キューバ危機 海上封鎖

キューバ危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/28 01:49 UTC 版)

海上封鎖

10月23日(火)

大統領執務室で海上封鎖宣言に署名するケネディ(1962年10月23日)

10月23日にアメリカの要請を受けて午前に会議を開いた米州機構(OAS)は、キューバのミサイルを取り除くあらゆる措置を認める決議を20対0(棄権3)で採択した[注 26]。これで今回の海上封鎖《隔離》という措置の適法性が強められて集団的自衛行動となった。

封鎖宣言

この日エクスコムの会議は午前10時と午後6時に開かれて「キューバへの攻撃用兵器引き渡し差し止め」宣言の内容を討議し、ケネディは戦時国際法を適用解釈して、キューバ海域近辺の公海上に設定された海上封鎖線に向けて航行するソ連の貨物船に対して、アメリカ海軍艦艇が臨検を行うことの命令書に署名した。臨検に従わない貨物船に対しては警告の上で砲撃を行うこと、さらにこれらの貨物船を護衛する潜水艦による攻撃や、アメリカ海軍艦艇や航空機に対する銃撃などの敵対行為を取ってきた場合は即座に撃沈することを併せて指示した。この時に他の議題としてキューバ上空を地対空ミサイル(SAM)の射程圏内となる低空偵察飛行を許可し、もし万一ソ連に撃墜されたらそのミサイル基地を爆撃することも決定した。これは4日後に大きな波乱を呼ぶこととなった。

国連

国連では安保理特別会合が午後に開かれて、スティーブンソン国連大使はソ連のミサイル配備を非難し、ソ連のゾーリン国連大使はキューバにミサイルがあることを認めずそれ以上の質問の回答は一切拒否した。この時はアメリカ側は証拠となる空中写真をまだ公開していない[46][注 27]。この時にゾーリン国連大使もドブルイニン駐米大使も本国から何も知らされていなかった。国連事務総長代行ウ・タント[注 28] は米ソ両国に書簡を送り、自制を求めた。

フルシチョフの書簡

一方ソ連ではフルシチョフが2通の書簡を送付した。1つはケネディ大統領宛てで「平和への重大な脅威であり、海上封鎖は国際法の重大な違反行為でアメリカは壊滅的結果を招く可能性がある」として激しく非難した。ケネディ宛ての書簡はこれ以降キューバ危機の間に10通以上が届いた。この時代、現在のように米ソ間にホットラインはなく首脳同士が直接対話することは出来なかった。このキューバ危機をきっかけに米ソ間でホットラインが設置されて、初めて両国の首脳による電話での会談がいつでも行えるようになった。

このフルシチョフからのケネディ宛ての書簡に対して、ケネディは返書を送り秘密裡にキューバに攻撃用ミサイルを与えたことで海上「隔離」を行ったことを確認して「理性を持って状況を管理不能な状態にしてはならない」と要望した[47][注 29]。この後に大統領はロバートに秘密裡にドブルイニン大使と会ってソ連の行動は間違っていることを伝えさせた。この時ドブルイニンは「隔離は受け入れられない。封鎖は突破する」とロバートに答えたという[48]

もう1つのフルシチョフ書簡はカストロ宛てで「ソ連は引き下がることはない」と確約した。キューバは最高レベルの警戒態勢に入り、東部にラウル・カストロを、西部にチェ・ゲバラを派遣して防衛準備を仕切らせた。そして3日間で30万人以上のキューバ人が武装し最悪の事態に備えた[49]

著名な哲学者であったバートランド・ラッセルはケネディに「貴下の行為は無謀で正当化の余地がない」と電報を送り、フルシチョフには「貴下の忍耐こそ我々の希望である」と打電している。

10月24日(水)

海上封鎖に参加した空母エンタープライズ

10月24日午前にモスクワでは党中央委員会幹部会の承認を受けてフルシチョフはケネディに書簡を寄せ、「世界核戦争のどん底に突き落とす攻撃的行動」で「海賊行為」であり「封鎖を無視する」とした[50]。この日の夜に再びフルシチョフから書簡が届き、封鎖には従わない、必要なあらゆる手段を取ると記してあった[51]

封鎖開始

この日午前10時に海上封鎖が開始され、アメリカは陸海軍および海兵隊、沿岸警備隊などを総動員した体制を取り、航空機、艦船、潜水艦などで海上封鎖線近辺の警備を強化したほか、ソ連の貨物船が海上封鎖を突破しアメリカ軍がこれを撃沈した場合、即座に全面戦争となる可能性もあったことから、日本西ドイツトルコをはじめとする海外の基地においても総動員体制をかけ、アメリカ軍人のみならず西ドイツ軍なども休暇の兵士を呼び戻した。

