首狩りの意義と頭蓋骨の行方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「首狩りの意義と頭蓋骨の行方」の解説
宮国文雄は人の首を狩る習慣はあったとしており、その意味についても述べている。例えば、狩りとった首の多さでその村が栄えると信じられたとか、他の部族より優位性が示されたという。狩りとった首級は祭壇近くに棚を造り、その棚に並べ、放置して、白骨の頭蓋骨になっても晒したという。遭難者が被害にあった集落は、牡丹社であった確証はないという見解もある。首狩り後の遺体から、人肉を食った形跡はないといわれる。首級は切っても、食べるために一部は切り取っていないからだという。大浜郁子は、宮古島には野埼真佐利という人物のアホラ島への漂流譚が同島に伝承されていた可能性が高く、琉球より南の島に人食い島があるとの伝説を知っていた宮古島からの遭難者たちが、原住民の集落を逃走した原因である可能性を指摘している。ちなみに、伊能嘉矩は、アホラ島を台湾東部のアミ族の集落であったと推測していたことを、大浜が明らかにしている。 台湾出兵の後、日本に反感を持っていた台湾府の役人周有基は加知來(かちらい)の頭目温朱雷をそそのかして頭蓋骨を入手させようとした。欲に目がくらんだ温は、大胆にも牡丹社から頭蓋骨を盗みだした。この情報を得た林阿九らが、輸送中の温に会い日本軍に提出するように説得した。彼は説得に応じ、竹かごに入れた頭蓋骨44個を日本軍に提出した。褒美として温は金30円などを得た。その後、三社の頭目が出頭したので投降を許した。不足の10個は発見できなかった。この理由を蕃人のささやかな抵抗であろうとした文献もある。 歴史家、眞境名安與は、殺戮に関して、生蕃にははじめ殺意はなく、何人かを確かめるために漢人と筆談を試みてもついにその国名がわからなかったので殺戮することに決したのだろうとする。難民が逃亡せしをもって、今は猶予すべきでなく殺戮を決行したようだ。大浜郁子は、「台湾出兵」に先立ち、樺山資紀と水野遵が原住民の集落を視察した際に、多くの酒や布、肉などを持参して、頭目に面会して、情報を得ている事実や、複数の「台湾出兵」時の日本側資料から、原住民が遭難者たちを保護した、蕃産物交換業者の凌老生に、酒2樽と遭難者たちの交換を要求したが、あいにく凌にはそれだけの酒の用意がなかったため、要求に応じることができず、原住民は首狩りをして、首級を持ち去ったという「人物(ひともの)交換不成立説」を提起している。これに対し、宮国文雄は、酒樽2樽を要求したのは他の集落からの加勢も考慮したものであるに過ぎず、最初から殺戮を計画していた可能性を指摘している。
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