遊廓時代の新むつ旅館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:32 UTC 版)
蔵を解体された際に発見された梁の組木に1907年(明治40年)頃の料金等が記されており、現在も貴重な資料として保管されている。明治時代末期の料金は以下の通り。 区分・等級料金1等 2円 2等 1円65銭 3等 1円35銭 芸妓 25銭(1時間) 娼妓(1等) 75銭 娼妓(2等) 75銭 娼妓(3等) 40銭 ※遊興料1等2円とは別に花代が55銭料金が加算される。 新陸奥楼にいる芸者は地元出身、娼妓は他地方出身者が多く、明治40年当時は芸妓・娼妓で計5人がいた。屋号は初代の店主「さわえ」の「え」を取り「まるにさ」としていた。遊郭当時の顧客名簿も保存されている。以前は実物の顧客名簿を手に取ることが出来たが、現在はデジタル高精度コピーにより質感も再現された複製の顧客名簿の閲覧が可能となっている。 なお、新陸奥楼も含めた小中野遊廓は出稼ぎ漁夫を中心ににぎわっており、1917年(大正6年)時点では小中野地区全体で遊女屋が34軒、花魁の人数が84名、年間来客数39,400人、花魁の揚げ代が当時の金で年間40,742円96銭となっている。
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