この日の朝エクスコムの会議では航空偵察写真の分析結果からR-12、R-14英語版両方のミサイル基地建設が進んでいることが分かった。封鎖線にソビエトの船舶が近づいており、会議の雰囲気は緊迫したものだった[52]。しかしフルシチョフは実際には慎重であった。これらの船舶は本国からの指示によりアメリカ海軍により通達された海上封鎖線を突破することはせず、海上封鎖線手前でUターンして引き返した。ソ連の貨物船は、もし公海上での臨検を受け入れた場合はアメリカの「恫喝」に屈服する形になるだけでなく、アメリカ側に様々な軍事機密が流れてしまう恐れがあることから臨検を受けることをよしとせず、また海上封鎖を突破し攻撃を受けた場合は即座に報復合戦となり、さらに全面核戦争になる可能性が高いことから、回避行動に出たのである。

アメリカ軍が実際に初めての臨検を行ったのは26日(金曜日)の午前である。

ウ・タントの仲介提案

この日、ウ・タント国連事務総長代行は米ソ両国に、数週間は両国とも対決姿勢を緩める措置をとり、ソ連はキューバへの兵器輸送を一時停止すること、アメリカはキューバへの海上封鎖(隔離)を一時停止することとし、そのうえでミサイル基地建設も停止されればその貢献は大きいとして仲介することを提案した。これに対してフルシチョフは前向きに受け入れたがミサイル基地建設停止は同意しなかった。ケネディはミサイル基地建設を中止するのであれば隔離を停止すると表明した。この国連の仲介の下での予備的交渉には両国も同意した[53]。この停止措置の提案は3日後の劇的展開で実質的なものにはならなかったが、フルシチョフにとっては出口での口実を得たことになった。つまり、アメリカの違法な要求ではなく、国連の要請に応じてということで体面を保つ口実であった。

10月25日(木)

フルシチョフの模索

フルシチョフは、事態が深刻化する中で自らの姿勢を見直すようになっていた。ミサイルや他の兵器をキューバに送ってもカストロ体制の防衛強化にならず、逆に今やアメリカから侵攻される危険が大きくなった。ここでアメリカが今後キューバへの侵攻を行わない確約をする代わりにミサイル基地を撤去することを申し出ることを党中央委員会幹部会に提案した。これであれば当初のアナディル作戦の目標は無となるが、少なくともキューバの安全を確保できて、まずまずの成果であると言えるとして、賛成が多く了承されたが、この取引に応じる用意があるとの合図を送るのはしばらく控えることにした[54]

国連安保理での米ソ対決

10月25日の安保理で、キューバのミサイル基地を撮影した写真を解説するスティーブンソン国連大使(円卓の写真右から2番目)
ソ連の貨物船の上空を飛行するアメリカ軍のロッキードP-2 ネプチューン(10月25日)

10月25日の緊急国連安全保障理事会で、アドレー・スティーブンソン国連大使がそれまで極秘で公開していなかった航空写真を用いてソ連のゾーリン国連大使と対決し、劇的な効果を収めた[注 30]。スティーブンソンは、ソ連の代表団にミサイルをキューバに設置しているのか尋ね、ゾーリンが「そんなものは存在しない」と否定した後、それを反証する決定的な写真を見せて以下のやり取りとなった。

スティーブンソン「通訳は必要ないでしょう。イエスかノーでお答え下さい( Don't wait for the translation, answer 'yes' or 'no'! )」

ゾーリン「私はアメリカの法廷に立たされているのではない」

スティーブンソン「あなたは今、世界世論の法廷に立たされているのです」

ゾーリン「そんな検事のような質問をされてもお答えすることはできない」

スティーブンソン「地獄が凍りつくまで回答をお待ちしますよ( I am prepared to wait for my answer until Hell freezes over. )」

この駆け引きで、ソ連がキューバにミサイルを配備していることを世界中に知らしめることに成功した[注 31]

10月26日(金)

封鎖線での乗船臨検

前日にソ連船のタンカー1隻を停船させたが、何もせず他のタンカーとともに通過させた。東ドイツの客船も何もなく通過させた。そしてこの日の未明にレバノン船籍でパナマ人の船主のソ連がチャーターした貨物船を停船させ、乗船して臨検に及んだ。ケネディは必要になるまでソ連船の航行を妨害させないつもりだったが、アメリカが本気であることを示すためにソ連にチャーターされた中立国の船舶に対して乗船臨検させた。この時は問題なしとして通過を許可した。この間に続々とソ連船がUターンしているとの情報が入ってきた[注 32]

ミサイル基地建設の動き

毎朝エクスコム会議の冒頭にCIAからの報告があるが、この日ミサイル基地建設がまだ進んでいるとする情報が入り、中距離ミサイル(MRBM)は週末には実戦に使えるようになる見通しになったとのマコーン長官からの説明に、海上封鎖が効果を発揮していないとしてミサイルをどうするかにエクスコムの議論が戻りつつあった[55]。その効果についての疑問の声が増え、25日から26日にかけてケネディと他のメンバーとでソ連への圧力を一歩強化する方策を熟慮検討していたが、軍は空爆か侵攻を主張し、ケネディは猪突猛進に反対していた。大統領は「キューバからミサイルを撤去させるには、侵攻するか、取り引きするしかない」と語っていた。この時、どちらを選択するか、腹の中は決まっていた[56]

