郷里と遊学とは? わかりやすく解説

郷里と遊学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 16:18 UTC 版)

袋中」の記事における「郷里と遊学」の解説

天文21年1月29日1552年2月23日陸奥国菊田郡西郷村現在の福島県いわき市常磐西郷町)に父・賀茂杢兵衛法名道祐)と母・八幡氏(法名妙喜)の第3子として生まれた幼名徳寿丸。母は陸奥国菊多郡能満寺虚空蔵菩薩祈願して妊娠覚え出産の際に右手握り37日を経て開くと掌に虚空蔵菩薩の像があったと言われる6歳の頃より、毎朝東に向かって日輪拝し、暮には西に向かって仏名称したので、両親徳寿丸非凡であることを知ったが、7歳のある春の夜徳寿丸は目から光を放ったので、両親驚きこの子凡庸の輩ではないので、早く俗塵脱して精舎仏門)に入れなければと言って徳寿丸叔父にあたり先に長子の以八上人託していた、菊多郡能満寺住持である存洞良要に預け事とした。 徳寿丸5歳で1,000文字暗記し6歳五経誦したほどの英才であったので、入寺して間も無く三経一論のほか所要経論大概暗記した。これに存洞も大い期待し永禄8年1565年徳寿丸14歳時に剃髪染布して出家させ、袋中良定と名乗らせた。袋中の名は史記平原君の語にある「賢士世に処するや錐の袋中在る如く其の末必ず見われる。」に因っている。 袋中16歳の時、存洞は更に彼の学解を磨くため菊多郡矢目如来寺預け次いで元亀2年1571年20歳の頃に岩城郡山崎専称寺修行のため行脚させた。さらに専称寺本山である下野国大澤円通寺修行し比叡山高僧法泉僧正に大戒の受得を懇請し聖衆来迎寺円頓戒授けられている。天正4年1576年25歳時に江戸増上寺に入衆して浄土宗白旗派奥義極め、さらに足利学校において禅を学んだ天正8年1580年29歳時に故郷成徳寺より住持就任懇請があった。郷里両親も気にかかったことから、これを引き受け成徳寺13世となる。住持就任後は、郷里教化進めながら数点の著作物残してる。慶長4年1599年48歳時に太守岩城貞隆袋中深く帰仰し、城内一宇を創して菩提院袋中寺名付けた関ヶ原の戦い後岩城貞隆改易されると、袋中寺城外移され児島袋中寺と名を改めている。

※この「郷里と遊学」の解説は、「袋中」の解説の一部です。
「郷里と遊学」を含む「袋中」の記事については、「袋中」の概要を参照ください。

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