてアメリカではケネディ大統領はこのマングース作戦を大してよいものとは考えていなかったといわれる。実際のところ政府内のタカ派に対してカストロ排除の行動を進めていると映していく程度の結果を余り期待しない程度の作戦であったとも言える。後にマクジョージ・バンディ補佐官がマングース作戦とは「無為を慰める心の薬だった」と語っている。しかし本気で作戦決行を進めるべきと考える人も政権内にいた。ロバート・ケネディもその1人である。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 51P 《マングース作戦はどれくらい本気だったか?》
  9. ^ 10月20日に作戦は完了する予定であったという説があり、プエルトリコでカストロ暗殺を謀ったという説もあるが、それに向けて軍事行動を準備したという形跡はない。
  10. ^ アナディルとはシベリアにあるベーリング海に流れる川の名称である。この作戦名にしたのは、万一西側の情報機関に漏れてもカリブ海ではなく北極海での行動作戦であると推測させるために名付けた。また派遣される兵士たちに指揮官は冬用の装備一式を携行するように命じた。行先が暖かい南方ではなく寒い北方であるようにスパイにカムフラージュしたのである。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 72P
  11. ^ 後にこの全く公表しないフルシチョフの決定を間違いであった、とする意見は多い。もし1962年8月の時点で両国は軍事協力協定を結んだと公式に声明を出し正々堂々とミサイルが展開されていたら、それに反対するのは難しかったであろうと、何年か後にケネディ政権の高官は率直に認めている。その意味ではソ連とキューバが核ミサイルの配備で合意していたことは国際法上完全に合法であった。全く秘密裡に進めたことがアメリカに正当な防衛の範囲内という認識を世界が持ったことになる。ただしそれでは堂々と展開していれば成功したかは疑問である。ラテンアメリカ諸国の激しい反発とアメリカ国内での反カストロ勢力や議会の殆どを占める反キューバ派はケネディを突き上げ、カストロ追放の動きに出たかも知れない。フルシチョフはケネディにこの圧力に対して弱いと見て、公表することの利益とリスクを考えリスクが大きいと計算したのかも知れない。しかしその計算が正しかったかどうかは知る由もない。「キューバ危機」~もしミサイル配備を秘密にしていなかったら~ 82P
  12. ^ この時期のカリブ海は荒れ模様でハリケーンの季節であり、偵察機を飛ばして荒天の中で飛行して進路を誤って墜落したり、国内深くに入ってしまって撃墜される危険性が高くなることがあり、そのための偵察制限であって、偵察をもっと早くしとけば発見はもっと早かったとか、政治問題化されることを恐れてということではない。「キューバ危機」87P
  13. ^ 共和党リベラル派の上院議員。この2年後の1964年秋にケネディ暗殺事件後に司法長官を辞職したロバート・ケネディが上院議員選挙に立候補して、その対抗馬がこのケネス・キーティングであった。敗北したキーティングは政界を引退した。
  14. ^ 共和党保守派の重鎮。この当時すでに1964年大統領選挙のケネディの対抗馬と目されていた。南部諸州がゴールドウォーターに取られると予想したケネディは翌年11月に最初の遊説で重点州としてテキサス州を訪ね、そこでダラスの凶弾に倒れた。ゴールドウオーターは結局1964年大統領選挙で共和党候補となったが、リンドン・ジョンソンに敗退する。
  15. ^ ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ著「キューバ危機」によれば、前日夜遅くにマクジョージ・バンディに届けられていたが、彼は大統領を起こさず翌朝に報告することにした。
  16. ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
  17. ^ ここで出された6つの選択肢は実際には一から練り上げたものでなく、ここまでの数か月間で普通の会話で交わされていた内容のものであった。空爆と海上封鎖もすでに上院議員が口にし、軍当局も非常の事態に備えるようケネディからすでに指示されていた。
  18. ^ この1年後のダラスでのケネディ大統領暗殺事件の時に、大統領夫妻が乗った車のすぐ後ろの車に乗って、大統領が撃たれた瞬間にすぐに後方から大統領が乗っている車に飛び乗り、トランクの上に乗り出したジャクリーン夫人を後部座席に押しとどめたのがこのクリント・ヒルであった。
  19. ^ ジャクリーン夫人のこの言葉を聞いた時、クリント・ヒルは心の中で、決して許して貰えないと思うがそれでも彼女を抱き上げてシェルターに入らなければならない、彼女を守る責任がある以上、他の事はどうでもいい、と思ったという。クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」248P
  20. ^ この会談の主な議題はベルリン問題であった。前年ウィーン会談での激しいやりとりとベルリンの壁構築で緊張した米ソ間の最大の問題はベルリン問題であり、前年秋にフルシチョフが一旦は延期した東ドイツとの平和条約締結をまた持ち出してきた。次にキューバ問題ではアメリカの内政干渉や就航制限などを国際法違反として苦情をいい、ミサイルについてはモスクワからの「他意はない」との指令を受けていることもグロムイコは明らかにしている。しかし後にセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」で「グロムイコ外相はシラを切った」と書いている。
  21. ^ この時にシャープ海兵隊総司令官が他の参謀総長たちに向かって吐き捨てるように言った言葉がホワイトハウスの録音機に残っている。「キューバまで行ってミサイルを撤去するなどやってられるか。地対空ミサイル基地を探すなど出来っこない。ともかくあっちに行って邪魔者を蹴散らすのだ。」「キューバ危機」115P
  22. ^ 土田宏 著『ケネディー神話と実像』では午後2時30分からだが、ドン・マントンとデイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』ではこの日の午前に国家安全保障会議を行ったとしている。しかしソレンセンの『ケネディの道』では大統領のヘリコプターがホワイトハウスの南側芝生に着陸したのが午後1時半と述べているので、当日の午後であることは明確である。