26日正午に国務省報道官が定例の記者会見で今後の行動について不用意に「更なる行動」にコメントしたため憶測を呼んで、空爆か侵攻が迫っているとの情報が流れ、ケネディが激怒する一幕があった。この報道官は大統領執務室に呼ばれ大統領から叱責された。しかし24時間後にケネディはこの報道官の誤りが役に立つ効果を生み出したのかも知れない、と冗談交じりに語ることになった。

フルシチョフの書簡

10月26日の朝、フルシチョフに、アメリカからの情報として、米空軍戦略航空軍団に史上初めて警戒レベルDEFCON2の防衛準備態勢に入るように命じられたとの報告をKGBから受けた。この時にフルシチョフはもはや待つ余裕はなくなったと腹を決めて、ケネディ宛てに書簡を送ることとした。それはミサイル撤去についての提案であった。

「あなたから10月25日付けの書簡を受け取りました。あなたが事態の進展をある程度理解しており、責任感も備えていると感じました。私はこの点を評価しています。…世界の安全を本当に心配しておられるのであれば私のことを理解してくださるでしょう…私はこれまで2つの戦争に参加しました…至るところ死を広め尽くして初めて戦争は終わるものだということを知っています…ですから政治家としてふさわしい英知をみせようではありませんか…今戦争というロープの結び目を引っ張り合うべきではありません…強く引っ張り合えば結んだ本人さえ解けず…それが何を意味するか申し上げるまでもありません[57]

この書簡は送信に手間取りこの日の夜、ワシントンに届いた。この時まで実務的に米ソ間でミサイル撤去交渉というものがあったことはない。この時代のこの段階ではおよそ無理な話であって、最高指導者の間でのやり取りで決定せざるを得ないものであった。この意味で10月26日から28日までの間のケネディとフルシチョフとの息詰まるやり取りはこの2人の指導者が冷静に相手の真意を探り合うものであった。

10月26日に届いた書簡は、ミサイルをキューバに置いたのはキューバを侵攻から守るためで、もしアメリカがキューバを攻撃・侵攻しないと約束すれば、国連の監視下でミサイルを撤去するという旨の内容であった。この内容の書簡はウ・タント国連事務総長代行にもゾーリン国連大使から届けられている[55]

そしてもう一つ非公式なルートでソ連大使館員でKGB担当者でもあるアルクサンドル・ファーミン(フェクリソフ)がABCテレビの特派員であったジョン・スカーリに電話をかけて二人はレストランで会い[注 33]、昼食を取りながら、ソ連がミサイルを撤去する代わりに、封鎖を解除して、今後キューバへ侵攻しないとの取り決めを行うことにケネディ政権は関心があるだろうか、と尋ねてケネディ政権の意向を探ってほしいと依頼している。スカーリは国務省にすぐに伝え国務省はすぐにエクスコムに伝えた。そしてこの日の夜7時半ごろに二人は再び会い、スカーリは「政府内の最高首脳レベル」[注 34] から承認を受けてアメリカはその提案に関心があると伝えるように言われたとファーミン(フェクリソフ)に伝えた[58]

準戦時体制発令

ボーイングKC-135から空中給油を受けるロッキードU-2
発射準備が進められたジュピター

26日午後10時にDEFCON2[注 35] となり準戦時体制が敷かれた。ソ連との全面戦争に備えアメリカ国内のアトラスタイタンソージュピターといった核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射準備態勢に置き、ソ連と隣接するアラスカ州などのアメリカ国内の基地のみならず、日本トルコイギリスなどに駐留するアメリカ軍基地も臨戦態勢に置いた。

また、核爆弾を搭載したボーイングB-52戦略爆撃機ポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦がソ連国境近くまで進出し、B-52はボーイングKC-135による空中給油を受けながら24時間体制でアラスカ北極近辺のソ連空域近辺を複数機で飛行し続け、戦争勃発と攻撃開始に備えた。

このDEFCON2の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットへ、飲料水食料などを買いに殺到する事態が起きたほか、アメリカやイギリスでは「キューバへのアメリカの介入」を非難する一部左翼団体のデモが行われた。

10月27日(土)

暗黒の土曜日

キューバ近海を航行するソ連海軍の潜水艦を監視するアメリカ軍の航空機と艦艇
キューバ近海を航行する東ドイツの貨物船の上空を飛行するアメリカ軍の偵察機(10月17日)

10月27日は後に「暗黒の土曜日」と呼ばれることになった。10月27日に危機は極限にまで達した。ワシントンD.C.のソ連大使館で、大使館員が書類を焼却する姿が目撃され開戦に備えているとの憶測が飛んだ。そしてキューバの基地建設が進み、海上封鎖の封鎖線にソ連船舶6隻と東側の3隻の船舶が向かっているとの情報が入っていた。

