避難所の設営、救援体制の構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 00:13 UTC 版)
「北の大火」の記事における「避難所の設営、救援体制の構築」の解説
陣頭指揮を執った山下重威大阪市長 災害対策本部となった中之島公会堂 火事の規模が拡大していく中で、自宅を焼け出されてしまう被災者が数多く発生した。火災発生後まず大阪市長の山下重威は、北区役所に出張して災害対策の陣頭指揮を執り、2、3ヵ所の料理店に炊き出しを命じ、避難民に供給する業務を開始した。しかし火災は北区役所に延焼したため、その後中之島公会堂を災害対策本部とした。 火災の勢いが収まりを見せない中、7月31日の午前8時半には地域の寺院、小学校を救護所に指定し、その地域の小学校校長を救護所の責任者として市職員を救護所の運営のために派遣することにした。救護所では食事を得られない被災者のために炊き出しを実施したり、商人に食料の調達を命じたりしたが、火災が拡大するにつれて救護所の数も拡大していった。しかし前述のように北区役所の焼失など公的機関の被災によってその対策に人員を取られ、そして市職員自体も被災する事態も相次いだため、避難所運営に携わる人員が著しく不足してしまう。 山下市長は7月31日の午後11時30分に市職員の大動員をかけた。8月1日早朝には助役を総長とする救護団を組織して、被災者の避難所への収容、治療、食糧確保などの業務に当たることになった。7月31日の夜からは支援物資も大阪市に寄せられるようになり、その後も続々と支援の手が差し伸べられるようになった。救護所には大阪市側ばかりではなく、歩兵第8連隊、歩兵第37連隊、大阪衛戍病院といった陸軍の手によっても開設され、軍医などが派遣された。 火災中から開設が始まった収容施設は臨時的なものであったため、1908年(明治41年)3月にペスト流行のために開設されていた、大阪府立木津川隔離所を整備して収容所とすることを決定した。8月16日から17日にかけて、被災者は木津川収容所に移動することになった。木津川収容所では被災者の収容のほか、職業斡旋、寄付金関連の業務を行った。また尋常小学校と幼稚園、療養所も併設された。 北の大火に際して寄せられた義捐金は、総額739341円53銭6厘となった。また明治天皇、皇后からは12,000円が下賜され、侍従を大阪市に被害状況の把握のために派遣した。義捐金は9月28日に行われた火災義捐金処分委員会の決定によって、多額の保険金を受けた人物、高収入者、土地所有者を除き、困窮状態に応じて配分されることになった。また義捐金ばかりではなく、陸軍省から糒、牛肉の缶詰、食塩が救援物資として送られるなど、多くの救援物資が大阪に送られてきた。これら救援物資は義捐金の配分決定後、被災者に配分されることになった。 また警察は火災の最中、そして火災後の被災地に多くの巡査を防犯のために配置した。そのため、北の大火では火災中から火災後の被災地において、窃盗犯を14名逮捕したのみで、火災に絡む犯罪の発生は極めて少なかった。
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