非合法神学校から枢機卿へとは? わかりやすく解説

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非合法神学校から枢機卿へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:05 UTC 版)

ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の記事における「非合法神学校から枢機卿へ」の解説

カロル・ヴォイティワ1920年クラクフ近郊ヴァドヴィツェに父カロル、母エミリアの間に次男として生まれた。父カロルハプスブルク家軍隊仕えたこともある退役軍人であったヴォイティワ若くして家族喪失体験した8歳で母を、11歳で兄を、さらに20歳で父を失った当時ヴォイティワ戦前クラクフユダヤ人社会親しんでいたが、そのことが後に教皇として姿勢影響与えることになる。 1939年ヴォイティワ19歳のときにナチス・ドイツポーランド侵攻によってポーランド占領されたことで、ヴォイティワ学んでいた大学閉鎖されたため、鉱山工場働きながら勉学続け同時に地下演劇俳優脚本家としても活動していた。 ヴォイティワ第二次世界大戦中1943年聖職者として生きること決意したが、共産主義政権下で神学校運営禁止されていたため、非合法地下神学校入り1946年11月1日司祭叙階された。 優秀だったヴォイティワは、司教推薦ローマ教皇庁立アンジェリクム神学大学送られ、そこで学んだ1948年には十字架の聖ヨハネ著作における信仰概念についての研究神学博士号を取得している。また、ヴォイティワこの年ポーランド戻りクラクフ教区司祭としての職務果たした1953年ヴォイティワは『カトリック倫理マックス・シェーラー倫理体系によって基礎づけることの可能性についての評価』と題する学位論文をルブリン・カトリック大学提出その後クラクフヤギェウォ大学ルブリン大学神学部倫理神学教えた1958年7月4日ヴォイティワピウス12世によってクラクフ教区補佐司教任じられ9月28日叙階した。時に38歳であった1962年開始され第2バチカン公会議には、クラクフ司教および神学者として参加し、特に重要な2つ公会議文書信教の自由に関する宣言 (Dignitatis Humanae)』および『現代世界憲章 (Gaudium et spes)』の成立貢献した1964年1月13日ヴォイティワパウロ6世によってクラクフ教区大司教任命され1967年7月26日には同教皇によって枢機卿親任された。

※この「非合法神学校から枢機卿へ」の解説は、「ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
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