フルシチョフの書簡

この日の朝、モスクワではフルシチョフはにわかに自信を深めつつあった。封鎖宣言から5日過ぎてもアメリカは攻めてこない、ミサイル撤去の条件にキューバを侵攻しない約束以上の譲歩もアメリカは考えているとの感触を得ていた[59]。当時アメリカで著名な評論家であったウォルター・リップマンが25日の新聞コラムで《キューバのミサイル》と《トルコのミサイル》とを「体面を保ちつつ」取り引きするのはどうかと論じていたのである。リップマンがケネディ政権の意思を代弁していたのかどうかは明らかではないが、フルシチョフはアメリカの柔軟な対応を示唆するものと感じ取った[注 36]。そして「トルコの米軍基地の清算まで達成できれば我々の勝ちだ」と語った[60]。早速昨日とは著しく内容を異にする書簡を準備し、前日送信に手間取って遅くになったことを考えてモスクワ放送で公表した。

そしてワシントン時間でこの日の午前中に新たなフルシチョフの書簡の内容がラジオを通じてエクスコム会議に入って来た。前日の内容に全く触れずにトルコにあるミサイルの撤去を交換条件として要求してきたのである。これを聞いたワシントンでは前日届いた書簡が柔軟な内容であったのに、朝にラジオで聞いた今回の書簡の内容が強硬であったので戸惑っていた[注 37]。これは東西対立の厳しい状況の中でヨーロッパでは東欧の共産圏があって、ソ連にとっては東欧が緩衝地帯で直接アメリカの核ミサイルが脅威ではなかった。しかしトルコはソ連と境界を接し、トルコ国内の核ミサイルが直接ソ連領内に向けられているので、この時代のソ連にとってトルコのアメリカ軍のミサイルは脅威であった。

前年のベルリン危機でも、アメリカはトルコがソ連の攻撃目標になることを常に念頭に入れなければならない状況であった。ただし1960年代に入ってトルコに配備しているミサイルはすでに旧型であり、アメリカでは原潜などに移動型ミサイルの配備が進み、さらに米ソ間のミサイルの保有数で圧倒的にアメリカが優位であり[注 38]、必ずしも核ミサイルの固定基地が絶対必要という時代ではもうなかったが、簡単に撤去を了解するとソ連の圧力に屈したことを印象づけ、他の同盟国との信頼が低下することをケネディは懸念していた。

米軍機の撃墜

そしてこの日の昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のU-2がソ連軍のS-75(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルで撃墜され、操縦していたルドルフ・アンダーソン少佐が死亡する事件が起こった。実は23日の会議で、もし偵察飛行中に米軍機が撃墜されるような事態が生じた場合は、SAM(地対空ミサイル)基地に1回だけ報復攻撃を加え、その後も相手が攻撃を加えて来た場合は全面的に叩き潰す方針を決定していた。従ってこれに対する行動はエクスコムのほぼ全員がSAM基地の破壊で一致した。

しかしケネディはこの決定を引き戻し、キューバに対する攻撃は、ベルリンやアメリカのジュピター・ミサイルが配置されているトルコに対するソ連の攻撃を誘発しかねないとしてきわめて慎重な姿勢を示し、すぐに反撃ではなく1日待つこととした。しかし参謀本部は一気に態度を硬化して即時空爆を主張、10月30日の時点で大規模空爆を仕掛け、即侵攻部隊を送るべきとの意見が強まった。事態の緊張がさらに進み、危機が制御不能な段階までエスカレートしてしまった時の重大な結末をケネディは恐れていた[61]

アラスカでの領空侵犯

さらに悪い事件が起こった。アラスカを飛行中であったU-2が飛行中のミスにより、ソ連領空に深く侵入する事態が生じた。ソ連空軍の戦闘機がスクランブル発進したが幸い発砲はなく、U-2はまもなく針路を取り戻して領空を出た。しかし、ケネディはアメリカが核先制攻撃のための目標を調べているのではないかとフルシチョフに受け取られることを懸念した。結局この事件は余波を招く事はなかったが、後にフルシチョフは戦闘態勢に入っている時に核爆撃機と誤認されかねない危険な事態であった、と述べている。

カリブ海での一触即発

ソ連海軍のB-59潜水艦とその上空を飛ぶアメリカ海軍のヘリコプター

またソ連海軍の4隻のディーゼル潜水艦[62] が1962年10月1日ムルマンスクを出港し、キューバのマリエル港へ向かっており、ちょうどキューバ危機の時に、アメリカ海軍が設定した海上封鎖線近くにいた。4隻とも核魚雷を搭載し、もし攻撃を受けたら発射するよう口頭命令を受けていた。

アメリカ海軍はキューバ海域に向かう潜水艦を発見し、これに対してキューバ海域を離れるように警告しても従わない場合、被害のない程度の爆雷を投下して警告することになっていた[63]

10月27日昼頃、冷戦終結後になって分かったことだが、アメリカ海軍は海上封鎖線上で警告を無視してキューバ海域に向かうソ連海軍のフォックストロット型潜水艦B-59に対し、その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した[64]。攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、B-59副艦長ヴァシーリイ・アルヒーポフ[注 39] の強い反対によって発射を止め、また浮上して交戦の意思がないことを表し、その後海上封鎖線から去ることにより核戦争は回避された。

