郷里と遊学
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天文21年1月29日(1552年2月23日)陸奥国菊田郡西郷村(現在の福島県いわき市常磐西郷町)に父・賀茂杢兵衛(法名道祐)と母・八幡氏(法名妙喜)の第3子として生まれた。幼名は徳寿丸。母は陸奥国菊多郡の能満寺の虚空蔵菩薩に祈願して妊娠を覚え、出産の際に右手を握り、37日を経て開くと掌に虚空蔵菩薩の像があったと言われる。 6歳の頃より、毎朝東に向かって日輪を拝し、暮には西に向かって仏名を称したので、両親は徳寿丸が非凡であることを知ったが、7歳のある春の夜、徳寿丸は目から光を放ったので、両親は驚き「この子は凡庸の輩ではないので、早く俗塵を脱して精舎(仏門)に入れなければ」と言って、徳寿丸の叔父にあたり、先に長子の以八上人を託していた、菊多郡の能満寺住持である存洞良要に預ける事とした。 徳寿丸は5歳で1,000文字を暗記し、6歳で五経を誦したほどの英才であったので、入寺して間も無く三経一論のほか所要の経論を大概暗記した。これに存洞も大いに期待し、永禄8年(1565年)徳寿丸14歳の時に剃髪染布して出家させ、袋中良定と名乗らせた。袋中の名は史記の平原君の語にある「賢士の世に処するや錐の袋中に在るが如く、其の末必ず見われる。」に因っている。 袋中が16歳の時、存洞は更に彼の学解を磨くため菊多郡矢目の如来寺に預け、次いで元亀2年(1571年)20歳の頃に岩城郡山崎の専称寺へ修行のため行脚させた。さらに専称寺の本山である下野国大澤の円通寺で修行し、比叡山の高僧法泉僧正に大戒の受得を懇請して聖衆来迎寺で円頓戒を授けられている。天正4年(1576年)25歳の時に江戸増上寺に入衆して浄土宗白旗派の奥義を極め、さらに足利学校において禅を学んだ。 天正8年(1580年)29歳の時に故郷の成徳寺より住持就任の懇請があった。郷里の両親も気にかかったことから、これを引き受け成徳寺13世となる。住持就任後は、郷里の教化を進めながら数点の著作物を残してる。慶長4年(1599年)48歳の時に太守岩城貞隆が袋中に深く帰仰し、城内に一宇を創して菩提院袋中寺と名付けた。関ヶ原の戦い後、岩城貞隆が改易されると、袋中寺は城外へ移され、児島菴袋中寺と名を改めている。
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