Max Payneシリーズ(1999–2005年)
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「レメディー・エンターテインメント」の記事における「Max Payneシリーズ(1999–2005年)」の解説
『Death Rally』の発売後、Remedyは次のプロジェクトをミラーに提案し始めた。 1つは『Descent:FreeSpace』のような宇宙飛行シミュレーションゲーム、1つはレースゲーム、もう1つは『Dark Justice』という名前のアイソメトリックシューティングゲームであった。ミラーは、ゲームにはデューク・ヌーケムのような強い主人公、3Dグラフィックス、より良い名前があることを条件に、このシューティングゲームの開発に資金を提供することを決定した。彼は『Dark Justice』が「暗く」そして「大人」すぎると感じていた。チームは、『Dick Justice』から会社が2万ドルで商標登録した名前『Max Heat』まで、さまざまな可能性を提案し、最終的に『Max Payne』という名前に落ち着いた。ゲームのリードデザイナーはPetri Järvilehtoが務め、彼は、香港のアクション映画の特徴であるバレットタイムとスローモーションをゲームの核となるメカニックにしたいと考えていた。彼らはそれをプレイヤーが使用するためのリソースとして位置付けることにした。デモシーンの経験からコンピューティングに精通していたチームは、ゲーム用に独自のゲームエンジンを開発した。ゲームの脚本に起用されたサム・レイクは、犯罪小説やフィルム・ノワールによく見られる要素をゲームに導入した。チームは、ゲームのテクスチャに実際の写真を使用したいと考えていたが、当初はアーティストから強い抵抗を受けた 。1999年、デザイナーはフィンランドからニューヨークに渡り、ニューヨークを調査して環境のアイデアを得た。2人の元ニューヨーク市警察のボディガードを伴って、彼らはマッピング用に何千枚もの写真を撮った。同社は2000年にほとんどの時間を費やして、ゲームのグラフィックをさらに洗練させた。2度の発売延期を経て、2001年7月に発売された『Max Payne』は高い評価を受けた。伝統的によりゲームプレイ志向であったアクションゲームとしては、ストーリーや雰囲気に重点を置いていた点が評価された。このゲームは商業的に成功を収め、700万本以上を販売した。 ApogeeはMax Payneの家庭用ゲーム機版の開発をロックスターゲームズに外部委託し、ロックスターの親会社、テイクツー・インタラクティブが1000万ドルでフランチャイズの知的財産権を取得した。取得契約の一環として、Remedyはゲーム続編の開発に復帰することになった。テイクツーは、Remedyに大幅な創造的自由を与えた。続編ゲームの開発サイクルは、初代よりもはるかに短かった。チームは、既存のゲームプレイメカニズムのほとんどを利用し、それらを拡張した。レイクはゲームの脚本を書くために戻ってきた。彼はより「野心的な」物語を書けるようにフィンランドのシアターアカデミーに通い、脚本を学んだ。レイクの脚本は600ページを超え、初代の5倍となった。初代の発売から27ヶ月後の2003年10月に発売された『Max Payne 2: The Fall of Max Payne』は批評家の称賛を受けたが、売れ行きは芳しくなかった。テイクツーは、同社が2004年の売上高の減少を予測した理由の1つとして、このゲームの「期待外れの売上が続いている」ことを挙げている。Max Payne 2後は、Remedyはフランチャイズに関与しなくなったが、『Max Payne 3』が開発の最終段階に達したときに、ロックスターは彼らに相談した。
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