郷里の後進を支援
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晩年は郷里長野県出身の後進への支援に熱心であった。戦後焼け野原になった東京での就学環境は劣悪で特に住宅不足が社会的問題であった。そこで長野県出身者で東京に就学する学生への支援を目的として、県出身子弟の陸海軍将校育成支援機関だった「信武会」を解消し、その財産を基礎として1947年12月財団法人信濃育英会を設立。小林は常務理事に就任した。同会の主要事業は県人寮「信濃学寮」の運営であったが、入寮者が確保できず経営は不安定で、小林は長野県政財界の間を奔走し協力を求めた。1951年副理事長、1957年理事長に就任。同年に小平市の自宅敷地のうち600坪を育英会に譲渡し、鉄筋コンクリート3階建、洋室50室、学生100人収容の「小平寮」を建設。その運営にあたった。こうした育英活動への尽力は、みずからが鹿児島の第七高等学校時代に体験した、中央の薩摩閥から郷党への支援の手厚さが影響したとも考えられる。 1967年7月2日、脳軟化症のため小平市の自宅で死去。多摩霊園に墓がある。
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