1936年-1942年
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「ハドソン・モーター・カー・カンパニー」の記事における「1936年-1942年」の解説
1936年には、ラジカルセーフティコントロール (radial safety control) 、あるいはリズミックライド (rhythmic ride) と呼ばれたフロントサスペンションを登場させ、乗用車を一新した。これは一般的な固定車軸のリーフ式サスペンションに2本の長いリーディングアームを追加したもので、これにより、サスペンションの支持剛性を保ったままばね定数を下げることができ、ソフトな乗り心地を提供しつつ、凹凸路やブレーキ時の車軸の暴れを防いで車両が安定するというものであった。 1936年式ハドソン車では競合車と比べて車内もかなり広くなり、ハドソンは145立方フィート (4.1 m3)の室内と宣伝した。同時期、他社の人気車でも車内容積は121立方フィート (3.4 m3)程度だった。(米国EPA)計測ではクライスラーLHSでも126立方フィートである。) 1936年式搭載のエンジンは当時としては強力で、93 hp (69 kW)から124 hp (92 kW)までのラインナップがあった。 1939年式では他社がすでに採用していたコラムシフトレバーを採用した。これに伴って前席は1960年代のバケットシートの流行まで業界標準となる広いベンチシートになった。1940年式では前輪独立懸架とセンターポイントステアリングが全車標準となり、同価格帯車両では秀でた性能を発揮した。 1942年式ではゼネラルモーターズが1939年からいち早く導入したオートマチックトランスミッション「ハイドラマチック」に対抗し、「ドライブマスター(Drive-Master)」変速機を搭載した。既に導入済みの「エレクトリックハンド」と自動クラッチのコンセプトを、より洗練させて組み合わせたものだった。ボタンを押すと、ドライバーは3通りのモードを選択できた‐(1)通常:マニュアルシフトとクラッチ操作、(2)マニュアルシフトでオートクラッチ、(3)オートシフトとオートクラッチ。このための大きく複雑な機構がボンネットに収められた。動作は非常によく、全自動モードは優秀なセミオートマチックトランスミッションだった。のちにこれは自動オーバードライブと組み合わされ「スーパーマチック(Super-Matic)」となった。「ドライブマスター」は1950年式ハドソンまで装備された。 もっとも、独立系メーカーであるハドソンが自社専用設計の複雑な変速機を限定製造することがコスト面で不利なのは否めず、1951年にGMが「ハイドラマチック」を他社供給開始すると、ハドソンも「ドライブマスター」と「スーパーマチック」を「ハイドラマチック」で置き換えている。 第二次世界大戦中の連邦政府の命令により、1942年から1945年までは自動車生産を停止し、航空機用部品や船舶用エンジン、対空砲などの軍需品を生産した。ハドソン製インベーダー(Invader)エンジンは1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の上陸用舟艇でその多くが使われた。 アメリカ人女性で初の自動車設計者:女性の観点からの自動車設計を求めたハドソン社は、1939年にベティ・サッチャー・オロスを雇った。オロスはクリーブランド美術学校(Cleveland School of Arts、現en:Cleveland Institute of Art)でインダストリアルデザインを専攻した、アメリカ初の女性自動車設計者である。彼女は1941年式ハドソン車に携わり、外装トリム、サイドライト、インテリアインストルメントパネル、インテリア、インテリアトリムファブリックを設計した。オロスは1939年から1941年までハドソン社で働いた。 第二次世界大戦中(1941年)、ハドソン社は航空機部門を設け、エルロンを生産した()。翼やエルロンなどの航空機部品を大量生産できる工場規模だった。
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