19世紀以降のラテン文字化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 20:57 UTC 版)
「ラテン文字」の記事における「19世紀以降のラテン文字化」の解説
近代以降、西ヨーロッパの諸国が勢力を強めていき、19世紀には世界の大半を植民地化するようになった。この植民地列強はロシア帝国と大日本帝国を除きすべてがラテン文字の使用国であり、このためラテン文字は世界で最も使用される文字となった。この西欧の覇権の影響を受け、19世紀には西方教会圏の諸言語以外の言語においてもラテン文字を採用する言語が多く表れるようになった。このラテン文字化には、もともと文字を持たない言語が新たに文字を採用するものと、すでにもっていた文字をラテン文字に切り替えたものがあった。 特に文字を持たない言語が新たに正書法を定める場合、ほとんどの場合ラテン文字が採用された。こうした無文字言語社会に積極的に接触する者にはカトリック・プロテスタントのキリスト教の宣教師が多く、彼らは布教のために現地語のラテン文字表記の正書法および文法を整備したからである。ラテン文字が表音文字であり、各地の言語を表記しやすかったこともこの変化を進める一因となった。ラテン文字は文字数が26文字と他の文字に比べて非常に少なく、簡便であったことも導入を後押しした。もっとも文字数が少ないことは表記できる発音が少ないことと表裏一体であり、こうした発音を文字としてあらわすために各言語は新しい文字や声調記号などを新たに開発してラテン文字表記につけ加えるようになった。無文字言語のラテン文字化はアフリカやオセアニアなどで特に広く行われ、多くの言語がラテン文字による正書法を定められるようになった。 ヨーロッパ以外の地域においてもともと文字を持っていた言語がラテン文字に切り替えた場合、多くは西洋列強による植民地化を経た地域の言語において行われた。こうした言語においてもカトリック・プロテスタントの宣教師によって各言語に相当するラテン文字表記の正書法が開発されたことは同じであるが、その後西欧列強の支配をうける中で支配層の言語であるラテン文字の表記が広まり、従来の言語においてもラテン文字で表記するようにしたほうが便利となったためである。ただし宗主国がラテン文字化を推進したわけでは必ずしもなく、インドやアラブ圏などのように植民地支配を受けても使用文字を変更しなかった地域も多い。 こうして近代以降にラテン文字に切り替えた言語には、インドネシア語(ジャウィ文字)、ベトナム語(漢字・チュノム)、タガログ語(アラビア文字・アリバタ)、マレー語(ジャウィ文字)、スワヒリ語(アラビア文字)などがある(カッコ内はラテン文字化以前の文字)。この例外はトルコ語であり、オスマン帝国は植民地化を受けていなかったものの、これに代わってトルコ共和国を建国したケマル・アタチュルクが近代化を目指して使用文字の変更を決定し、1928年にアラビア文字から置き換えられたものである。 またヨーロッパでも、18世紀以降になると西方教会地域でない地域においてもラテン文字化が一部で進められるようになった。ルーマニア語は正教会圏であったためにキリル文字を使用していたが、18世紀以降民族主義の高まりによりラテン文字化運動が広がっていき、1859年から1860年にかけて正式にラテン文字が採用されることとなった。アルバニア語においてはラテン文字をはじめギリシア文字やアラビア文字など各種表記法が混在していたが、1908年にラテン文字による表記が正式に決定した。
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