F1での実績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 06:55 UTC 版)
「ブライアン・ハート (企業)」の記事における「F1での実績」の解説
1970年代にはあらゆるモータースポーツ分野において、イギリスの独立系レーシングチームが搭載するエンジンのチューニングを生業としていた。 1979年から1980年シーズンにかけては、トールマンのためにF2エンジンを製作し、これによって同チームはイギリスF2を席巻した。 1981年、ハートはトールマンとともに、1,500cc直列4気筒ターボエンジン(型式名:415T)を擁してF1へと進出した。しかしこの年の結果は惨憺たるものだった。ブライアン・ハートの小規模な企業だったハート社は、潤沢な資金を持ったチームと対等に戦うことは難しく、同チームのマシンはわずか2レースで予選通過するのが精一杯だった。 しかしその後ハートの状況は好転し、1984年のモナコGPではアイルトン・セナが2位に入賞する活躍を見せ、5年にわたるトールマンとの関係で最高の結果を残した。 1985年ドイツグランプリでは、テオ・ファビがトールマン・ハートを駆って初のポールポジションを獲得した。 この時期、ハートエンジンは他に3チームが搭載していた。1984年から1985年にかけてはRAMとスピリットに供給、また1985年から1986年にはハース・ローラに搭載されていた。これらのチームはいずれも目だった成績を残さなかったが、ハートは低予算で最高の仕事をこなすという評価を得るに至った。 F1でターボエンジンが禁止になると、ハートは1990年から1991年シーズンにかけて多くのF1チームが用いていたDFR V8エンジンのチューニングを行っていった。1990年はティレルのジャン・アレジをアメリカとモナコの2レースで2位表彰台へと押し上げた。しかし1991年はラルースをはじめとする弱小チームへの供給のみとなる。登場から20年以上が経っているエンジンでは最新型のワークスエンジンを搭載チームと対抗するにも供給しているチームの規模と、そこから得られる資金もあまりにも少なく、またパワーを引き出す為にはベースエンジンの限界を超えたチューニングをするしか方法が無く、その結果エンジンの信頼性が著しく落ちてしまいエンジントラブルの連続となった。 1993年、ハートは3,500cc V10エンジンを自製してF1に復帰した。ジョーダンとの間で2年契約を結び、1994年のパシフィックGPではルーベンス・バリチェロが3位に入賞するという成功を得た。またベルギーGPの雨の予選でバリチェロが自身初となるポールポジションを獲得した。 1995年にF1のエンジン規定が3,000ccに変更されると、ハートはV8エンジンへと移行した。このエンジンは翌年までアロウズに供給され、1995年のオーストラリアGPではジャンニ・モルビデッリが3位表彰台を獲得した。 1997年にはこれらのエンジンはミナルディに買い取られたが、ブライアン・ハート自身はヤマハのV10エンジン・OX11Aの設計に携わった。 1997年終盤、トム・ウォーキンショーは同社を買収し、彼のF1チームに合わせてブランドをアロウズに変更した。1998年から1999年シーズンにかけては、「アロウズV10」として出走し、1998年のモナコGPではミカ・サロが4位入賞を果たした。しかし、開発が思うように進められなかったため、ブライアン・ハートは1999年にアロウズを去り、そしてアロウズが2000年シーズンにスーパーテックのエンジンを使用する決断をするに至って、ハート社の業務は終了した。 ハートエンジンを搭載したマシンは、結局F1グランプリで勝利することはなかった。しかし多くのドライバーが経歴の一時期においてハートエンジンを使用していた。主なドライバーには、ヤルノ・トゥルーリ、エディ・アーバイン、アイルトン・セナ、ルーベンス・バリチェロ、デレック・ワーウィック、鈴木亜久里、井上隆智穂らがいる。
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