カルロマン2世 (西フランク王)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/26 10:11 UTC 版)
カルロマン2世 Carloman II |
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西フランク国王 | |
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在位 | 879年 - 884年 |
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出生 | 866年 |
死去 | 884年12月12日 レ=ザンドリ近郊 |
埋葬 | サン=ドニ大聖堂 |
家名 | カロリング家 |
王朝 | カロリング朝 |
父親 | ルイ2世 |
母親 | アンスガルド・ド・ブルゴーニュ |
宗教 | ローマ・カトリック |
カルロマン2世(フランス語: Carloman II 在位:866年 - 884年12月12日)は、西フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:879年 - 884年)。ルイ2世(吃音王)と最初の妃アンスガルドの息子。異母弟にシャルル3世がいる。
生涯
879年、父王ルイ2世の崩御をうけ、兄ルイ3世とともに即位した。何人かの貴族は単独の王を選ぶべきだと主張したが、結局ルイ3世とカルロマン2世がともに王に選出された。その正当性に疑問も投げかけられたものの2人の即位は承認され、彼らは880年3月にアミアンで父の遺領を分割した。カルロマン2世はブルゴーニュとアキテーヌを相続した。
しかしプロヴァンス公ボソは2人に対する忠誠を拒否し、プロヴァンス王に選ばれた。880年の夏、ルイ3世とカルロマン2世はボソに対して兵を動かし、ボソの領地の北部とマコンを奪った。さらに2人は8月から11月にかけて東フランク王カール3世(肥満王)とともにヴィエンヌを包囲したが、失敗した。882年の夏、オータン伯リシャールによる包囲の後ヴィエンヌを奪った。
同じく882年8月に兄のルイ3世が崩御したため、カルロマン2世は単独の王となった。しかし、王国はノルマン人の侵入などにより悲惨な状態だった。また、封建制の領主に対する嫌悪から彼の権力は極めて限定されたものだった。
カルロマン2世は884年12月12日に狩猟中の事故が原因で崩御した。王位は東フランク王であったカール3世がシャルル3世として継承した。
関連項目
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「Carloman II」の例文・使い方・用例・文例
- フェーズIとフェーズIIで許容副作用を伴い効果的であることが示される治療あるいは薬品の大規模な臨床試験
- 1228年から1229年までの十字軍は、病気になった神聖ローマ帝国皇帝フレディリックIIで導いて、法王によって破門されました
- 330,000人の連合軍隊が敵火の下で絶望的な退却において、北フランスの浜辺から避難しなければならなかった世界大戦IIの陸海空共同の避難(1940年)
- 腎臓にアンジオテンシンIIができるのを阻止し、動脈を弛緩してくれる抗高血圧薬
- アンジオテンシンIIへのさきがけであるアンジオテンシンの生理学的に不活発な形態
- 高血圧を治療するのに用いられるアンギオテンシンII抑制剤
- ASCII文字セットは最も一般的に用いられている文字セットである
- 王を補足したと考えられるI歴代志とII歴代志の旧約聖書の旧名
- ウルガタ聖書(IIエスドラス書を除いて)に含まれるが、ユダヤやプロテスタント版の聖書では省略される旧約聖書の14冊
- I歴代志、II歴代志、エズラ、およびネヘマイアからの編集から成る外典
- フレディリック神聖ローマ帝国皇帝IIを破門して、聖地に対して新しい十字軍を計画していた1245年の西方教会の協議会
- キャサリンIIの愛人であり、1762年に彼女が権力を握る支援を行ったロシアの役員で政治家
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- 血液凝固において、トロンビンは第XIII因子をフィブリンが分解しにくい凝血塊の形成を引き起こす(フィブリナーゼ)活性型に触媒する
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- 72歳の映画監督と彼の息子は,9月25日,新作映画「バトル・ロワイアルII」の製作を発表するため,記者会見を行った。
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