ミスター・オート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 03:00 UTC 版)
飯塚将光は「ミスター・オート」と讃えられた。オートの神様広瀬登喜夫とともに、オートレースを語る上で避けることの出来ない人物である。 飯塚はトライアンフ(以下"トラ"と表記)がオートレースで席巻していた時代に最も強い選手として君臨した。トラは整備が大変複雑で、乗りこなすのもまた難しいというエンジンだった。実際、同期の篠崎実(9期、川口オートレース場所属)はトラには適応出来ず、メグロ二気筒へ乗り換えた。当時徒弟制だったオートレースで規定の乗車年月を超えても師匠の許しが出ないと大排気量のエンジンへ乗り換えは叶わなかったが、飯塚は3級車3年→2級車1年→1級車単気筒1年と最短ペースでトラに乗り替わったのである。そして、まるでトラの細かい癖までも熟知しているかのような整備と、それまで誰も試みなかったトラによる「外角走法」で、飯塚は船橋はおろか、全国でも最強と言われる程の選手へと進化したのである。 飯塚のトラ時代の競走車呼名としては、「ホージョウ」が代表的であった。この「ホージョウ」という呼名は、元は飯塚の師匠であった須之内哲也(2期。元船橋オートレース場所属)選手が「ホウジョウ」という呼名で使用していたもので、落車事故により半身不随の重傷を負い引退を余儀なくされた師匠からその「ホウジョウ」号を譲り受けたのがそもそもの始まりである。それ以前は「ガーファンクル」や「キャロル」という車名があったが、飯塚自身はこの北条早雲に代表される北条氏の「北条」に由来した「ホージョウ」という名を好み(当初は北条氏のこととは知らなかった)、「ベルホージョウ」や「ホージョウ25」というふうにアレンジを加えて使用していた。
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