遊廓移転 - 売春防止法施行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:02 UTC 版)
「新宿二丁目」の記事における「遊廓移転 - 売春防止法施行」の解説
移転作業は1921年(大正10年)頃に一旦完了するが、同年3月に新宿三丁目を火元とする新宿大火により太宗寺の手前まで延焼し、移転した遊廓は火事で焼失してしまう。これにより道路拡張や仲通りの建設など都市整備が計画され、遊廓は1923年(大正12年)に再建され、「新宿遊廓」と呼ばれるようになった。 1923年(大正12年)の関東大震災により、吉原や洲崎等の遊廓はほとんど焼けてしまい、被害を受けなかった新宿遊廓は全盛期を迎える。東京の人口が西に拡大したことによる新宿駅近辺の繁栄、折からの近代化によるサラリーマン層の増加とあいまって、新宿遊廓はインテリ層やサラリーマンを対象とした「モダン遊廓」として大いに受けた。この頃「二丁目」といえば新宿遊廓を指したのである。 しかし新宿遊廓は、1945年(昭和20年)戦災により焼失してしまった。終戦後の1946年(昭和21年)、GHQによる公娼廃止指令により公娼制度が廃止された。しかし、いわゆる赤線地帯として生き残り、風俗営業法の許可を受け、特殊飲食店(カフェー)として売春業は存続することとなった。 赤線地帯は道路整備等の関係で「新宿遊廓」時代の範囲より狭くなり、現在の新宿二丁目北西部の約100メートル四方の場所に所在し、約100軒のカフェーが営業していた(その南側には風俗営業法の許可を受けていないモグリの店もあり、これは青線と呼ばれた)。客層はサラリーマンや学生等が多かったという。この時代の二丁目は、吉行淳之介の「驟雨」や五木寛之の「青春の門」など小説の舞台になっている。 昭和22年に、現在の2丁目の西側の通りと新宿通り沿いに都電が開通し、昭和27年(1952年)には太宗寺とその周辺で本格的な区画整理が行われた。 1958年(昭和33年)、売春防止法の完全施行(1957年は部分施行)により、「赤線(旧遊廓)の街」としての旧新宿二丁目は幕を閉じることとなり、1960年代後半〜1980年代前半には旅館や飲食店、ヌードスタジオ、トルコ風呂(ソープランド。現在も数軒営業中)などが点在する地域になった。その後旅館のほとんどはビジネスホテルなどにその姿を変え、旧新宿二丁目西端(現新宿三丁目東端)エリアは「要町」と呼ばれる、「要通り」や「末広通り」などを有する都内屈指の飲み屋街となった。1973年(昭和48年)1月1日に住居表示施行により御苑大通りを新たな丁目の境界とし、「要町」エリアは新宿三丁目に編入される一方、新宿一丁目の西側の一部が新宿二丁目となった。1978年(昭和48年)1月1日に靖国通り北側のエリアが番衆町と合わせて新宿五丁目となり、現在の新宿二丁目の範囲が成立した。
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