近世・宇土城
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天正16年(1588年)小西行長は、肥後国宇土郡、益城郡、八代郡あわせて17万5,000石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13mの城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。しかし、普請に際して天草の国人衆が助力を拒否したことから天草国人一揆が生じたため、実際の普請開始は翌天正17年(1589年)頃からと見られている。 行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷・城下町が水堀と運河によって一体的に結合されることで「惣構」を形成するという防御的な性格を有していたことが、市内各所の発掘調査によって明らかになりつつある。 慶長5年(1600年)7月、上方へ出陣していた行長が西軍(石田方)に呼応すると、加藤清正は徳川家康から8月12日付で肥後・筑後切り取り次第の御内書を取り付ける。9月15日、清正は豊前国の黒田如水応援のため豊後国へ出陣した。しかし、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかる。 9月19日に前哨戦である石ノ瀬口の戦闘が始まり、翌20日は城下での戦闘を経て、同日清正が宇土へ到着し、21日には5方向からの惣攻めが開始される。10月2日には三ノ丸まで抜かれ、本丸・二ノ丸の攻防戦に入っているが、10月13日に城代小西隼人は宇土城開城に合意し、14日に実際に執り行われたのではないかとされている。 清正は、宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが、清正が慶長16年(1611年)に死去すると、翌慶長17年(1612年)、水俣城・矢部城とともに破却された。熊本城の宇土櫓は、かつては宇土城天守閣を移築したとの説があったが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されている。 寛永9年(1632年)、2代加藤忠広は徳川家光への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は豊前国小倉藩主細川忠利に与えられる。寛永14年(1637年)、島原の乱における原城のような立て篭もりを防ぐため、徳川幕府は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。その後、城地内には造作禁止令が出され、荒蕪地として放置されたため、石垣部材の抜き取りや土採りなどに遭い、城跡の荒廃が進んだ。 正保3年(1646年)に、細川行孝が宇土郡3万石を分封され、宇土藩が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて、宇土細川11代が治め、明治に至っている。
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