遊廓の教育施設としての「女紅場」とは? わかりやすく解説

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遊廓の教育施設としての「女紅場」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 16:33 UTC 版)

女紅場」の記事における「遊廓の教育施設としての「女紅場」」の解説

芸妓娼妓教育を行う「女紅場」は、明治5年1872年)の「芸娼妓解放令」を契機として、女性たち遊廓出て正業」で自立する際に必要な知識女紅技術授ける「更生施設」として登場したこうした女紅場について京都府勧業課は「遊所女紅場」と分類しており、教育史研究上でもこの名称が用いられる遊廓授産施設としての女紅場初め登場したのも京都市で、1875年明治6年)に祇園貸座敷主たちが中心となって婦女職工立会社」を開設運営し、翌1876年明治7年)には読み書き算術指導をも加えて女紅場八坂女紅場祇園女紅場とも)と改称した各地遊廓にも「女紅場という名の教育機関広がっていくが、女紅場運営費用芸娼妓負担であるなどの事情から、長続きしない事例もある。 函館場合は、芸娼妓の「正業」への転換奨励している函館支庁が「女工授産場」の設立働きかけ1878年明治11年)に女紅場開場した本科として「工芸」(裁縫紡織洗濯)、余科として「学業」を教授するというもので、新聞広告出して市民からの洗濯依頼を受け、実習収益兼ねということ行われていた。しかし本業をこなしながら余暇日中に5時間登場することはかなり負担大きかった(特に洗濯重労働で、その日は手が震えて三味線弾けないほどであったという)。少なからぬ生徒読み書き裁縫技術を身につけたとされるなど、成果がないわけではないが、罰則付き出場督促が行われるなど、芸娼妓たちの実情無視した行政サイド施設とも指摘されるところである。慢性的な経営難にも悩まされており、1887年明治20年)に函館の女紅場は廃止された。 21世紀初頭の現在も「女紅場」の名を有する組織として、京都花街である祇園甲部の「祇園町南側地区」にある「八坂女紅場学園やさかにょこうばがくえん)」がある。婦女職工立会社・八坂女紅場(の運営組織)をルーツとする組織で、祇園町南側地区土地共同所有し、舞妓芸妓教育にあたるなど、花街運営中核組織である。「八坂女紅場学園」は法人名学校法人)であり、この法人設置している学校の名は「祇園女子技芸学校」というが、しばしば混同され学校が「女紅場」と呼ばれるという。この学校は、芸妓舞妓対象として、舞踊三味線といった芸事や、茶道書道などを教授している。なお、祇園では「女紅場」を「にょこば」、「にょうこば」と読むという。

※この「遊廓の教育施設としての「女紅場」」の解説は、「女紅場」の解説の一部です。
「遊廓の教育施設としての「女紅場」」を含む「女紅場」の記事については、「女紅場」の概要を参照ください。

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