野球、アメリカンフットボール、バスケットボール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 01:33 UTC 版)
「ジム・ソープ」の記事における「野球、アメリカンフットボール、バスケットボール」の解説
1913年にジャイアンツと契約し、外野手としてプレーしたが3シーズンで66試合の出場に留まり.195、1本塁打、5打点と活躍できなかった。1916年はマイナーリーグ、アメリカン・アソシエーションリーグのミルウォーキー・ブルワーズでプレーした。1917年にメジャーに復帰したが、4月23日にシンシナティ・レッズへトレードされた。5月2日、レッズのフレッド・トニーとシカゴ・カブスのヒッポ・ボーンが9回までノーヒットで投げあった「ダブル・ノーヒッター」で延長10回に決勝点をあげた。8月18日に再びジャイアンツにトレードされた。1919年5月21日にボストン・ブレーブスへトレードされ、メジャーリーグでの出場はこのシーズンが最後となった。通算289試合に出場し698打数176安打、7本塁打、82打点、29盗塁、打率.252。その後1922年までマイナーリーグでプレーを続けた。 一方ソープは好きなアメリカンフットボールでもプレー、1913年にインディアナ州パインビレッジのチームでプレーした。このチームは1910年代に数年間対外試合無敗を続けた強豪チームであった。1915年にはカントン・ブルドッグスが一試合250ドル(現在の貨幣価値で約5400ドル)という当時としては破格の待遇で契約を結んだ。ソープ入団前にはカントンの観客動員は一試合平均1200人だったが、ソープが初めてカントンの選手として出場した対マシロン戦では8000人を集めた。 1916年、ソープ擁するカントン・ブルドッグスは9勝0敗1引き分けでオハイオリーグを制し、更に1917年、1919年も優勝した。伝えられるところによると、1919年のチャンピオンシップ戦で自陣5ヤード地点から風に乗って95ヤードのパントを成功させて試合を終わらせた。 1920年、カントン・ブルドッグスはアメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション(APFA)を形成する14チームの1つとなった。APFAは2年後ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)となる。ソープはAPFAの初代会長に選出されたが、実際はカントンでのプレーに専念し、1年後にはジョセフ・カーが後任の会長となった。また、カントンではプレーするだけでなくヘッドコーチとしてもチームを率いた。 1922年から1923年、ソープはラルー (オハイオ州)のオーラング・インディアンス(Oorang Indians、チーム全員がインディアン)でプレーした。1922年は3勝6敗、1923年は1勝10敗 と振るわない成績で2シーズンでチームは解散した。ソープ自身はグリーンベイ・プレス=ガゼット社選定のオールプロに選ばれた。 ソープはNFLのチャンピオンチームでプレーする機会は無く、1928年41歳で引退する まで計6チームで52試合に出場した。 2005年までジム・ソープがバスケットボールをプレーしたかどうかについては全く知られていなかった。しかしこの年古書で発見されたチケットは、バスケットボールのソープのキャリアを明らかにした。 ソープは1926年まで野球・アメリカンフットボール・バスケットボールの巡業チームを支援するラルー (オハイオ州)において代表的なインディアン選手であった。「ジム・ソープと彼の世界で有名なインディアン」は少なくとも2年間(1927-28年)ペンシルベニア州ニューヨーク、およびオハイオ州マリオンの地域で地方巡業を行った。WFIバスケットボールのユニフォームを着たソープの写真が絵葉書として発売されたり新聞に掲載されたりしたが、ソープのこの時期の記録が残っていない。
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