避難所などの様子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 01:20 UTC 版)
「高田町 (陸前高田市)」の記事における「避難所などの様子」の解説
陸前高田市立第一中学校1,000人以上の避難者が逃れてきた。 貯水タンクに約2,000リットルの水が蓄えられいたが、食料はなかったため、気仙郡住田町などから、おにぎりが届くまでは食事は提供されなかった。 3月14日に電気が復旧するも水道は復旧されなかったため、暫くはトイレをする時は仮設トイレを使用することになった。 陸前高田市立高田小学校全学年の生徒が学校におり、ひとまず校庭へと避難した。後に教職員が津波が町に押し寄せている様子を確認し、すぐさま、ばらばらに和野会館などへと避難した。このため、全ての生徒の引き渡しが終わるのに一週間を費やした。 和野会館最大300名が避難し、避難所として閉鎖するまで、延べ4,544人が避難していた。 上和野町内会と震災のおこる前年に設立された自主防災会が中心となって避難所運営を行った。なお、自主防災会は有事に備えて日頃から避難訓練を行っていたため、自主防災計画に則って、消火、避難誘導・情報伝達、救出・救護、給水・炊き出しの四班を編成して、比較的迅速な対応を取ることができた。 小泉公民館報道機関の対応は玄関で役員が行っていたが、報道機関が事前に相談なく勝手に撮影をすることが問題視された。 遺体収容班、危険物除去班、給食給水班、衛生医療班を編成し避難所を運営した。 スポーツドーム本来、スポーツドームは指定避難所に指定されていなかったものの、100人をこえる避難者がいた。指定避難所に指定されていなかったが為に、避難者らは市役所からの人材派遣は望めないと考え、自主的運営組織を編成して避難者を運営した。 高田保育場地震が発生した時、児童は昼寝の時間であったため、布団を被らせて身を守った後に保護者の迎えがあった児童を保護者に引き渡した。 海側から土埃を確認したため、保育所の所長が避難指示を出し、高台へと避難した。なお、全員の児童を保護者へと引き渡したことを確認した後に正規職員たちは近隣の避難所へと物資を輸送する業務を受け持った。 なお、高田保育所は津波により、浸水した。 高田幼稚園地震が発生した当日は卒園式の準備のため、園児はおらず、職員のみがいた。職員たちは津波の存在を確認し、陸前高田市立第一中学校へと避難した。 なお、高田幼稚園は津波により、浸水した。 岩手県立高田病院2階会議室を避難所に、1階を対策本部にして、津波警報などの情報を収集することを試みたが、停電が発生したためにテレビやラジオが機能せず、情報獲得は市の防災無線を頼った。 防災無線から襲来する津波が3m以上であるという情報を得て、より上の階へと逃げたが、津波は4階へと到達し、職員や避難者たちは屋上へと避難した。 3月12日に屋上へと避難していた人々が海上自衛隊により救助された。なお、病院職員11名、患者15名が犠牲となった。
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