象の払下げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:03 UTC 版)
触は出されたものの10年以上も払下げ先が定まらず、一方、象の健康状態は不安定で性格もすさみ、寛保元年(1741年)には象が気を荒くして象使いを叩き殺すという深刻な事件が起こった。この事件を機に、象は中野村(現、東京都中野区)の百姓源助と柏木村の弥兵衛に払い下げられた。結局、浜御殿で飼育されたのは約12年におよんだことになる。その間、享保16年(1731年)の8月5日には、本郷の加賀藩江戸藩邸上屋敷に象を連れてきて、藩主前田吉徳が見物している。諸侯が望めば引き寄せて見物ができ、御徒以上は浜御殿においても象見物をすることが認められていた。象は、餡のない饅頭をことのほか好んだ。 象を引き取ることとなった源助は中野の成願寺のそばに象厩(きさや、象小屋)を建てて(寛保元年2月完成)、4月27日に引き渡された。幕府は、象小屋建設の費用397両を負担した。また、象使い5名を源助・弥兵衛のもとに差し向けて飼育法を学ばせ、さらに、飼育料として1月に金125両および部屋代として水油と薪を3年間支給することとした。象の払下げは経費削減という理由はもとより、「火の元の用心」が払下げ理由として掲げられていることから、火事の多かった江戸の災害時を想定しての治安上の理由も考えられる。実際、中野村では寛保2年7月1日に、払下げられた象が繋綱を引きちぎって小屋を押し破る騒動があり、このときには町奉行から与力2名、同心5名が派遣されている。 当初、人びとは象見物に殺到し、象に関する商品をあらそって購入したが、そのうち見物人は減っていった。エサも貧弱なものになっていった。源助らは見物料を徴収するなどして飼育をつづけたが、象は突然病気となり、手厚い看護がなされた。武蔵国上落合村の馬医幸山五左衛門から診察と投薬もなされた。しかし、それもかなわず寛保2年12月13日(西暦1743年1月8日)に中野村で病死した。およそ21歳であったと考えられる。 象の遺骸は解体されて骨と皮に分けられ、皮は幕府へ献上され、骨や牙は源助へ与えられた。肉は塩漬けにして60樽分となったが、やがて腐敗してしまった。象の骨や牙はなお見世物として、25年もの間源助に収入をもたらしたという。骨と牙はその後、中野の真言宗豊山派寺院の宝仙寺に納められ、『江戸名所図会』などでも「馴象之枯骨」の名で取り上げられたが、太平洋戦争の戦災に遭い、一部が失われた。象皮については、宝仙寺で保管されていたという説もあるが、大和国奈良の由緒ある製墨業者、古梅園が寛保3年(1743年)に幕府より象皮・象鼻をあたえられたという記録があり、吉宗の命により、その皮から「香象墨」を製造し、鼻は古梅園で現在も保管されていると言い伝えられている。 現在、象厩の跡は中野区立朝日が丘公園(東京都中野区本町二丁目32番地)になっており、現地には中野区教育委員会の説明板が設置されている。なお、当時象をデザインした商品のうち宝仙寺所蔵のものは、現在、中野区立歴史民俗資料館に保管されている。
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