議会での人気の急落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 16:51 UTC 版)
「ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)」の記事における「議会での人気の急落」の解説
1625年3月に即位したチャールズ1世のもとでも寵臣として権勢をふるい続けたが、同年6月に召集された議会では税制問題やプファルツ奪還作戦の失敗、国王がアルミニウス主義を奉じていることなどについて宮廷(特にその中心人物であるバッキンガム公)批判が高まった。 バッキンガム公はそうした批判を懐柔しようと、10月に議会が志向するスペインとの海上決戦を目指して宣戦布告(英西戦争(英語版))、カディス遠征を実施したが敗北した。これはバッキンガム公の無能さというより、軍艦の技術が高くなりすぎて武装商船では対抗できなくなっていたことが原因だった。つまり議会が志向する海上決戦の構想自体がもともと無理があったのだが、議会はそれを斟酌せず、バッキンガム公批判を強めた。ただし遠征艦隊や首脳陣に問題があったことも確かで、チャールズ1世が艦隊へ宛てた命令書は攻撃目標が曖昧で、弾薬・糧食不足で準備も出来ていない、翌1626年に召集された議会が遠征に失敗した艦隊司令長官を非難すると、バッキンガム公とチャールズ1世が握り潰して議会を解散するなど、遠征失敗を誤魔化す姿勢が浮き彫りになった。 また当時のイングランドではフランスがイングランドから借りた軍艦をユグノー(フランスのプロテスタント)弾圧に使ったために反仏世論が高まっていた。国王とバッキンガム公もフランスがスペインと積極的に戦おうとしないことに苛立っていたので1625年末に至って外交方針を転換し、イングランドがプロテスタント同盟の盟主となる路線、すなわちオランダと同盟を結んでフランスのユグノーを援助することを決定した。 この路線はプロテスタント強硬論に立つ議会多数派が従来から主張していたものであるから、国王としては当然議会からの支持が得られるものと踏んで、対スペイン戦争の財政援助を求めるべく議会を招集した。ところが国王とバッキンガム公の予想に反し、翌1626年2月に召集された議会は反バッキンガム公派の議員が多数選出された。反バッキンガム公ムードの高まりの中、かつてはバッキンガム公支持派だったサー・ジョン・エリオット議員の主導でバッキンガム公の罷免を求める弾劾が行われた。エリオットはその中で「バッキンガム公の高慢で広範囲にわたる圧政は人間ばかりではなく、法や国家にも及んでいる。陛下の意向、公にされる指令、制定法、枢密院会議の決定、法廷での判決、そのどれもがバッキンガム公の意志に従属させられている」と恣意的統治を批判し、またバッキンガム公が権力濫用して公金を横領しているとして「陛下にとっては財産を湯水のごとく使い果たす国庫に巣くう害虫であり、国にとっては不正を優先させ、善行を妨げる滋養分を吸い取る蛾のような存在」と罵倒した。これに対してバッキンガム公は「私の心が国への奉仕から離れているとしたら、私は最大の忘恩の徒でありましょう」と弁明した。 こうした議会での批判の高まりにもかかわらず、国王はバッキンガム公を擁護し続けた。国王は対スペイン戦争の補助金をあきらめ、バッキンガム公弾劾が貴族院で判決される前に議会を解散した。結局、6月までに庶民院から認められた特別税は20万ポンドで、必要額の三分の一にすぎなかった。 また議会開会中、国王とバッキンガム公は議会運営を円滑にしようとエドワード・コークやトマス・ウェントワースら反政府派の代表的な庶民院議員を庶民院議員との兼職を禁じられているシェリフに任じることで庶民院から排除したために反発を招いた。貴族院においても第21代アランデル伯爵トマス・ハワードや初代ブリストル伯爵(英語版)ジョン・ディグビーらを議会活動から遠ざける処置をとったので、貴族院の怒りもかった。補助金を得られないばかりか、国王と国民代表の距離が広がっていることを顕在化させることになった。
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