高梁川から鴨方まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/21 01:28 UTC 版)
ここでは、「鴨方往来」という街道名を踏まえ、鴨方を通らない近代の往来ではなく、近世の往来について述べることとする。 高梁川(西高梁川)を渡り、船穂地区へ渡ると、堤防道路(右岸)として県道279号が通る。その堤防下道路がかつての往来にあたる。ここからは県道60号が経路に一致していることが多いが、近年改修が進み一部は近接地に新規路線として整備されている。船穂小学校付近では、道の脇を流れていた用水路(高瀬通し)をふさぐ形で道路を拡幅している。そのまま道なりに進んで行けば長尾地区に着く。 長尾地区は、玉島湊(玉島港)から箭田を経て美袋の松山往来に接続していた「玉島往来」と交わるところであり、古い町並みが残る。新幹線の高架付近までが長尾地区の中心であった。この付近の県道60号は、山陽自動車道との接続道路として路線が新設されたため、かつての往来は倉敷市道となっており、新幹線の高架手前を右折し、新しく整備された県道60号と交差(左折するとJR新倉敷駅〔旧玉島駅〕)した後、県道60号の北側を並行して進む。 中世までの海岸線はこのあたりであり、鴨方へと続くJR山陽本線付近の低地は水道を呈する海であった。そして亀山(由来は<甕(かめ)(亀)山焼>: 須恵器の流れを継ぐものとされ、特に鎌倉時代から室町時代前半にかけての約200年間に、大量に生産されここから搬出された。) から道口一帯の入江は、「甕の泊(もたいのとまり)」とよばれ、藤戸海峡(児島の北端)から連島の北を通り、甕の泊へと続く航路があった。ちなみに、「道口の津」からは山陽道矢掛宿へと続く富峠を越えの「矢掛往来」(矢掛側では「玉島往来」と呼ばれていた。)があることから、文字通り「道の口」に由来する地名と思われる。山陽道側には猿掛山(庄氏の本拠地)があり、当時この一帯を支配下におくことは重要な意味を持つものであったはずである。 富田地区で県道35号(県道60号重複)の路線上となり、富峠へ向かわずに富田橋北交差点を左折し(山あいをぬけると金光町下竹地区に続く。一部断続的に拡幅作業が続いているが、金光竹小学校の前を通る路線がかつての往来である。そのまま金光学園を左手に見ながら進むと、最初の角からやや右手に曲がる小道がありそちらに続く。やがて県道60号にあと少しのところまで道はせまるが、ため池などのそばを西へ向かう。県道155号との交差後はふたたび県道60号となり、鴨山の麓を目指して西進し里見川の支流(鴨方川)を渡ると、いわゆる鴨方の旧陣屋街(本町地区)に入る。このあたりで道筋は幾度も折れ曲がる桝形を残し、陣屋の中心地であった事を思いおこさせる。手前は三日市と呼ばれた商工業の集積地であったが、現在は商店もまばらである。 陣屋の遺構としては、石垣・井戸がわずかに認められる。 現地案内板(浅口市文化財保護委員会による)の説明として、陣屋絵図に、表御門、溜長屋、御座敷、吟味場、御囲米御蔵、牢番詰所等の建物が描かれ、屋敷は東西約56.8m、南北約32.7mであることが記されている。
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