輸送機型への改造と運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 00:51 UTC 版)
「深山 (航空機)」の記事における「輸送機型への改造と運用」の解説
深山は陸上攻撃機としての開発が打ち切られた後も連山開発の参考として試験飛行を続けていたが、南方での戦闘が激化した1943年(昭和18年)後半以降改めて増加試作機4機については実戦投入や廃棄処分を含めてその扱いが議論され、その結果武装と試験飛行で問題となった油圧式の操縦系統を外し、胴体下部の銃座跡には貨物搬入扉、胴体内部には貨物積み下ろし用の手動クレーン、操縦席後部には定員8名の客室を備えた輸送機に改造され、1944年(昭和19年)2月には深山改輸送機(機番はG5N2-L)として第一〇二一航空隊に配属された。本機は主に日本本土からテニアン島ほかマリアナ諸島への輸送に用いられたほか、台湾、フィリピン、パラオとの基地間輸送にも充てられ、日本からの輸送では主に落下式増槽や航空機の予備エンジン・プロペラに弾薬、医療品といった前線で必要とされる機材・資材を、南方各基地からは物資以外に本土に向かう人員や戦死者の遺骨を運んだ。また旧爆弾倉部分を利用して魚雷2本を収容できることから「魚雷運搬機」として魚雷を空輸するなど機体の大きさを生かした輸送任務に就いたが、元が試作機であることから各部の整備に手間を要しただけなく、前線基地の飛行場ではその規模と重量が滑走路や駐機場に悪影響を与えるといったトラブルも起こした。 問題を抱えながらも深山は定期的な南方への輸送に投入されていたが、1944年(昭和19年)4月には台湾から鹿屋へ飛行中の1機が着陸直前に墜落、6月には第一〇二一航空隊本部が進出していたテニアン島への攻撃が始まり空襲で深山1機が失われ、さらに8月には同島の玉砕により第一〇二一航空隊も多くの戦死者を出した。玉砕後本土の残存隊員を中心に再編された第一〇二一航空隊では2機を残すのみとなった深山が8月24日に編成から外され、以後は厚木基地の地上訓練機材として置かれた。1945年(昭和20年)になると本土への空襲が激しくなるが、格納庫に入らないため外に置いてある深山を、アメリカの戦闘機は新型機だと思いしつこく機銃掃射するといったこともあって機体の破損は激しかったが、終戦まで深山は厚木基地に残され、戦後現地で処分された。
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