諸法の成立
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マサチューセッツのボストンでは、1773年の茶法を議会が成立させたことに抗議する自由の息子達が、ボストン港に税の対象である茶を大量に投棄した。これがいわゆるボストン茶会事件である。この事件の報せは1774年1月にイングランドに届いた。議会は一連の法律を制定することで反応し、私有財産を不法に破壊したことについてボストンを罰し、マサチューセッツにおけるイギリスの権威を取り戻し、そしてその他アメリカにおける植民地行政の改革を目指した。 1774年4月22日、イギリス首相フレデリック・ノースは庶民院で次のように述べてこの計画の肩を持った。 アメリカの者たちは、諸君の臣民にタールを塗り羽根を付け、諸君の商人を襲い、諸君の船を燃やし、諸君の法と権威に従うことを一切拒否している。温和たれ、寛容たれというのがこれまでの我らの指針であったが、いまや異なる道を選ぶべきときがきた。その結果がどうあろうとも、我々は何がしかのリスクを冒さねばならない。さもなくば、すべてが終わる。 ボストン港法:ボストン茶会事件に反応して最初に成立した法律。東インド会社が破棄された茶の弁償を受けるまで、また秩序が回復されて国王が満足するまでボストン港を閉鎖した。植民地人は茶を破棄した個人ではなく、ボストン全体をこの法で罰することに反対し、また弁護のために証言をする機会を与えられずに罰されることにも抗議した。 マサチューセッツ統治法:この法でマサチューセッツの政府を一方的にイギリス政府の支配下に置くよう変更したのでボストン港法よりも大きな怒りを生んだ。統治法の条件下で植民地政府のあらゆる役職者はイギリス政府あるいは国王によって指名されることとなった。この法はまたマサチューセッツにおけるタウンミーティングの活動を厳しく制限した。マサチューセッツ以外の植民地は自分たちの政府もイギリス議会の専断で変えられてしまうことを恐れた。 裁判権法:マサチューセッツの役人が告発され、そこでは公正な裁判が受けられないと考えるときに、総督が他の植民地あるいはイギリス本国に裁判の地を移すことを認める法律。この法では証人にその旅費を払うと規定したが、実際には裁判で証言するために仕事を放って大洋を渡ることのできる植民地人はほとんどいなかった。ジョージ・ワシントンは、イギリスの役人がアメリカ人に危害を加えても裁きを逃れることを可能にすると考え、この法を「殺人法」と呼んだ。1770年のボストン虐殺事件のあとでイギリス兵に公平な裁判が行われなかったので、植民地人の中にはこの法が不要だと考える者がいた。 宿舎法:この法は全ての植民地に適用され、アメリカでイギリス軍の兵士により効率的な住居をあてがう方法を生み出すようにされた。以前の法律では、植民地は兵士たちに住居を供給するよう求められていたが、植民地議会はそうすることに非協力的だった。新しい宿舎法では、適当な宿舎があてがわれない場合に総督が他の建物を兵士に供することを認めた。多くの史料では宿舎法で軍隊に個人が占有している家に泊まれるようにしたと主張するが、歴史家のデイビッド・アマーマンによる1974年の研究では、それが神話であり、誰も住んでいない建物に泊まることを認めただけだと主張した。多くの植民地人は宿舎法が反対すべきものと考えたが少なくとも耐え難き諸法に対する抗議を生んだ。 ケベック法:ボストンの事件には関連のない法律だったが、その通過したタイミングから植民地人をしてそれが自分たちを罰するための計画の一部だと考えさせた。ケベック植民地の領土を拡大させ、その地域のフランス系カトリック教徒住民に一般的に有利な改革を施したものである。ただし選挙による植民地議会を開くことは認めなかった。ケベック法はイギリス植民地の様々な集団の利益に反していた。土地の投機家たちや開拓者たちは植民地が権利を主張している西部の土地を代表権のない政府に渡してしまうことに反対した。多くの者はケベックでカトリックが優勢になることを恐れ、フランス系カナダ人はイングランド系アメリカ人を圧迫するよう求められるのを恐れた。
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