遅咲きの鉄人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 17:17 UTC 版)
島田信廣は「鉄人」と謳われ、1990年代に輝かしい戦績を残した名選手である。 かつては社会人として普通に働いていたが、1973年にオートレース選手としてデビューした。配属となった船橋オートレース場は当時、島田と同い年でありながら先にデビューを果たしていた「ミスター・オート」飯塚将光の独擅場が長らく続いていた。このスーパースターの影に隠れ、島田がトップに君臨するには長い時間を要した。しかし、主力の1級2気筒車がトライアンフからフジへ変わっていった頃、フジに乗り換えた島田は一気に全国区に登り詰めることとなる。 初めてSGを制覇したのは、1990年のスーパースター王座決定戦だった。その時既に39歳で、中堅からベテランへと移っていく年齢であった。しかしその後、島田は前人未到の同一SG5連覇を果たしたのである。飯塚将光が樹立した日本選手権オートレースV6という記録は連覇ではなく、第9、10、15、18、19、21回と間を置いての記録であり、島田が打ち立てたこの記録は未だに破られていない。他にも、全日本選抜オートレース6回、日本選手権オートレース2回、オールスターオートレースを1回優勝した。1994年に優勝したオールスターオートレースでは、1着入線の田代祐一が審議対象となって20分にも及ぶ審議の結果失格となり、繰り上がって島田が優勝した大会だったが、この優勝によって、初のSGグランドスラム(当時4SG)を達成した。 整備の鬼としても有名であったが、トライアンフ全盛期の頃は「自分の整備が疎かだった」と述懐している。また、トライアンフやメグロ二気筒の頃は意外にも雨走路を苦手としていた。ところが、1987年の第1回スーパースター王座決定戦がきっかけで島田は猛烈な成長を遂げることとなる。当時のスーパースター王座決定戦は最終日の一発勝負だったため、王座決定戦出場選手は4日間練習走行のみを行うこととなっていた。その4日間は連日晴れで、島田はかなりの好調を誇っていた。しかし、最終日はなんと雨。それも、試走が終わるか終わらないかというところで降り出したのだ。当時まだ雨が巧くなかった島田は、晴タイヤを着けていたこともあって惨敗。優勝したのは飯塚の桝崎正で、ただ一人雨タイヤを履いて出走していた。この敗北に島田は「4日間一体何をやってたんだ!」と大いに嘆いた。そして、奮起した島田は同期で親友でもある釜本憲司(川口オートレース場所属)に雨での走り方を習ったのである。これがきっかけとなり、島田は晴雨関係なく強い選手へと進化を遂げたのだ。また、多くのベテラン選手がセアの移行に際して苦しむ中、島田はいとも簡単にセアに順応した乗り方になっていた。無論実際はそんなに簡単な話ではなく、セア移行直後の第25回日本選手権に照準を合わせてフォームの改良を行い、相当な練習を行っていたのである。多くのベテランレーサーがセアへの乗り換えで苦戦を強いられた中、セアに乗り換わってからも変わらぬ強さを維持し続けた島田は稀有な選手であると言えた。そして、こうした弛まぬ努力は、島田を若手選手達にとっての巨大な障壁へと進化させていったのである。 選手生活自体は29年間と平均的な選手よりもやや短いくらいだったが、全盛期と言うべき時期が40歳代直前から10数年に亘るという、オートレース界のみならず、公営競技界全体としても非常に珍しい遅咲きの選手であった。そこから「鉄人」という異名で呼ばれることとなった。
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