近世・土井家の菩提寺
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「正定寺 (古河市下大野)」の記事における「近世・土井家の菩提寺」の解説
江戸時代になると、寺がある下大野村は古河藩領になった。寛永10年(1633年)、土井利勝が古河城に入る。利勝は正定寺41世・当誉玄哲を招き、古河城下に同名の正定寺を創建した。利勝は当初、浄土宗「旧跡」・「浄家の道場(談義所)」である当寺をそのまま土井家の位牌所にしようと考えたが、城下から遠かったために寺号と僧侶を引き移した。以後、二つの正定寺は土井家から同様に扱われて保護される。承応3年(1654年)には、土井家により本堂・山門・仁王像が修復され、山林1町余畝歩が寄進されている。貞享3年(1686年)、幕府の本末制度・檀林制度の整備にともない、檀林となっていた結城・弘経寺の末寺に編入され、一地方寺院に位置づけられた。 慶長9年(1604年)、古河藩領・鳥喰村に寺領3石を認められた黒印状を受けている。その後も朱印状獲得のため、貞享4年(1687年)から延享3年(1746年)にかけて、たびたび運動した記録が残っているが、目的を果たすことはできなかった。なお、宝暦13年(1763年)には、黒印地3石を引き続き保持している。
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