ケネディの書簡作成

この日午後の会議で「トルコのミサイルで取り引きすれば、キューバのミサイルを片付けられるのに、苦労して血を流してもキューバ侵攻はうまくいかない。もし後世にそう記録されたら戦争をやってよかったとは言えない」とケネディは呟いていた[65]。しかし会議ではトルコのミサイル撤去に反対が多く、NATO(北大西洋条約機構)が分裂しかねないと懸念する意見もあった。

そこでこの日に届いた書簡(トルコのミサイル撤去)を敢えて無視し、昨日届いた書簡にのみ回答して、その書簡のフルシチョフ提案(キューバを今後攻撃しない)を受け入れる案が出された。そしてケネディは前日に届いた柔軟な内容のフルシチョフの書簡に対してのみ回答する方針を決め、ロバート・ケネディと大統領顧問テッド・ソレンセンにその回答の起草を命じた。そしてスティーブンソン国連大使が推敲して、同日午後8時に公表した。

この回答の中身は『3つの条件』

  1. キューバのミサイル基地建設の中止
  2. 攻撃型ミサイルの撤去
  3. 国際連合の査察団受け入れ

を提示して、この条件を了解すれば、アメリカは海上封鎖を解き、キューバを攻撃・侵攻しないと確約するものであった[66]

「私はあなたからの10月26日付けの書簡を大変注意深く読み、この問題への早急な解決を求める熱意が述べられていたことを歓迎します。……書簡で示された線に沿って、解決に向けた取り組みを、この週末に国連事務総長代行の下で作成するように指示しました[67]

ドブルイニン大使との折衝

アナトリー・ドブルイニン

これが送信された後、ロバート・ケネディは大統領の求めで駐米ソ連大使アナトリー・ドブルイニンと夜8時頃に密かに会うこととした[注 40]。このドブルイニン大使との席でロバートは、この返書は大統領個人のものであり、軍部からの強硬な意見を無視した決断であること、米軍機の撃墜と操縦士の死亡は軍部を強く刺激してもはや平和的な解決を図るには時間が無くなったことを強調した[66]。そして懸案のトルコのミサイル撤去について「キューバのミサイル撤去が確認された段階で必ずトルコから撤去する」として、もしこの約束が漏れたら責任は全てソ連側にあり、この提案全てが反故になると強く告げることを忘れなかった[68]

ホワイトハウスの夜

10月27日は終日会議に追われた。アメリカ空軍機撃墜で空爆を主張するメンバーが増え、書簡の回答を作り終えて送信した後は、午後8時過ぎにいったん休憩をとり大統領は食事となった。午後9時に再開してしばらくしてから明朝10時に会議を開くことでこの日は終わった。翌日の会議は10月30日に空爆か侵攻を行うかで開かれる予定であった。緊張と疲労がまじった中で、会議に出席した誰もが30日火曜日には戦争が起こると予測していた。マクナマラは後に「あの日見たポトマック川沿いの夕日は美しく、その時この夕日を生きてもう一度眺めることができるのだろうか、と思った」と語っている[69]

カストロの書簡

実はこの日の夜、キューバのカストロはフルシチョフに躊躇いが生じているのではないか、と心配し始めていた。米ソ間の取り引きも噂されていて、思い切ってフルシチョフを激励するつもりで書簡を送ることにした。そして駐キューバソ連大使のアレクセイエフを呼んで口述させた書簡をフルシチョフ宛てに送った。この書簡は時差の関係からモスクワの28日朝に着いているが、この書簡がカストロの思いとは全く逆の効果を生じることになった[70]


