過去の主要な寄席(浪曲定席中心)
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「浪曲」の記事における「過去の主要な寄席(浪曲定席中心)」の解説
京山亭 - 四谷の山本亭を京山大教が買い取り改名。(M39山本亭) 虎丸亭 - 初代虎丸東京進出のために同郷の人間が作る。小菅一夫に拠れば、浅草猿若町。 神田・錦輝館 - 貸席。日本の映画史に登場する。浪花節初の合同演芸会の会場 大ろじ - 東京日本橋・葦屋町。大円朝も出た大店。明治30年頃は浪花節を多く出す。 都川亭 - 本所区外手町(現・墨田区石原) 市場亭 - 東京神田美土代町3-1。またの名を「本市場」。席主・奥津万吉。関西(から進出)派の拠点。愛進舎から神田組へ。凱旋後の雲右衛門が買収・改装した後、神田「入道館」→雲の没後三代目鼈甲斎虎丸の手に渡り「民衆座」。定員は700人、寄席としては巨大レベル。(M39)(T15)(現在ベルサール神田の角の位置) 新恵比寿亭 - 東京浅草ちんや横丁。明治24年築。浪花亭駒吉を中心とする関東派の拠点。午前10時から夜11時まで、毎日営業。1人持ち時間40分。共盛会から浅草組へ。席数257。席主・中沢源之助。大正3年まで営業を確認。 伊皿子亭 - 東京・芝。関西組の拠点の一つ。芝区伊皿子40。後に「万盛館」。 栄寿亭 - 芝烏森 愛造『美声絃入り講談』の看板(M39) 東京亭 - 日本橋南伝馬町34。愛造が変調を来たした場所(漫語) 天満・国光席本席(くにみつせき) - 明治16年に浮かれ節の定席としてできた天満天神裏・吉川館が改称。原惣兵衛。定員400人。第二次大戦の空襲で焼けた。 松島・広沢館 - 広沢虎吉(井上晴夢)が経営しチェーン化した。220席。吉本に買収される。 千日前・愛進亭(または愛進館) - 大阪市内各地に第一(南千日前、200席)から第四まである寄席チェーンであった。持ち主は井谷亀之助。終戦前は初代日吉川秋水の弟の南条一が館主。1910年(明治43年)10月に娘義太夫の大阪における一番の定席、播重席を買収し第五愛進亭と改名するが、引き続き娘義太夫を興行。その後曲折があり、昭和4年の「入場料調査」では浪花節でカウントされ、そのころ浪花節定席に変わる。 喜楽席 - 堺市。広沢瓢右衛門の初舞台の席。 寿亭 - 横浜・伊勢佐木町。関外伊勢佐木町方面を縄張りとする沢野巳之助が経営。 二山亭-青山通り(現246)沿い(M39) 廣川亭 - 深川・冨吉町(M39) 浪花館 - 深川・富川町(M39)(T15) 桜館 - 深川・黒江町(M39)(T15) 広尾亭 - 麻布・広尾(M39)(T15) 福槌 - 麻布・宮下町(M39)(T15) 喜扇亭 - 日本橋人形町。 浦安亭 - 千葉県南葛飾郡浦安町。堀江185番地。許可番号1号。明治43年。間口5間、奥行8間、定員350名。山本周五郎の『青べか物語』にある浦粕亭のモデル。漁師町。客の気性が荒いことで名が知られ、近所にある先んじてあったが無許可の「堀川亭」→間もなく焼けて、1910年建て替えた「演技館」(定員600名)と共に、浪曲に限らずデロレン祭文、落語なども行われた。昭和40年取り壊し。 花岩亭 - 本所・緑町(M3)(T15)終戦まで。 金車亭 - 東京浅草。一流が集う講釈場だったが昭和11年暮、浪花節席に変わった。浅草1-40-5。 住吉亭 - 南條文若(後の三波春夫)デビューの場。 栗友亭 - 南千住コツ通り。戦後、ラジオ東京「浪曲天狗道場」ヒットの時期に浪曲定席として開けるが時期は短い。
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