郷里と東京の間で
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明治27年(1894年)、のちの河北新報の主筆・編集局長の藤原相之助夫婦の世話で石田きちと結婚。 明治29年(1896年)、長女コウが生まれる。小圃六一らが結成した青年美術会に「三日月耕年」の名で揮毫席に座り、技能を披露。 明治30年(1897年)1月17日に、『河北新報』が創刊されると、創刊号から新聞小説の挿絵を担当。 明治36年(1903年)、大阪での第5回内国勧業博覧会に作品「智仁勇」で入選。明治39年(1906年)、一家をあげて(柴田耕洋、石川桂堂を連れて)上京、尾形月耕に再入門する。 明治41年(1908年)、帰郷中の夫人が死去、急遽仙台に戻る。このとき門人たちが、耕年の慰撫と夫人の慰霊のために書画会を開いている。同年秋、東宮(後の大正天皇)行啓。仙台12画家のひとりとして、宮城県下の24景勝地のうち、耕年は「榴ヶ岡」と「愛宕山」を描く。11月にはその画家たちが五城館で記念画会を開き、耕年も参加。また、仙台市長和達孚嘉の委嘱を受け、仙台百景を写しこれを献納。 明治42年6月、本郷座で「画家演芸」に参加するも大損に終わる。 明治43年、埼玉県知事島田剛太郎に額面を寄贈し、感謝状と木杯を受ける。 大正4年(1915年)2月4日、五十嵐ミヤと結婚。ミヤとの間に、長男信雄と次女麻が生まれている。同年11月10日(大正天皇の御即位大典の日)、東京淀橋の聖書学院内にて浸礼を受ける。 大正7年(1918年)7月、再び「画家演芸」に参加。 大正8年、『通俗基督教文庫』(福音普及会刊)にて挿絵を担当。
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