誕生と家系
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小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、現在の長野県信濃町柏原に生まれた。本名は弥太郎。一茶が5月5日生まれであることは、自著である寛政三年紀行の中に明記されており定説となっている。しかし一茶が所有していた年代記の宝暦13年の部分には、9月4日(1793年10月10日)に一茶が生まれたとの書き込みがなされている。この年代記には一茶以外の人物による書き込みもあり、問題の9月4日生まれとの記述が一茶本人のものであるかはっきりとしないため、定説とされていない。平成16年(2004年)には、一茶が生年月日を「宝暦13年5月5日」と自書した新資料が発見されており、一茶が宝暦13年5月5日に生まれたことはほぼ確実視されている。 一茶の誕生時、父親の弥五兵衛は31歳、母のくには生年を示す資料が無く、一茶誕生時の年齢は不明である。一茶は両親の第一子で長男、家族としては他に父方の祖母のかながいた。一茶の家族の暮らし向きは、誕生当時、柏原では中の上クラスであったと考えられている。 一茶の先祖については、柏原村の名主を務めた中村権左衛門家に伝えられた文禄元年(1592年)に近隣の芋川(現・長野県飯綱町)から柏原に移住してきたという系図と、やはり柏原村の本陣であった中村六左衛門家に伝えられた元和2年(1616年)に越後の長森村(現・新潟県南魚沼市)から移住してきたとの系図の2つの伝承があるが、いずれにしても安土桃山時代ないし江戸時代初頭に柏原の地へ移住してきた農民であったと考えられている。一茶の一族である小林家は、戦国時代の混乱期が終わった直後に柏原へやってきた柏原でも有数の旧家であり、名主を務めた中村権左衛門家、本陣であった中村六左衛門家に代表される中村一族に次ぐクラスの家柄と目されていた。事実、一茶と同時代に小林家の本家筋の家長であった小林弥市は、要職は中村一族にほぼ独占されていた柏原において組頭を務めていた。なお、一茶の一族は小林という姓を名乗っているが、近世、多くの庶民は苗字を持っていたのが実態であり、特に小林姓を名乗っていたことと身分との関連性は無い。 先祖についての確実な記録は、明和8年(1771年)に一茶の大叔父にあたる弥五右衛門が建立した、小林家一族の墓に刻まれた延宝9年(1681年)没の善右衛門まで遡れる。善右衛門は一茶の高祖父にあたる。一茶の曾祖父、弥兵衛は分家であったと考えられ、また祖父である弥五兵衛も享保18年(1733年)に、兄であり小林一族の墓を建立した弥五右衛門から分家したことが伝えられている。当時、北信濃の山間部は兄弟同士で遺産を均分して相続する均分相続の習慣があり、一茶の祖父である弥五兵衛は兄の弥五右衛門と耕地をほぼ均等に分割している。 祖父の弥五兵衛は分家後数年で亡くなり、一茶の父である弥五兵衛が幼くして家を継いだ。まだ幼かった一茶の父、弥五兵衛は、当初本家にあたる叔父の弥五右衛門の後見を受けていたと考えられるが、母のかなとともに努力を重ね、宝暦10年(1760年)には伝馬屋敷内の一軒家を購入し、同じ頃に柏原の新田である仁之倉で村役人を務めた有力者である宮沢氏の娘、くにと結婚する。小林家が柏原では有力な家系であるとはいえ、一茶の父の弥五兵衛は分家筋にすぎず、そこに有力者の娘が嫁いできたのは弥五兵衛の人物を見込んでのこととも考えられる。なお、一茶の曾祖父にあたる弥兵衛はもともと分家であったと考えられるが、本家であった兄の家系が絶家となったため、弥兵衛の長男である弥五右衛門の家系が本家となった。前述のように一茶の時代、小林家の本家は弥市が家長であり、弥市は一茶と腹違いの弟との遺産相続問題の解決などに関与することになる。 また、一茶の母の出身地である仁之倉は柏原の新田であったが、新田の開墾を主導した中村六左衛門家は仁之倉の人々を家来のように扱っていたこともあって、柏原との関係はぎくしゃくとしていた。このことは一茶の後半生に少なからぬ影響を及ぼすことになる。
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