1957年 - 1960年 : 結成 〜 「ビートルズ」へ
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1956年11月、ジョン・レノンとエリック・グリフィス(英語版)はスキッフル・バンドを結成することを決めた。初期のラインナップは、レノンとクリフィスがギター、ピート・ショットン(英語版)がウォッシュボード、学校の友人であるビル・スミスがティーチェスト・ベースという編成だった。当初は「ザ・ブラック・ジャックス」というバンド名だったその後、バンド名は学校の名前からとって(クオリーは採石場の意味があり、石=ロックということから)「ザ・クオリーメン」に改名。8月にコリン・ハントン、レン・ギャリーが加入し、ビル・スミスが抜ける。その後、ピート・ショットンが抜ける。 1957年7月6日、ウールトンのセントピーターズ教会の野外バザー会場で行ったコンサートで、共通の友人アイヴァン・ヴォーンの紹介によりポール・マッカートニーと出会う。ポールはその場でギターを弾きながらエディ・コクランの「トゥエンティ・フライト・ロック(Twenty Flight Rock)」、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」、それにリトル・リチャードのメドレーを歌う。完璧に歌詞を覚えていることに加え、ドラムスやピアノなどあらゆる楽器を演奏しこなすマッカートニーの腕を見込んだレノンは、数日後にマッカートニーをクオリーメンに勧誘する。マッカートニーは翌日に承諾、10月にクオリーメンとしての初のステージを踏む。レノンはリヴァプール・カレッジ・オブ・アートに入学。 1958年2月、マッカートニーの紹介でジョージ・ハリスンがクオリーメンのオーディションを受ける。完璧に曲を弾きこなしたことと、2人よりもコードを知っていたことから、レノンは即座にハリスンのメンバー入りを決める。前後してエリック、レン、ロッドが脱退。3月にマッカートニーの友人だったジョン・“ダフ”・ロウが、ジェリー・リー・ルイスの「Mean Woman Blues」の出だしの難しいアルペジオ部分が弾けるということで加入。 1958年7月12日、レノン、マッカートニー、ハリスン、コリン・ハントン、ジョン・ダフ・ロウの5人のメンバーで17シリング6ペンスのお金をかき集め、リヴァプールの貸しスタジオ「フィリップス・サウンド・レコーディング・サービス」で記念すべき初レコーディングを行い、1枚の78回転レコードを自主制作した。A面に「That'll Be The Day」(オリジナルは1957年のバディ・ホリーの曲)、B面に「In Spite Of All The Danger」(マッカートニーが書いた曲)が収録された(ラベルの写真)。このレコードは長年に渡ってジョン・“ダフ”・ロウが所持していたが、1981年になってマッカートニーが買い取り現在所持している。この音源は1995年にアルバム「ザ・ビートルズ・アンソロジー1」の収録曲としてリリースされ、その際「In Spite Of All The Danger」はハリスンがギターソロを弾いたことから唯一の「マッカートニー=ハリスン」作品としてオリジナルの表記通りクレジットされた。このクレジットについてマッカートニーは「当時はリードギターのパートを考えたら、クレジットしなければいけないと思っていた」と語っている。 レコーディング後すぐにロウが抜け、レノン、マッカートニー、ハリスン、ハントンの4人で活動し、1959年1月にハントンが脱退。バンド名も「クオリーメン」から「ジョニー&ザ・ムーンドッグス」と名乗るようになる。 その後レノンのアートカレッジの友人スチュアート・サトクリフが参加、バンド名が「シルヴァー・ビートルズ」になる。しかし、ドラマーがなかなか決まらず、ケン・ブラウン、トミー・ムーア、ノーマン・チャップマンなどメンバーが頻繁に入れ替わった。 1960年8月、カスバ・コーヒー・クラブの経営者の息子ピート・ベストをドラマーに迎え、レノン、マッカートニー、ハリスン、スチュアート・サトクリフ、ピート・ベストの5人となり、バンド名も「ザ・ビートルズ」と改名した。
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