  23. ^ 実はエクスコム会議のメンバーはこの時には知らなかったことだが、ケネディはこの前にトルコのミサイル撤去を指示していた。しかしトルコ政府が絶対反対で暗礁に乗り上げたままであった。しかもこのキューバ危機直前に議会の両院合同原子力委員会はトルコとイタリアのミサイル撤去を勧告してこの問題は再び浮上していた。ケネディは危機前の撤去指示を隠したまま、そして全体バランスを見ながらどのように落としどころをつけるかを見計らっていた。
  24. ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
  25. ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』206P
  26. ^ セオドア・ソレンセンの「ケネディの道」によると、ケネディは3分の2の賛成票の獲得にも懸念していたが結局全会一致であったことで、ラスクとマーチン国務次官補の労を心からねぎらったという。
  27. ^ 《またケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開した。》という言説があるが、写真の公開は25日の安保理以降のことである。
  28. ^ ウ・タントは飛行機の墜落で死亡したハマーショルド事務総長の代理として前年1961年11月3日に選出され、ハマーショルドの残りの任期を務めた後、キューバ危機の1ヵ月後の1962年11月30日に正式に第3代国連事務総長に就任した。
  29. ^ 海上封鎖後最初の首脳同士のやり取りになるケネディの返書は10月25日にフルシチョフに届いている。
  30. ^ この時の安保理で厳しくソ連大使を追及するスティーブンソン国連大使の姿は後に「アドレー・スティーブンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれ、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』215P
  31. ^ この2日前のやり取りでCIAが証拠写真をねつ造したとゾーリン大使は批判していた。このことでのスティーブンソン大使の逆襲であり、2日前に懸命に否認したことが裏目に出た結果であった。「キューバ危機」134P この国連安保理での模様はテレビ映像で世界に流されて、映像記録として残っている。
  32. ^ 面白いことに、公海上での摩擦を避けるためにソ連船ではなく、あえて他の中立国のソ連チャーター船を選んで停船させていたことになる。見方を変えれば、問題のなさそうな船を止めて臨検し、問題のある船は自主的に戻るようにさせたとも言える。ソ連の立場からいくと、中身を他国に見られることは屈辱であり、選択肢はUターンしか無かったことになる。
  33. ^ テッド・ソレンセン著『ケネディの道』では、ここでフルシチョフの書簡の写しをスカーリに手交したと述べている。ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』では、書簡ではなく言葉での打診を行ったとしている。
  34. ^ ラスク国務長官のことで、ラスクはこの話に乗った。もし本物であれば、突破口になると考えたのであった。「政府内の最も信頼できる筋です」とスカーリはファーミン(フェクリソフ)に伝えた。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』294-296P
  35. ^ これまでデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけである。2001年アメリカ同時多発テロ事件当時でもデフコン2は発令されなかった
  36. ^ ウォルター・リップマンは当時ワシントンポストの有名なコラムニストで、そのコラムは当時の日本の新聞でも紹介されるほどであった。そしてフルシチョフとはこの前年1961年4月11日に黒海沿岸のソチの近くの別荘をリップマンが訪れて8時間共に過ごしながら語り合った仲であった。またケネディに近い存在としてフルシチョフは見ていた。ただしこの時の二人の話題は殆どがベルリン問題であった。この時のフルシチョフ会見記事で後にピューリッツァー賞をリップマンは受賞している。 フレデリック・ケンペ著『ベルリン危機1961』上巻 226-229P
  37. ^ これを読んだ政権スタッフの中では、実は27日分が先に書かれ、26日分がその後に書かれていたのではないか、と推測する向きもあった。また26日分はあくまでフルシチョフの個人的な書簡であり、27日分はソ連政府が作成したのではないかという見方もあった。
  38. ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
  39. ^ 潜水艦小艦隊の指令でもあり、他の艦の副艦長と異なり核魚雷発射の承認権を持っていた。また前年にK-19の副艦長として同艦の原子炉事故に遭遇している。
  40. ^ ドブルイニンとの協議はあくまで秘密裡であった。およそ当時の緊迫した状況では公式の会談は不可能であり、しかも内容がトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。ただし場所はこの時は司法省となっている。『キューバ危機』155P
  41. ^ その後の東西のデタント(緊張緩和)で、二国間のやり取りは、およそ大使か特別代表が直接指導者に伝えることが普通にはなったが、この東西冷戦の時代にはそのようなチャンネルは存在しなかった。このフルシチョフのミサイル撤去の発表が自国のラジオ放送でアメリカに伝わるということは今日では考えられないことであった。
  42. ^ なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの、敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフは、このことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが、国際政治の現実であったと考えられている。
