馬券発売と根岸競馬場の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 18:19 UTC 版)
「横浜競馬場」の記事における「馬券発売と根岸競馬場の繁栄」の解説
根岸競馬場は居留地内にあったことから、治外法権が適用されていたため、当時日本の刑法では禁止されていた賭博が当初から公然と行われていた。初期の賭式は「ガラ」と通称されるロッタリー方式や、現在も外国で広く採用されているブックメーカー方式が行われていたが、ロッタリー方式ではごくわずかな収益が主催者に支払われるだけで、大半はロッタリー主催者の収益となっていたため、多くの競馬場が慢性的な赤字運営であった。競馬を開催するためには広大な競馬場のコース維持コストに加え、高価な競走馬を集めるために高額の賞金を用意しなければならないなど、多額の資金を必要とすることから、1888年(明治21年)には現在の中央競馬・地方競馬をはじめ日本国内の公営競技で幅広く採用されているパリミュチュエル方式馬券の発売が本格的に行われるようになった。パリミュチュエル方式は主催者やオーナーによる不正の排除が容易であることに加え、主催者の収益がレース結果に左右されないため、購入者も安心して馬券を購入できるうえ、主催者にも安定した多額の収益をもたらすこととなった。 主催者の日本レース・クラブが自ら馬券を売り、売上からもたらされた利益を貯蓄していくにつれて、それまで経済力のある内外の会員と明治政府の援助に頼っていた財政基盤を自ら確立することとなり、他の競馬場が解散する中でオーストラリアから洋種馬(豪サラ)を輸入するなど、根岸競馬場は独自の発展を遂げていった。日本レース・クラブは根岸競馬場周辺の土地も買収してゆき、1906年(明治39年)には日本で3番目、東日本では初となるゴルフ場を建設。これは日本初の芝グリーンを有するゴルフ場となった。あわせてゴルフ場の管理・運営を目的に「日本レースクラブゴルフアソシエーション」を設立した。1906年(明治39年)に根岸以外の競馬場でも馬券発売が黙許されたことで、翌年から全国で競馬ブームが巻き起こった。 馬券発売の黙許によって各地に競馬場が作られたが、運営する組織の中には営利追求に走り不正を行う者もあったため、1907年(明治40年)10月5日に施行された刑法で馬券の発売が禁止されると、政府からの補助金による競馬(補助金競馬)が細々と続けられた。この間も日本レース・クラブは補助金を受けずに独立運営を続け、ゴルフ場の収益が財政を下支えした。1909年(明治42年)にはロシアの競馬倶楽部と日本レース・クラブの共催でウラジオストクにて行われた日露大競馬会に多数の人馬が遠征、これが日本調教馬による初の海外遠征とされている。1912年(大正元年)には日本レース・クラブの会員がそれぞれ資金を出し合い「コロネル・ボギー」という仮定名称で競走馬を共同所有するようになり、現在の「一口馬主・クラブ馬主」の先駆けとなった。補助金競馬は(旧)競馬法が1923年(大正12年)に成立し、馬券の発売が公認されるまで続いた。(旧)競馬法の成立後には全国で11の競馬倶楽部が組織され、公認競馬を行うようになった。根岸競馬場でも日本レース・クラブが主催する公認競馬を行っていたが、同年に発生した関東大震災により秋季根岸競馬の開催は見送られ、翌年春に再開された。関東大震災で半壊したスタンドは仮設のバラックを経て1929年(昭和4年)から新築工事が行われ、一等馬見所・二等馬見所などの諸施設が完成した。
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