近世・安土時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:34 UTC 版)
安土時代以前、織田信長は室町幕府15代将軍足利義昭に対し、『殿中御掟』(1569 - 1570年)を承認させたが、初期の条目では、「訴訟規定は従来通り」と記され、1569年時点では裁判制度で目立った変革は確認されないが、70年の追加条目に、「天下の政治が信長に移行したため、将軍の上意ではなく、信長自身の判断で成敗させること」の旨が記されており、実質的に権力頂点が信長に移ったことを意味する。この3年後に安土時代(1573 - 1585年、織田政権)が始まるも、9年後の本能寺の変(1582年)において信長は自害に追い込まれる。その勢力も、近畿圏、中部、中国と四国の一部であり、全国に及ぶものではなく、依然として、各戦国大名による分国法の統治時代である。 なお信長自身は若き日に火起請を経験したことが『信長公記』には記述されており、年次の記載はないが、左介と呼ばれる被告が焼けた鉄片を落としたにもかかわらず、それをかばおうとする不正が行われようとした時、その場に偶然来た信長が、自ら火起請を行って、成功したら左介を成敗すると宣言し、成功させ、左介を成敗したとある。これは神明裁判であっても、不正があったという内容でもある。
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