PS/V
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 13:24 UTC 版)
PS/V(ピーエス・ブイ)は、日本IBMが1992年から発売していた、主に個人向けのパーソナルコンピュータのシリーズである。
呼称
正式名称はPS/V。
PS/2、PS/55、PS/1などの「PS/」と、DOS/Vの「/V」を合わせたネーミングと思われる[要出典]。なお、PS/2、PS/55、PS/1などは略称だが、PS/Vは「PS/V」が正式名称である。
概要
PS/Vは、PS/55でMCA路線(一部モデルのみでPC/ATバス)を続けていた日本IBMが、個人向け市場では本格的にPC/ATバスに復帰し、DOS/VおよびOS/2を推進したシリーズである。
PS/1がベースの日本版と考えられる。IBMの独自技術や高品質を売りにしない「IBMの販売するPC/AT互換機」であり、Aptivaの前身である。Micro Channelスロットを廃止してPC-AT拡張バスと一部モデルでVLバスを採用したほか、内部パーツの外部調達率を大幅に引き上げてコストダウンを図っている。1993年末にはFM TOWNS用CD-ROMソフトが動作可能なモデルや拡張カード『FM TOWNS アプリケーション・カード』が発売された[1]。
モデル
- PS/V(基本モデル)
- PS/V Entry(下位モデル)
- PS/V Master(上位モデル)
当時の高速ビデオチップだったWeitek Power9000をグラフィックアダプターに搭載しており、WindowsやOS/2等 GUI環境での高速描画が特徴だった。
- PS/V Vision(モニタ一体型。PS/55 5530等の後継。Aptiva Visionの前身)
- Master P120 (DOS/V 5周年記念モデル P120はPentium 120MHzの実装を意味する。PS/V Masterの後継という位置づけだったが、ビジネス向けPCはIBM PC,コンシューマ向けPCはAptivaにグローバルIBMにおけるブランド再編が行われた後のため「PS/V」 の名称はこの製品に使われていない。)
- 2411-P31 1995年10月 (Windows 3.1プリロードモデル)
- 2411-P95 1995年10月 (Windows 95 プリロードモデル)
競合製品
影響
- 個人向けモデルでも高価・高品質なイメージが強かったPS/55シリーズと異なり、「本家IBMの出した低価格なPC/AT互換機」というイメージで、日本でのPC/AT互換機およびDOS/V、更にはWindowsの拡大に貢献した。
備考
- 日立製作所がDOS/Vに参入する際、一時的にIBMからPS/VをOEMした。またリコーおよび松下電器産業もPS/VのOEM販売を行った。[要出典]
- PS/V Visionでは最初のモデルとなった1993年11月発売の2408-WMB・WMCは、CPUはIBM486SLC2の50MHzを搭載した。WMBとWMCの違いは、ハードディスク容量の違いである。前者は170MB、後者は340MB[2]。翌1994年5月のモデルチェンジでテレビチューナー付きモデルとなった2408-NTB・NTCからは、同じくIBM486SLC2の66MHzが採用された。また1994年10月発売の2408-NDVでは、MPEG VisionとしてMPEGカードを搭載したモデルとして発売された。
脚注
- ^ 「IBMがFM TOWNSシリーズ用ソフトを利用可能なPS/Vシリーズを発売」『ASCII』 1994年2月号、アスキー。
- ^ 『DOS/V POWER REPORT '94年冬号』株式会社インプレス、1994年1月8日、82-83頁。
関連
外部リンク
PSV
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/17 07:08 UTC 版)
PSV
- PS/V
- PSVアイントホーフェン
- PlayStation Vita (PS Vita)
- プティ・セントビンセント島
- プラットフォーム補給船
- ポリス・サポート・ボランティア - イギリス警察部隊が行なっている。
PSV(第1期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 00:24 UTC 版)
「ジョナタン・ジャクソン・ジ・リマ・ヘイス」の記事における「PSV(第1期)」の解説
2005年からアトレチコ・ミネイロのユースチームに所属。2006年9月にアヤックス・アムステルダムでのトライアルの後、10月にPSVでのトライアルに合格し、12月にPSVが獲得を発表。2007年の夏にPSVと5年契約を結んだ。2007年5月にPSV A1でテルボルフ・トーナメントに参加。3-2で勝利したアルゼンチンのボカ・ジュニアーズとの決勝でヘイスは2得点を決めている。2007年のオッテン・カップでもヘイスはベストFWに選ばれた。 2007-08シーズンにヘイスはAセレクションに昇格するも、出場時間が少なすぎると監督のセフ・フェルホーセンと衝突した。3月にボルシア・ドルトムントのユース・トーナメント参加を拒否し、5千ユーロの罰金を科されている。その後ヘイスは足を骨折し、リーグ戦を最後まで欠場。足にプラスチックが挟み込まれたが、ヘイスが自分でそれを予定よりも早く取り除いてしまったため、クラブのメディカル・スタッフはその後の治療を断った。2008-09シーズンの初めにヘイスは同箇所を骨折し、プレシーズンに参加しなかった。 2008-09シーズン、ヘイスは監督のフーブ・ステフェンスと衝突。バカンスからの合流が遅れ、足のプラスチックを自ら取り除いて再び怪我をするなどの行為の後、2009年1月にシーズン末までトゥピFCへレンタルされた。 2009-10シーズンの初めにヘイスは売却される見込みだったが、プレシーズンにフレット・ルッテン監督によって与えられたチャンスをつかんでクラブに残留した。ACスパルタ・プラハ相手のUEFAヨーロッパリーグ戦でダニー・クーフェルマンスとの交代で途中出場。80分位にPSVが同点(1-1)に追いつくゴールを決め、ロスタイムには再び同点ゴール(2-2)を決めた。ヘイスはヨーロッパリーグのFCコペンハーゲン戦でも72分にこの試合唯一のゴールで決定的な仕事をした。リーグ戦での初ゴールはその3日後、NECナイメヘンとのアウェイゲーム(0-4勝利)で0-2とするゴールを決めた。KNVBカップでの初ゴールは再びその3日後。ボレーで0-2のゴールを決めた。正式にはまだユース選手扱いだったヘイスは2009年11月26日に正式にAセレクション昇格が決定。 こうしてようやく素質が開花し始めたと思われた矢先の2010年1月24日に、PSVは解雇を発表する。ウィンターブレイクにブラジルへ帰国すると再び生活が乱れ始め、チームのキャンプには5日遅刻して到着。コンディション不良と疲労を理由にアイントホーフェンに送還され、ここでのメディカルチェックで薬物使用が見つかった。薬物の使用が認められたヘイスに対し、チームは専門家の治療を受けることを勧めたが、ヘイスがそれを拒んだことで解雇に至った。
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