125cc, 250cc, 500cc
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:02 UTC 版)
「バレンティーノ・ロッシ」の記事における「125cc, 250cc, 500cc」の解説
1994年にアプリリアはRS125R改良のためにロッシを起用し、彼が125ccクラスでのレースのペースを学ぶ機会を与えた。ロータックス製エンジンを搭載したアプリリアでイタリア選手権を戦い、翌1995年はヨーロッパおよびイタリア選手権を戦った。この年はイタリア選手権のタイトルを獲得し、ヨーロッパ選手権ではランキング3位となっている。 1996年、イタリア選手権チャンピオンとしてロードレース世界選手権125ccクラスにデビューする。シーズンでは5戦でリタイアし何度かクラッシュしたが、それにもかかわらず8月のチェコGPで初優勝を遂げる。ロッシはシーズンをランキング9位で終えた。この頃は当時125ccクラスを席巻していた日本人ライダーら(青木治親・坂田和人・上田昇など)に親しく接し、現役チャンピオンだった青木はロッシによくアドバイスを与えていたという(後に青木は「あんなに強くなるんなら教えるんじゃなかった」といった旨のコメントをしている)。翌1997年には15戦中11勝を挙げてシーズンを支配、自身初のチャンピオンに輝いた。 1998年、250ccクラスにステップアップ。この年のアプリリアはロッシと原田哲也、ロリス・カピロッシを擁してシーズンを支配した。ロッシは同じアプリリアの先輩である原田とカピロッシが展開するチャンピオン争いに割って入り、カピロッシに23ポイント差のランキング2位となる。原田とカピロッシの抜けた翌1999年は5度のポールポジション、9勝を挙げてホンダの宇川徹を下し、チャンピオンを獲得した。 翌2000年、ロッシはホンダに移籍し、最高峰の500ccクラスにステップアップする。ホンダは実質ワークス格のチーム、ナストロ・アズーロ・ホンダを結成し、前年までマイケル・ドゥーハンのチーフエンジニアであり、GP界で数々のチャンピオンを生み出したジェレミー・バージェスを起用するという、500ccルーキーとしては破格の待遇でロッシを迎えた。500cc参戦初年度のこの年、ロッシは最新型ホンダNSR500を駆り大いに注目を集めたが、シーズン序盤は転倒が目立った。シーズンが進むにつれ安定感が現れ、中盤のイギリスGPで初優勝する。この年はまた、マックス・ビアッジと対峙した最初の年でもあった。ロッシはビアッジに対して9戦で順位が上回ったが、優勝はイギリスとブラジルでの2勝で、4勝を挙げたケニー・ロバーツ・ジュニアに次いでランキング2位を獲得した。また、日本メーカーであるホンダに移籍したことから、出場を望んでいた鈴鹿8耐にも参戦した。コーリン・エドワーズとのペアで挑んだがリタイアに終わった。 500cc2年目の2001年、11勝を挙げて最高峰クラスでの初のタイトルを獲得、3クラス制覇の偉業を成し遂げた。ポイントは325ポイントと、2位のビアッジに106ポイント差をつけての圧勝であった。開幕戦日本GP(鈴鹿)ではホンダのWGP通算500勝目を記録している。鈴鹿8耐にはこの年も参戦、VTR1000SPWでエドワーズ、鎌田学と組んで挑み、スーパーバイクでの経験は不足していたにも関わらず、イタリア人ライダーとして初の優勝を果たした。
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