Atari2600とワーナーの買収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:55 UTC 版)
「アタリ (企業)」の記事における「Atari2600とワーナーの買収」の解説
家庭用ゲーム部門としてはAtari 2600(当初はVCSと呼ばれていた)の構想を立ち上げたが、儲かっている企業とは言え、多くの金が動く上に依然ゲーム業界に金融上の信用が無いため為に資金のやりくりが大変で、この頃は一歩間違えれば倒産し兼ねない危機を孕んでいた。ブッシュネルは株式公開も考えたが、結局大企業への売却で資金を安定させる方法を思いついた。ユニバーサル・スタジオで有名になるユニバーサルや、ディズニーに声をかけたが、反応が無かった。 ワーナー・コミュニケーションズのスティーブ・ロス会長(後に世界最大のメディア集団、タイム・ワーナー会長)は、家族連れでディズニーランドに遊んだ際、子供たちが遊ぶアタリのゲームを見たのがきっかけで同社を調査したと語っている。 ワーナー・コミュニケーションズは、映画会社のワーナー・ブラザーズの親会社である。映画産業は60年代に不況となり、ディズニーを除いて軒並み買収された。1969年に葬儀場と駐車場を経営するキニー・ナショナル・カンパニーズがワーナー・ブラザーズ(WB)を買収。親会社が子会社に倣ってワーナー・コミュニケーションズと社名を代えた。 1976年10月にワーナーは2,800万ドルでアタリを買収した。買収額のうち1,300万ドルはブッシュネルの懐に入り、億万長者となり、重役陣の役職はそのままとされた一方、ブッシュネルは後に「ワーナーへの売却は失敗だった。あと2週間あれば、資金が調達できた」と語っている。また、その翌月の同年11月には1976年11月にはフリッパーピンボールにも参入している。 Atari 2600は1977年に発売されたものの、直後からサードパーティーや競合他社の家庭用ゲーム機が撤退する等、アクシデントが相次ぎ、なかなか売れなかった。そこで、ワーナーは繊維業界の営業畑で実績のあったレイモンド・カサールを、家庭用部門のトップとして引き抜いたが、このカサールこそが、ブッシュネルとアタリにとって疫病神とも言えた、Atari 2600とワーナーの動きに火を注いでしまった。 ブッシュネルやアルコーン達は、自分たちを「アタリアン」(Atarian)と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で、楽しむ様に経営や開発を行なっていた。そして新作ゲームも必ずテストプレイに加わり、意見を述べていた。ワーナー売却以前に大切な会議をする時は、ゲームで儲けたブッシュネルの豪邸で、何とジャグジー(泡風呂)の中でやっていた程である。だが、カサールを始めとするワーナーの重役陣はネクタイを締め、目的と言えば事業拡張と売り上げだけ、それもアーケードでなくAtari 2600の売れ行きだけを目標としており、もちろんテストプレイにも加わらなかった。 だが、Atari 2600はまだ売れないので、ブッシュネルは前述のフリッパーと、自ら構想したAtari 2600の事業縮小・中止を提案した。だが、ワーナー側はロスも含めて猛反発、交渉は決裂した。そして、ブッシュネルは1978年12月にアタリアンだけで重役会議を行なった所、話を聞いたワーナーが激怒する。ブッシュネルにはYesかNoかの答えを迫られた余裕もあったが、事実上ワーナーがブッシュネルを一方的に解任した。だが、ブッシュネルは小手先も少々仕込んでいた。ワーナーとの契約時、「退職後5年間、アタリと競合する仕事をしてはいけない」等の他に「自分から辞めたら退職金をもらえないが、解任されたら受け取れる」と言う項目があり、ワーナーが解任する様仕向けたのだった。こうしてブッシュネルは、自分が作ったアタリを6年も経たない内に追い出され、二度と戻ることは無かった。
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