輸送機設計研究協会(輸研)の設立
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「日本航空機製造」の記事における「輸送機設計研究協会(輸研)の設立」の解説
1957年(昭和32年)4月に通産省と航空工業会の臨時役員会により、輸送機の基本構想をするための財団法人輸送機設計研究協会(輸研)を東京大学内に設立することが決定、5月に発足した。 輸研に参加したメーカーは新三菱重工業、川崎航空機、富士重工業(現・SUBARU)、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機の機体メーカーと住友金属、島津製作所、日本電気、東京芝浦電気(現・東芝)、三菱電機、東京航空計器の部品メーカーであった。新型航空機の開発の大型プロジェクトを特定の企業一社に独占的に任せることは他社の反発を招くことを懸念した為である。 理事長に新三菱重工副社長・荘田泰蔵が選任され、専任理事に木村秀政(日本大学教授:航研機設計)、設計陣に堀越二郎(新三菱技術部次長:零戦、雷電、烈風設計)、太田稔(富士重工社長室付:隼設計)、菊原静男(新明和:二式大艇、紫電改(及び紫電)設計)、土井武夫(川崎航空機:飛燕、五式戦闘機設計)を迎え、輸送機の設計を開始、名称をYS-11とした。 輸研は翌年の1958年(昭和33年)12月11日に、横浜市の日本飛行機杉田工場でモックアップ(実物大模型)を発表した。国民の理解を求める為と言うのが表向きの理由だったが、政治家や役人が予算を引き出しやすくするためのデモンストレーションであった。そのため、技術的な検討を目的とするものではなかったので、客室の艤装に力を入れ、航法士席や二つの化粧室を設け、横列5席の構成とし、内装は当時の有力デザイナーの渡辺力に依頼して、西陣織の座席が設置された。この座席は当時の価格で一席50万円以上したと言われている。内装など見栄えは良いが、細部は矛盾だらけという、技術者が見れば笑ってしまう代物であった。また、製作予算が不足した為、スタッフが隠れてライトのスイッチを操作し、点滅させていた。
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