近世・宇土城とは? わかりやすく解説

近世・宇土城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:21 UTC 版)

宇土城」の記事における「近世・宇土城」の解説

天正16年1588年小西行長は、肥後国宇土郡益城郡八代郡あわせて175,000石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13mの城山宇土市古城町)に城地移し新城を築く計画立てた。しかし、普請に際して天草国人衆助力拒否したことから天草国人一揆生じたため、実際普請開始は翌天正17年1589年)頃からと見られている。 行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷城下町水堀運河によって一体的結合されることで「惣構」を形成するという防御的性格有していたことが、市内各所発掘調査によって明らかになりつつある。 慶長5年1600年7月上方出陣していた行長が西軍石田方)に呼応すると、加藤清正徳川家康から8月12日付で肥後筑後切り取り次第御内書取り付ける9月15日清正豊前国黒田如水応援のため豊後国出陣した。しかし、豊後戦線が如優位になると直ちに軍を反転し宇土城攻撃取りかかる9月19日前哨戦である石ノ瀬口戦闘始まり、翌20日城下での戦闘経て同日清正宇土到着し21日には5方向からの惣攻め開始される10月2日には三ノ丸まで抜かれ本丸二ノ丸攻防戦入っているが、10月13日城代小西隼人宇土城開城合意し14日実際に執り行われたのではないかとされている。 清正は、宇土城自身隠居城と定め、おもに主曲輪改修行ったが、清正慶長16年1611年)に死去すると、翌慶長17年1612年)、水俣城矢部城とともに破却された。熊本城宇土櫓は、かつては宇土城天守閣移築したとの説があったが、平成元年解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されている。 寛永9年1632年)、2代加藤忠広徳川家光への謀叛嫌疑かけられ改易となり、同年肥後国豊前国小倉藩細川忠利与えられる寛永14年1637年)、島原の乱における原城のような立て篭もりを防ぐため、徳川幕府西国廃城対し再度破却命じ城跡徹底的な破却受けたその後城地内には造作禁止令が出され荒蕪地として放置されたため、石垣部材抜き取りや土採りなどに遭い城跡荒廃進んだ正保3年1646年)に、細川行孝宇土郡3万石分封され、宇土藩成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町宇土陣屋設けて宇土細川11代が治め明治至っている。

※この「近世・宇土城」の解説は、「宇土城」の解説の一部です。
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