  43. ^ ソレンセンの著書でABCのスカリー記者がロバート・ケネディとドブルイニン大使との仲介をしたという言説は、正確ではなく、また場所も市内の公園ではなく、司法省の執務室で行われたという資料が多い。ソレンセンの著書にも後述のスカリー記者とKGBファーミンとの接触に関する記述があり、いずれも内容には触れていない。
  44. ^ その後1973年に国連大使となり1975年まで務めた。
  45. ^ この翌日の27日の夜にファーミン(フェクリソフ)とスカーリは再び会っている。フルシチョフからのトルコのミサイル撤去を要求した書簡が届いてからで、スカーリはこの時「卑劣な裏切り行為だ」として激怒していた。
  46. ^ この本の中でケネディの好きな一節は、二人のドイツの政治家が戦争を振り返り「なぜこんなことになったのですか」という問いに「ああ、それが分かっていればな」と答える場面である。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』396P
  47. ^ カトリック教徒であるアメリカ合衆国の大統領は、ケネディのほかには2021年に就任したジョー・バイデンの2人で、非常に少ない。

出典

  1. ^ a b 井高浩昭 著「チェ・ゲバラ」 99P
  2. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 317-318P
  3. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 316-317P
  4. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 49P
  5. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 52P
  6. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 57P
  7. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 59P
  8. ^ a b 「FOREIGN AFFAIRS MAY/JUNE 2023」44p
  9. ^ 「キューバ危機」78-79P
  10. ^ 「キューバ危機」80P
  11. ^ 「キューバ危機」83P
  12. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」118P参照
  13. ^ 「キューバ危機」86P
  14. ^ 「キューバ危機」93P
  15. ^ 「キューバ危機」90-92P
  16. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.357
  17. ^ 「キューバ危機」97-98P
  18. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.360
  19. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏 173P
  20. ^ 「キューバ危機」105-107P
  21. ^ a b c 『ケネディー神話と実像』 土田宏 174P
  22. ^ 「キューバ危機」106P
  23. ^  土田宏 174P
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  25. ^ クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」246P
  26. ^ クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」247-248P
  27. ^ 『ケネディー神話と実像』土田宏 174-175P
  28. ^ 「キューバ危機」111-112P
  29. ^ 「キューバ危機」111P
  30. ^ 「キューバ危機」113-114P
  31. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、pp176
  32. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、pp177
  33. ^ 「キューバ危機」116-117P
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  35. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」下巻 273P
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  39. ^ 『ケネディ大統領演説集』 黒田和雄訳 79-83P
  40. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、180P  『キューバ危機』 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 127-129P
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  84. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」120-121P参照
  85. ^ 『挑発が招く惨事 回避を 第1次大戦の教訓(上)』ローレンス・フリードマン 日本経済新聞2014年7月17日朝刊24面「経済教室」
  86. ^ 冷戦以来初の「世界最終核戦争」の危機に 米大統領”. www.afpbb.com. 2022年10月26日閲覧。
  87. ^ 1978(昭和53)年度 プロジェクト方式の定着と現場の活力/あの時・世界は… - NHKアーカイブス(番組エピソード)






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