注釈

  1. ^ 核ミサイル基地の建設を発見したアメリカであったが、この時点では基地建設であって、核ミサイルはまだ持ち込まれていないと考えていた。したがって要求は核ミサイルの撤去ではなく、ミサイル基地の撤去であった。
  2. ^ 10月16日から10月28日の13日間をキューバ危機とする解釈で製作された映画が「13 Days」である。
  3. ^ 当初のカストロ政府軍の人数の読みが甘く、予想以上の反撃であった。これはこの計画の致命的な誤りであった。
  4. ^ 正確な死傷者数について通説はない。「キューバ危機」203P参照
  5. ^ 作戦の失敗の原因は複数あり、計画そのものがずさんで、政府軍の反撃も当初の見積もりが過少すぎる評価であったと言われる。アメリカは1年半後この捕虜となった亡命キューバ人の身柄引き換えの300万ドルと医療器具など5000万ドル相当の物資をキューバ政府に提供した。ギャレス・ジェンキンズ著『ジョン・F・ケネディ フォトバイオグラフィ』184P
  6. ^ キューバ製葉巻H.アップマン」を愛好していたケネディは、この発表の直前にピエール・サリンジャー報道官に対して至急大量に輸入するように命じ、1,200本を確保したことを確認した後に経済制裁の実施を発表したと伝えられている。「The Rake」Issue 8 P.104 2016年3月
  7. ^ CIA所属。1950年代にフィリピンと南ベトナムで共産軍と戦い、特殊作戦の天才として知られていた。
  8. ^ フルシチョフとカストロは作戦をキューバへの本格的な軍事介入の前触れとみていた。しかしソ連とキューバの情報機関は困惑させることが主眼で情報収集を目的とした中途半端な企てとみていた。そしてアメリカではケネディ大統領はこのマングース作戦を大してよいものとは考えていなかったといわれる。実際のところ政府内のタカ派に対してカストロ排除の行動を進めていると映していく程度の結果を余り期待しない程度の作戦であったとも言える。後にマクジョージ・バンディ補佐官がマングース作戦とは「無為を慰める心の薬だった」と語っている。しかし本気で作戦決行を進めるべきと考える人も政権内にいた。ロバート・ケネディもその1人である。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 51P 《マングース作戦はどれくらい本気だったか?》
  9. ^ 10月20日に作戦は完了する予定であったという説があり、プエルトリコでカストロ暗殺を謀ったという説もあるが、それに向けて軍事行動を準備したという形跡はない。
  10. ^ アナディルとはシベリアにあるベーリング海に流れる川の名称である。この作戦名にしたのは、万一西側の情報機関に漏れてもカリブ海ではなく北極海での行動作戦であると推測させるために名付けた。また派遣される兵士たちに指揮官は冬用の装備一式を携行するように命じた。行先が暖かい南方ではなく寒い北方であるようにスパイにカムフラージュしたのである。「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 72P
  11. ^ 後にこの全く公表しないフルシチョフの決定を間違いであった、とする意見は多い。もし1962年8月の時点で両国は軍事協力協定を結んだと公式に声明を出し正々堂々とミサイルが展開されていたら、それに反対するのは難しかったであろうと、何年か後にケネディ政権の高官は率直に認めている。その意味ではソ連とキューバが核ミサイルの配備で合意していたことは国際法上完全に合法であった。全く秘密裡に進めたことがアメリカに正当な防衛の範囲内という認識を世界が持ったことになる。ただしそれでは堂々と展開していれば成功したかは疑問である。ラテンアメリカ諸国の激しい反発とアメリカ国内での反カストロ勢力や議会の殆どを占める反キューバ派はケネディを突き上げ、カストロ追放の動きに出たかも知れない。フルシチョフはケネディにこの圧力に対して弱いと見て、公表することの利益とリスクを考えリスクが大きいと計算したのかも知れない。しかしその計算が正しかったかどうかは知る由もない。「キューバ危機」~もしミサイル配備を秘密にしていなかったら~ 82P
  12. ^ この時期のカリブ海は荒れ模様でハリケーンの季節であり、偵察機を飛ばして荒天の中で飛行して進路を誤って墜落したり、国内深くに入ってしまって撃墜される危険性が高くなることがあり、そのための偵察制限であって、偵察をもっと早くしとけば発見はもっと早かったとか、政治問題化されることを恐れてということではない。「キューバ危機」87P
  13. ^ 共和党リベラル派の上院議員。この2年後の1964年秋にケネディ暗殺事件後に司法長官を辞職したロバート・ケネディが上院議員選挙に立候補して、その対抗馬がこのケネス・キーティングであった。敗北したキーティングは政界を引退した。
  14. ^ 共和党保守派の重鎮。この当時すでに1964年大統領選挙のケネディの対抗馬と目されていた。南部諸州がゴールドウォーターに取られると予想したケネディは翌年11月に最初の遊説で重点州としてテキサス州を訪ね、そこでダラスの凶弾に倒れた。ゴールドウオーターは結局1964年大統領選挙で共和党候補となったが、リンドン・ジョンソンに敗退する。
  15. ^ ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ著「キューバ危機」によれば、前日夜遅くにマクジョージ・バンディに届けられていたが、彼は大統領を起こさず翌朝に報告することにした。
  16. ^ 空軍参謀総長カーチス・ルメイ。第二次大戦では日本への空襲を指揮し、後にベトナム戦争で北爆を強く主張していた。
  17. ^ ここで出された6つの選択肢は実際には一から練り上げたものでなく、ここまでの数か月間で普通の会話で交わされていた内容のものであった。空爆と海上封鎖もすでに上院議員が口にし、軍当局も非常の事態に備えるようケネディからすでに指示されていた。
  18. ^ この1年後のダラスでのケネディ大統領暗殺事件の時に、大統領夫妻が乗った車のすぐ後ろの車に乗って、大統領が撃たれた瞬間にすぐに後方から大統領が乗っている車に飛び乗り、トランクの上に乗り出したジャクリーン夫人を後部座席に押しとどめたのがこのクリント・ヒルであった。
  19. ^ ジャクリーン夫人のこの言葉を聞いた時、クリント・ヒルは心の中で、決して許して貰えないと思うがそれでも彼女を抱き上げてシェルターに入らなければならない、彼女を守る責任がある以上、他の事はどうでもいい、と思ったという。クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」248P
  20. ^ この会談の主な議題はベルリン問題であった。前年ウィーン会談での激しいやりとりとベルリンの壁構築で緊張した米ソ間の最大の問題はベルリン問題であり、前年秋にフルシチョフが一旦は延期した東ドイツとの平和条約締結をまた持ち出してきた。次にキューバ問題ではアメリカの内政干渉や就航制限などを国際法違反として苦情をいい、ミサイルについてはモスクワからの「他意はない」との指令を受けていることもグロムイコは明らかにしている。しかし後にセオドア・ソレンセンは著書「ケネディの道」で「グロムイコ外相はシラを切った」と書いている。
  21. ^ この時にシャープ海兵隊総司令官が他の参謀総長たちに向かって吐き捨てるように言った言葉がホワイトハウスの録音機に残っている。「キューバまで行ってミサイルを撤去するなどやってられるか。地対空ミサイル基地を探すなど出来っこない。ともかくあっちに行って邪魔者を蹴散らすのだ。」「キューバ危機」115P
