首狩は当時台湾にあったか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「首狩は当時台湾にあったか」の解説
鹿児島県参事、大山綱良が明治政府に出した「上陳書付属書類」によると、仲本筑登之と島袋筑登之両人の話として「殺した人の肉を食うという説もあり、また脳をとりだして薬用にするという説もある」と書いている。 別の文献には、生蕃の現地人はその性質が非常に残忍であり、人肉食の習慣がある、18の部落からなり、その中で牡丹社というのが、特に残忍であった、とある。 また台湾原住民(タオ族全体とアミ族の一部を除く)には、敵対部落や異種族の首を狩る風習がかつてあったという記述もある。これを台湾の漢民族や日本人は「出草(しゅっそう)」と呼んだ。その名の通り、草むらに隠れ、背後から襲撃して頭部切断に及ぶ行為である。なお、出草については、一部の蛮人が晩秋から初冬にかけて、鹿狩りをすることをいうという説明もある。 これは、文化も言語も全く隔絶した十数もの原住民族集団が、それぞれ全く交流することなく狭い台湾島内にモザイク状に並存していたため、互いに異なる部族への警戒感が強かったことによるとされる。
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