D1ドライバーとして
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全日本プロドリフト選手権(D1グランプリ)には初年度から、パーツメーカー「BLITZ」と共に参戦。独特な口調の博多弁の明るいキャラクターに、白煙番長と呼ばれる派手な走行スタイルで、永くD1人気投票の1位を獲得していた。 彼が使用したのはR34スカイライン、車種はGT-Rではなく4ドア車(ER34型スカイライン)であった。車両の選定は当時BLITZ社員でチーフメカニックだった阿部成人の判断。GT-Rやクーペモデルに比べると、4ドアモデルの走行性能面の評価は高くはなかったが、野村のD1における活躍も相まって以降は中古市場における価格が高騰した。エアロパーツは野村が経営する「URAS」(ユーラス。由来はあだ名の「猿」のローマ字表記を逆さにしたもの)製を装備。リアウイングは当初装着していなかったものの、後の高速化に対応するためウイングが装着された。 初年度~2004年前半までは準優勝が何回はあるものの、優勝になかなか届かなかった。しかし、2004年第2戦SUGOにて投入された04年仕様車で、主に追走での強さを発揮し、第3戦エビスにて、日比野哲也をサドンデスの末に下して初優勝。 2006年は、シーケンシャルミッションを投入するなどの効果が表れ、シーズン最多タイの2勝を上げ、熊久保信重や風間靖幸とタイトルを争う。しかし、タイトル争いの最中に行われたV-OPTの企画、「自動車サッカー」の収録中に右手首の靱帯を負傷する不運に見舞われる(ちなみに、この自動車サッカーには熊久保と風間も参加していた)。それでも最終戦まで熊久保と僅差の争いを繰り広げたが、僅か1ポイント差で破れランキング2位となった。 2008年までに、D1グランプリでは4勝を上げている(2004年第3戦、2006年第2戦・第4戦、2007年第5戦)。これに加え、エキシビジョンで2度優勝経験がある(2004年お台場オールスター、2006年ワールドオールスター)。 2012年のD1グランプリ第4戦よりスカイラインから2JZ-GTEエンジンを換装したトヨタ・86に乗り換えてD1GPに参戦。2014年よりラブライブ!の痛車仕様、2015年からは再びER34(ラブライブ!の痛車仕様)を駆り、2017年以降はガールズ&パンツァーの痛車仕様で参戦した。なお、ラブライブ!痛車では、フロントガラスを塞ぎ、前が見えなくした状態で実際のD1コースでドリフトする「目隠しドリフト」を披露している。 2018年のシリーズをもってD1選手生活を終了した。選手引退後は、圭市の監督や審査員、レポーターとしてD1での活動を行っている。
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