  22. ^ 土田宏 著『ケネディー神話と実像』では午後2時30分からだが、ドン・マントンとデイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』ではこの日の午前に国家安全保障会議を行ったとしている。しかしソレンセンの『ケネディの道』では大統領のヘリコプターがホワイトハウスの南側芝生に着陸したのが午後1時半と述べているので、当日の午後であることは明確である。
  23. ^ 実はエクスコム会議のメンバーはこの時には知らなかったことだが、ケネディはこの前にトルコのミサイル撤去を指示していた。しかしトルコ政府が絶対反対で暗礁に乗り上げたままであった。しかもこのキューバ危機直前に議会の両院合同原子力委員会はトルコとイタリアのミサイル撤去を勧告してこの問題は再び浮上していた。ケネディは危機前の撤去指示を隠したまま、そして全体バランスを見ながらどのように落としどころをつけるかを見計らっていた。
  24. ^ 日本では当時も現在もこのキューバ危機では封鎖という言葉を使用している。
  25. ^ ケネディの封鎖声明後、人口600万人のキューバでは武装した戦闘員が40万人動員され、アメリカは25万人の動員で2000機の戦闘機が万が一のため配置についた。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』206P
  26. ^ セオドア・ソレンセンの「ケネディの道」によると、ケネディは3分の2の賛成票の獲得にも懸念していたが結局全会一致であったことで、ラスクとマーチン国務次官補の労を心からねぎらったという。
  27. ^ 《またケネディはキューバのミサイル基地の写真を国連用および報道・出版用に公開した。》という言説があるが、写真の公開は25日の安保理以降のことである。
  28. ^ ウ・タントは飛行機の墜落で死亡したハマーショルド事務総長の代理として前年1961年11月3日に選出され、ハマーショルドの残りの任期を務めた後、キューバ危機の1ヵ月後の1962年11月30日に正式に第3代国連事務総長に就任した。
  29. ^ 海上封鎖後最初の首脳同士のやり取りになるケネディの返書は10月25日にフルシチョフに届いている。
  30. ^ この時の安保理で厳しくソ連大使を追及するスティーブンソン国連大使の姿は後に「アドレー・スティーブンソンの瞬間」という言葉がアメリカ政界の語録に刻まれ、彼が最も脚光を浴びた瞬間でもあった。ギャレス・ジェンキンス著『ジョン・F・ケネディ フォト・バイオグラフィ』215P
  31. ^ この2日前のやり取りでCIAが証拠写真をねつ造したとゾーリン大使は批判していた。このことでのスティーブンソン大使の逆襲であり、2日前に懸命に否認したことが裏目に出た結果であった。「キューバ危機」134P この国連安保理での模様はテレビ映像で世界に流されて、映像記録として残っている。
  32. ^ 面白いことに、公海上での摩擦を避けるためにソ連船ではなく、あえて他の中立国のソ連チャーター船を選んで停船させていたことになる。見方を変えれば、問題のなさそうな船を止めて臨検し、問題のある船は自主的に戻るようにさせたとも言える。ソ連の立場からいくと、中身を他国に見られることは屈辱であり、選択肢はUターンしか無かったことになる。
  33. ^ テッド・ソレンセン著『ケネディの道』では、ここでフルシチョフの書簡の写しをスカーリに手交したと述べている。ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著『キューバ危機』では、書簡ではなく言葉での打診を行ったとしている。
  34. ^ ラスク国務長官のことで、ラスクはこの話に乗った。もし本物であれば、突破口になると考えたのであった。「政府内の最も信頼できる筋です」とスカーリはファーミン(フェクリソフ)に伝えた。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』294-296P
  35. ^ これまでデフコン2まで警戒態勢が上昇したのはこのときだけである。2001年アメリカ同時多発テロ事件当時でもデフコン2は発令されなかった
  36. ^ ウォルター・リップマンは当時ワシントンポストの有名なコラムニストで、そのコラムは当時の日本の新聞でも紹介されるほどであった。そしてフルシチョフとはこの前年1961年4月11日に黒海沿岸のソチの近くの別荘をリップマンが訪れて8時間共に過ごしながら語り合った仲であった。またケネディに近い存在としてフルシチョフは見ていた。ただしこの時の二人の話題は殆どがベルリン問題であった。この時のフルシチョフ会見記事で後にピューリッツァー賞をリップマンは受賞している。 フレデリック・ケンペ著『ベルリン危機1961』上巻 226-229P
  37. ^ これを読んだ政権スタッフの中では、実は27日分が先に書かれ、26日分がその後に書かれていたのではないか、と推測する向きもあった。また26日分はあくまでフルシチョフの個人的な書簡であり、27日分はソ連政府が作成したのではないかという見方もあった。
  38. ^ 皮肉な話だが2年前の大統領選挙で米ソ間でミサイルギャップがあるとケネディは共和党政権を攻撃する材料に使ったが、実際はアメリカの方が圧倒的に優位であった。
  39. ^ 潜水艦小艦隊の指令でもあり、他の艦の副艦長と異なり核魚雷発射の承認権を持っていた。また前年にK-19の副艦長として同艦の原子炉事故に遭遇している。
  40. ^ ドブルイニンとの協議はあくまで秘密裡であった。およそ当時の緊迫した状況では公式の会談は不可能であり、しかも内容がトルコに設置しているミサイルの撤去についての密約の話であったので秘密を要するものであった。ただし場所はこの時は司法省となっている。『キューバ危機』155P
  41. ^ その後の東西のデタント(緊張緩和)で、二国間のやり取りは、およそ大使か特別代表が直接指導者に伝えることが普通にはなったが、この東西冷戦の時代にはそのようなチャンネルは存在しなかった。このフルシチョフのミサイル撤去の発表が自国のラジオ放送でアメリカに伝わるということは今日では考えられないことであった。
  42. ^ なお当時の両国の核戦力は、ソ連の核爆弾保有数300発に対してアメリカは5000発と、ソ連は圧倒的に不利な状況であり、仮に両国の全面戦争という事態になれば、ソ連は核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられたものの、敗北するのは決定的であった。第二次世界大戦時にドイツを相手に苦戦した経験を持つフルシチョフは、このことをよく理解しており、アメリカの強い軍事力と強い姿勢に屈服せざるをえなかったのが、国際政治の現実であったと考えられている。
  43. ^ ソレンセンの著書でABCのスカリー記者がロバート・ケネディとドブルイニン大使との仲介をしたという言説は、正確ではなく、また場所も市内の公園ではなく、司法省の執務室で行われたという資料が多い。ソレンセンの著書にも後述のスカリー記者とKGBファーミンとの接触に関する記述があり、いずれも内容には触れていない。
  44. ^ その後1973年に国連大使となり1975年まで務めた。
  45. ^ この翌日の27日の夜にファーミン(フェクリソフ)とスカーリは再び会っている。フルシチョフからのトルコのミサイル撤去を要求した書簡が届いてからで、スカーリはこの時「卑劣な裏切り行為だ」として激怒していた。
  46. ^ この本の中でケネディの好きな一節は、二人のドイツの政治家が戦争を振り返り「なぜこんなことになったのですか」という問いに「ああ、それが分かっていればな」と答える場面である。マイケル・ドブス著『核時計零時1分前』396P
  47. ^ カトリック教徒であるアメリカ合衆国の大統領は、ケネディのほかには2021年に就任したジョー・バイデンの2人で、非常に少ない。

出典

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  2. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 317-318P
  3. ^ 『ベルリン危機1961』上巻 フレデリック・ケンプ著 316-317P
  4. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 49P
  5. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 52P
  6. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 57P
  7. ^ 「キューバ危機」 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 59P
  8. ^ a b 「FOREIGN AFFAIRS MAY/JUNE 2023」44p
  9. ^ 「キューバ危機」78-79P
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  11. ^ 「キューバ危機」83P
  12. ^ マイケルL・ドックリル マイケルF・ホプキンズ共著「冷戦 1945-1991」118P参照
  13. ^ 「キューバ危機」86P
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  16. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.357
  17. ^ 「キューバ危機」97-98P
  18. ^ 『CIA秘録』(上)ティム・ワイナー著 文春文庫 P.360
  19. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏 173P
  20. ^ 「キューバ危機」105-107P
  21. ^ a b c 『ケネディー神話と実像』 土田宏 174P
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  23. ^  土田宏 174P
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  26. ^ クリント・ヒル著 白須清美訳「ミセス・ケネディ」247-248P
  27. ^ 『ケネディー神話と実像』土田宏 174-175P
  28. ^ 「キューバ危機」111-112P
  29. ^ 「キューバ危機」111P
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  31. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、pp176
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  33. ^ 「キューバ危機」116-117P
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  35. ^ フレデリック・ケンプ著「ベルリン危機1961」下巻 273P
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  39. ^ 『ケネディ大統領演説集』 黒田和雄訳 79-83P
  40. ^ 『ケネディー神話と実像』 土田宏、180P  『キューバ危機』 ドン・マントン デイヴィッド・A・ウエルチ共著 127-129P
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  86. ^ 冷戦以来初の「世界最終核戦争」の危機に 米大統領”. www.afpbb.com. 2022年10月26日閲覧。
  87. ^ 1978(昭和53)年度 プロジェクト方式の定着と現場の活力/あの時・世界は… - NHKアーカイブス(番組エピソード)






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